封人の家の先祖である「有路小三郎」が、背中炙り峠の楯に因んだ地名の「小三郎」であったであろうと推察するのには、我田引水的な強引さがありますが、私なりの三つの理由があります。
一つ目は、「有路」が畑沢に大いに関係している姓であることです。野辺沢家の家老であった有路但馬の息子は、最上家改易(西暦1622年)後に畑沢へ帰農しました。筆頭家老ならば、もっと裕福な地域に移り住むのなら分かりますが、耕地面積が極端に少ない畑沢にわざわざ住むと言うのは、有路家と畑沢と特別に関係が濃い特別な理由があったと考えられることです。
野辺沢家の筆頭家老の有路一族が帰農した「向かい」地区
例えば、有路家が畑沢に二つもあった楯との関係が考えられます。そのうちの一つの「山楯」は、集落の中に作られていました。山楯からは集落全体を見通すことができる位置にあります。山楯は交通の要衝としての集落を統治することを目的としたと考えられ、その役目は荒屋敷を中心に暮らしている大戸一族が担っていたと思われます。
もう一つの楯である「背中炙り峠の楯」は、外敵からの侵略に備えたものです。村山地域が最上家に統一される前は、山形、天童、楯岡等の方向に対する備えであり、その後の豊臣勢と徳川勢との対立時代においては、上杉家に対する備えでした。背中炙り峠の楯は、長期間にわたって野辺沢家の最も重要な前線基地だったのです。当然、その重要な任務は重要な家臣に任されていたでしょう。野辺沢家で最も重要な家臣は、筆頭家老である有路但馬です。有路但馬が直接、その楯の任務に就いていたと考えても、何ら不思議はありません。小三郎、平三郎はその有路一族の者だったと考えました。有路但馬の一族は畑沢にどっぷりと関わっていたのではないでしょうか。
そして、関ヶ原の戦いが終了して平和な時代になり、峠の楯の役割が終わりました。何らかの理由により、小三郎はその時点で武士を捨て、最上町の堺田に帰農しました。まだ最上家が改易される前です。