前々回の土橋、前回の宗教関係の建物等に続いて、今から約300年前の畑沢を現在と比べながら古文書から覗いてみます。今回は畑沢村の職業について、百姓以外のものを拾ってみました。
畑沢村差出明細帳 正徳四年(1714年)
一、 當村ニ浪人無御座候(当村には、浪人はいません。)
畑沢には、野辺沢家に仕えていたが、最上家改易に伴う野辺沢家の消滅によって、畑沢に帰農した者が何人もいたようですが、完全に農民となっていて、「浪人」扱いにはならなかったようです。
一、 醫師無御座候(医師はいません。)
正式な医師はいなかったようですが、医師的な役割をしていた市三郎という村人がいて、大変な金持ちになり羽振りが良い生活だったとの伝説が残っています。背中炙り峠越えの街道が通っている畑沢村ですから、旅人にとっても助かったことでしょう。
一、 山伏壱人御座候 當山 正福寺申候(山伏が一人います。正福寺と申します。)
「山伏」と言うと、今の羽黒山などで見られるように法螺貝を吹き、小さな箱の様な物を背負い、小さな多角形の帽子の様な物を頭に載せて棒を手に持っている姿を思い浮かべますが、村に在住していた当時の山伏はかなり様相が異なります。当時は神仏習合で神社にも仏が祀られていましたし、「山伏」は現在の神主の役割の外に、占い、加持祈祷、湯殿山参りの世話、村の石仏に係る行事などもやって、多岐多彩なことに関わっていたようです。山伏には特典があり、お寺と同じように年貢の取り立てを免除されていました。その意味では、普通の農民よりかなり余裕のある生活ができたと思われます。山伏は妻帯しており、代々受け継がれていたようです。山伏の屋敷内には、その家だけの祠(ほこら)が祀られていましたので、この祠でも特定できそうです。
明治になって神仏分離を強く推し進められた結果、ある程度に大きい神社の別当になっている者は完全に仏教を捨てて神官となり、また密教を選んだ者は天台宗や真言宗の「寺」の住職となりました。このどちらでもない山伏の大部分は、普通の農民となりました。
畑沢の山伏は、幕末まで存在していたと思われます。それでは幕末よりもさらに約150年前の村差出明細帳に出てくる正福寺という山伏の家が、代を重ねて幕末まで続いたかも興味あるところで、畑沢で山伏であったと思われる家もほぼ特定できそうな気もしますが、現在はそこに在住しておりませんので、確認することができませんでした。
さて、山伏はどこの村にも一人はいたようで、尾花沢市史編纂委員会が1978年に発行した「尾花沢市史資料 第5輯 村差出明細帳 附一年貢割付状.皆済目録」から畑沢以外の尾花沢市内の村明細差出帳に記載されている山伏また神職と思われる事柄を抜き出して表にしてみました。
上の表で尾花沢村の3人のうち2人については、「山伏」とか「修験」の単語が使われていません。普通の山伏でない神職かもしれませんが、確認できる力量は私にはありません。いつものように、何方か教えてください。
一、 行人・神子・道心者・鍛冶・大工・桶屋・舞廻・猿引・、此通り無御座候(行人(乞食僧のこと)、神子(巫女のこと)、道心者(仏道に帰依した者のこと)、鍛冶、大工、桶屋、舞廻、猿引、はこのとおりございません。)
農民以外の特殊な職業や特殊な身分の者を取り上げていますが、誰もいなかったようです。例えば、当時の「大工」の範疇には、現在の木工を扱う大工の外にも石工も含まれていたようですが、畑沢には両者ともいなかったようです。畑沢の奥にはローデンやゴロウと言った石切り場がありましたが、石工もいなかったということになります。しかし、「石切り職人はいた」という伝説があります。
ところで「」とは、士農工商の身分制度の番外に扱われていた身分です。動物の皮を使った職業などに就いていたのですが、西日本では所謂「民の差別」があり、辛く苦しい思いをさせられました。その点、東北では大きな問題にはなっていませんでした。
ここで正直に申し上げます。「行人」、「舞廻」「猿引」、「道心者」の正体が分かりません。辞書で調べると、それなりの説明がありますが、それを見ても「何のこっちゃ」でした。これらの職業は、畑沢には最初から関係ない者ばかりのようです。恐らく、明細帳を作成するにあたって見本のようなものを見せられて書かされたような気がします。該当しないことは最初から書く必要がありません。該当するものだけを書けばいいのです。
一、 馬喰 壱人御座候 弥左衛門と申候(馬喰(ばくろう)は一人おります。弥左衛門と申します。)
「ばくろう」とは、牛馬の仲買を主にした生業で、獣医師的な業務もやっていました。畑沢に弥左衛門という村人が馬喰をやっていたようですが、弥左衛門という屋号は畑沢には残っていません。馬喰は昭和年代にも見られましたが、畑沢の人ではなくて、他の地区の人がやってきました。
一、 弐人御座候 藤三郎 三太と申候(は二人います。藤三郎と三太と申します。)
とは、罪を犯した者のことです。罪を犯したと言っても、村に住むことができるのですから、大きな罪を犯したわけではないようです。