畑沢の最北部には、戦国時代に作られたと思われる大規模な楯の跡があります。野辺沢城領域の最南端部に位置し、楯岡を始めとした他国からの侵略に対する防御として、また逆に南部方向に進軍する時の最前線基地として機能したものと思われます。楯の周囲には、楯に因んだと思われる沢山の地名が残されています。野辺沢遠江守の幼名である「又五郎」、楯を守った武将と思われる「小三郎」と「平三朗」、堀切(ほりきり)の所在を示す「一の切り」「二の切」「三の切」といったものです。これまで、小三郎、平三朗、又五郎、三の切へ行ったことがありますが、まだ一の切りと二の切へは行ったことがありませんでした。一の切りの近くには砂防ダムが築かれていますので、何となく後ずさりしています。そこで、今回は二の切へ行ってみることにしました。そして、もう一つの理由がありました。去年の秋に楯跡の曲輪から二の切の方を除いた時に、急斜面の途中に階段状の地形が見えました。それを確認したいのですが、曲輪の方から下に降りるには急斜面過ぎて危険なので、二の切から上へ登ろうとしたのです。
平成29年5月2日、沼沢林道から西の方を覗(のぞ)いた写真です。手前に千鳥川があるのですが、小さな崖の陰に隠れて見えません。川の西の奥に向かって田んぼの跡らしきものが続いていて、沢の両脇が杉林になっています。
二の切の沢に入って、いきなり猪の塒(ねぐら)を見つけました。猪の塒は、3年ほど前にも畑沢の寺田沢で見ましたので直ぐに分かりました。塒の近くには猪が泥をかき回した「ヌタ場」があり、二つに割れた足跡もありましたので、猪がいることは間違いないようです。今や、猪は畑沢全域を我が物顔で闊歩しているようです。
二の切の沢を奥へ進んでも、依然として田んぼの跡です。地形が段々になっていて、倒れたアシの枯れ草に覆われています。アシが伸びてくるととても足を踏み入れることができなくなります。五月のこの季節だからこそ入り込めた場所です。
二の切の奥で、田んぼの跡が途切れました。田んぼの跡よりも上には、杉が植えられていました。その近くには山菜がどっさりと生えていました。コゴミと呼んでいるある羊歯植物の若芽です。しかし、食べごろの時期が過ぎていて、葉が真っすぐと天に向かって開いていました。
さらに杉林の奥は、広葉樹の藪(やぶ)です。とても、この日は藪漕(やぶこ)ぎをする体力と気力がありませんでした。最近、体力と気力が弱くなっています。1月に雪降ろしで左腕に肉離れの炎症を起こし、2月には肺炎球菌ワクチン接種後に高熱を出すなどしたために、運動不足だったのです。年を取ると、運動不足は直ぐに影響してしまいます。でも、少しずつ運動を再開していますので、徐々に体力が回復しつつあります。筋力と脳の働きは、まだまだ鍛錬できます。
肝心の楯に関する段々地形の確認は、写真撮影だけにしましたが、全く確認できないと同じようです。労を惜しんでは目的は達成できません。そんなことは分かっているのですが、今の私の実力はこんなものです。写真に見える稜線部は楯の曲輪の際です。尾根に三つの大きな曲輪があり、その一番北の曲輪です。それにしても、険しい所です。
最深部を見ましたので、元来た方へ戻ることにしました。すると、人の足跡がありました。私以外にも人が入ってきたようです。足跡をよく見ると、スパイクが付いています。山菜採りを本格的に行う人がよく使います。どんな斜面でもずり落ちることなく登れます。私は使ったことがありません。登る人にとっては便利な物なのですが、地面にはかなりの損傷を与えます。勿論、スパイクがない靴でも自然に損傷を与えますので、偉ぶったお話はできませんが、損傷程度を抑える心配りはあるべきことと思います。
次の写真はコゴミがむしり採られた跡です。スパイクを付けた御仁は、やはり山菜取りだったようです。
登る時には気づかなかったのですが、沢から東を眺めると、立石山が正面に見えました。残念ながら山全体が無残な傷跡になっています。このような姿になってから、もう何十年も経っています。採石を始める時の許可条件には、緑化などの環境保全工事を義務付けていたはずですが、「会社が倒産してしまったので、できません」となりました。全国の採石業者の常套手段です。「許可の際には環境保全経費を供託金にすべきである」と半世紀も前から言われていたのですが、まったく制度化されないままです。採石を始める時は新会社を作り、採石を終了しようとする時は「採算が取れなくなった」として、会社が倒産します。さて、この立石山採石の実態はどんなことだったのでしょうか。
沢の中に、白い動物の毛が落ちていました。「もしや、山の獣が密猟者の餌食になったのではないか」とも思ったのですが、とんでもございません。野兎もカモシカも猪もそして狐も冬毛から夏毛に変わったのでしょう。冬毛が抜け落ちたものです。