「沼沢の沼を探してみました」シリーズで次の投稿を約束していながら、滞っております。さればとて、改心していざ取り組もうとするのですが、まるで頭も手も動こうとしません。無い知恵は出ないことをあらためて認識させられています。私の場合は、知恵が出るまでに時間がかかるのです。
そんな知恵のない私の頭でも、時間をかけたたために、それなりに形が表れたものがあります。それは三年目を迎えている背中炙り峠の楯です。そもそもの始まりは、保角里志氏が書いた「南出羽の城」です。その中で「峠を守る城」として背中炙り峠の楯が図面入りで説明されていました。私にとって、背炙り峠は思い出多い所ではありますが、あくまでも単なる「道」でしかありませんでした。ところが、その本にある峠は今から四百年以上も前に遡る歴史を秘め、野辺沢城にも繋がるロマンがありました。早速、村山市内で歴史に熱心な先輩とともに現地を確認したところ、驚きの地形がありました。ただの山の中と思えるような場所に、行く手を遮る崖や大きな溝が大規模に作られており、山頂部は平らに均されています。その片隅には櫓(やぐら)が建てられていた丸い土盛りもありました。ただのスビタレが一気に古城ファンになってしまった瞬間です。何も歴史を聞かされていなかった我がふるさと畑沢に、こんなものがあろうとは知りませんでした。
眺めているうちに、保角氏の図面には出ていない位置にも、自然の地形とは思えない何かがありました。保角氏が書いた文献は、外にもありました。村山市立図書館で「峠を守ろ城『背炙り峠楯跡』」という山形考古第3号(通巻33号)別刷です。その図書の楯の図の西側に「未」という文字がありました。それは、その図面にはまだ調査していない場所があることを意味しています。それではその「未」のところを調べてやろうと決心したわけです。ところが、考古学には興味なし、その他の人文系も苦手のままで長い月日を送ってきただけに、自力での調査は全く目途は立ちませんでした。保角氏にも相談しながら調査できる方を紹介してもらいましたが、その方は体調を崩して途中で諦めざるをなくなりました。結局、スビタレながら私が一人でやることになってしまいました。
私は還暦を過ぎてから何年か経ちましたが、幸い「馬鹿は風邪ひかない」の例えどおりの体力を持っています。好奇心も持ち合わせています。保角氏の図面を基本として、その周囲を調べました。その結果が下図です。私は作図に一番、必要な測量技術を持っていません。途方にくれながら編み出したのが、Google earthの航空写真を使うことでした。航空写真をExcellにコピーして、色調を操作することによって杉の木を識別できるようになりました。現地を歩きながら、樹種を区別して航空写真に楯の絵を描いていきました。航空写真はかなりの歪みがあります。それでもしょうがありません。私にできる精一杯の方法ですから。慣れるにつれて、見えないものが見えてきました。恐ろしいものです。何とかなりました。
この図はあくまでも、きちんと調査された保角氏の図面を基調にしています。上の図の右半分がそれに相当します。それでも保角氏の図面をそのままに写したものではなくて、私なりに航空写真に現地調査で確認したものですので、保角氏の図面とは随所で異なるものがあります。例えば、曲輪の形、虎口(こぐち)の位置、堀切(ほりきり)や切岸(きりぎし)の位置などです。何故、違った内容になったかは分かりませんでしたので、そのままで図面化しました。図面の書き方も分かりませんでした。見よう見真似で書いたので、考古学本来のルールに当てはまらないところだらけだと思いますが、何とか見てください。「切岸」と「帯曲輪(おびくるわ)」が沢山ありましたが、煩瑣になるので説明を入れていません。欠陥だらけの図面でしょうが、大方の形を分かっていただければ幸いです。
この図にあげたものは主要部だけです。切り立った尾根が伸びている南の尾根には、危険極まりない堀切が三か所あり、西には街道(古道)と絡めた「切通し」、北側には役目が終わってから切り崩されたと見られる興味深い二段構えの堀切があります。個々の詳しい説明は次回以降とさせていただきます。図面化作業はかなり疲れました。次回はしばらくしてからになるでしょう。