平成28年5月29日(日)に尾花沢市細野地区において、村おこしの一環として「高い山運開き」が行われました。同地区はかなり前から村おこしを熱心に行っています。我が畑沢の約4倍の戸数があることもさることながら、何よりも素晴らしいのは、同地区のリーダーたちが長年にわたって努力してきたことです。私も畑沢の振興のために何かできることがあるのではないかと、4年ほど前に御指導を仰ぎました。
さて、このたびのイベントに山登りと山菜取りの二種類がありましたが、私は山登りに参加しました。大平山登山です。畑沢の人たちにとって、「大平山」と言われてもピンとこないところがあります。「大平山」のネーミングは、細野地区の「おんだいらやま」に因んだもので、畑沢ではこの呼び方をしていません。畑沢では、山の斜面の方向によって、「宝沢山(ほうざやま)」「真木山(まぎやま)」「桂葉(かづらぱ)」と三つの名前で呼ばれており、畑沢の集落から見える斜面は宝沢山(ほうざやま)です。明治時代になって正式なネーミングをするときに、細野地区での呼称が採用されたようです。あれっ、本題から脱線しました。本題に戻ります。イベントの受け付けは7時半からなので、私は6時半に山形を出発して細野へ急ぎました。うれしいことに、快晴です。細野に着くと、集合場所になっている「かあちゃん広場」には、大勢の人が集まっていました。車を誘導する人も大勢いらっしゃいました。よく見ると、延沢地区の人も手伝っていました。私が中学校時代に科学クラブでお世話になった先輩です。あの先輩には、いろいろと面白い実験(ロケットエンジン)を体験させていただきました。細野地区のイベントが、細野地区からさらに広がっています。
駐車場は、集合場所から歩いて2分ぐらいの所にありました。その場所も興味深い場所でした。ブナ(山毛欅)が育苗されています。まだ、10cmぐらいの太さですが、成長すると樹高が50mぐらいの大木になります。その樹間に次々と駐車されていき、満杯状態です。
8時から開催開催式です。遠くの正面には大平山が聳えていました。雲が全くありません。先ず五十嵐K会長が歓迎の挨拶をされました。永年の間、細野地区の方々をリードしてきた方です。続いて、大勢の来賓からの挨拶もいただきました。残念ながらせっかく御挨拶していただきながら、私は撮影に夢中でしたので、お話の内容が頭に入っていません。申し訳ないことをいたしました。
式の最後には、お払いが行われました。
登り口で自動車を降りて、登山開始です。
大平山の標高は、813.6mなので、それから登り口の標高を引けば、たかが4百か5百メートルを登るだけだとすれば、一時間と少しで山頂に達するだろうと高をくくっていました。しかし、上り道の傾斜が半端ではありませんでした。例えば、飯豊山系の北股岳に直登する梶川尾根の傾斜と同じぐらいはあります。それでも、暗い杉林を抜けて広葉樹林に入り、さらに尾根筋に至ると視界が広がります。眼下に細野地区集落が見えてきました。左側に枝分かれしている集落は、畑沢ですが遠くて小さくなっていました。双眼鏡で確認しましたところ、下畑沢でした。延沢の集落周辺も横一文字になっています。さらに遥か彼方には、右に「双つ森」「翁山」、中央から左にかけては神室山系が見えます。
急峻な山道でも、優しい案内人の心づかいにより余裕を持って登ることができました。当然、時間がかかってしまうのですが、たっぷりと互いにお話をする時間を作ってくれました。
「何処から来たのですか」
「今は山形だげど、畑沢出身だー」
「実は、俺も畑沢さ関係あるんだー」
「なしてやー」
「畑沢の〇〇の家分がっがー」
「ああ、あそごがー」
このようにして、お話をしていましたら、何と一行の中に三人もが畑沢に所縁(ゆかり)がありました。
やがて、急峻な山道が終わってなだらかになり、周囲の植生もがらりと変わってきました。一面がブナ林です。そう、畑沢の宝沢山(ほうざやま)に入ったのです。ここは、畑沢村の人たちが山を守るために長年かけて国へ働き掛けて払い下げを受けた区域です。伐採を禁止して、水源涵養の林となっています。清水畑にその石碑があります。このブナ林の下の方には、畑沢の簡易水道の水源があります。
山頂はきれいに刈り払われています。細野の人たちが4、5年前に大変に苦労されたと聞いています。遠くの高そうな山は、甑岳です。
山頂の祠(ほこら)です。このように石で作られているのは、畑沢も含めてこの地域では「万年堂」と呼んでいます。写真の人は、祠の中に新しい「お札(ふだ)」を入れています。毎年、お札を更新するそうです。この祠の後ろには、「八紘基柱」と書かれているそうです。「八紘一宇」ならば、とある国会議員が発言して大きな顰蹙(ひんしゅく)を買ったことがありましたので、それなりに分かりますが、「八紘基柱」は全く聞いたことがありません。下山後ネットで調べましたら、Wikipediaに「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」と言うのがありました。「之」の文字があるかないかの違いはありますが、「八紘基柱」と「八紘之基柱」は同じ意味かなと思います。それによりますと、「八紘之基柱」は、宮崎県宮崎市の平和台公園に位置する塔のことだそうです。八紘一宇を体現した日本一の塔を目指して作られたそうです。八紘一宇は、太平洋戦争に突入して、日本中がきな臭くなっている中での日本のスローガンでした。そして、村人たちは故郷を離れて、続々と戦地に駆り出されることとなっていきます。この万年堂は、どのような願いを持っているかは分かりませんが、その時代の細野村の人たちの悲しみが伝わってきます。
細野村で最も歴史に詳しい人も一緒に登っていましたので、いろんな説明をお聞きすることができました。写真の大きな岩は「烏帽子岩」と言うのだそうです。ん!、すると私が三年前に畑沢から登ってきて、途中で見た岩は何だったのでしょうか。私は、それを「烏帽子岩」と説明していました。またもや、私は間違っていました。あの岩は、「大獅子岩」だったのかもしれません。ごめんなさーい。