-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢 昭和5年の年齢階層別人口等々

2017-05-13 16:08:36 | 歴史

 尾花沢市史編纂委員会が昭和51年12月に発行した「市史資料第三輯 郷土調査」には、昭和5年に尾花沢小学校、宮沢小学校及び常盤小学校が「郷土調査と学校経営」として調査した内容が記載されています。
 前回と同様に「郷土調査」の表では、漢数字を用いていましたが、算用数字に置き換え、列の順序も左右を逆にしました。また、常盤村と宮沢村の統計は昭和5年、尾花沢町の統計は昭和4年のものを用いています。激動期における1年の違いは大きいのですが、しょうがありません。そのことを念頭において以下の内容を御覧ください。
 今回は、この中から年齢階層別人口構成を見てみましょう。


常盤村
 


宮沢村
 


尾花沢町
 


 宮沢村も常盤村も同じような形をしています。これらのグラフから、私なりに気になった点を幾つか挙げます。


1 40、50歳代の女性について


 常盤村の①と宮沢村の③は、40歳代と50歳代です。両村とも男性が女性よりも人口が多くなっています。しかし、尾花沢町の同年代は女性の方が多いようです。尾花沢町では、10歳未満の年代を除けばすべての年代において女性の人口が男性を上回っています。元々、いつの時代においても、男子の出生率は女子を上回っているものです。ところが、男子は女子よりも生命力が弱いので、次第に男子が減少してしまい、各年代において女性の方が男性よりも多いのが普通であるはずです。その点からいえば、尾花沢町の男女人口の傾向は極、自然なものと思われますが、常盤村と宮沢村の40、50歳代で見られる女性が少なかったという現象には、特別な理由が潜んでいるものと思います。例えば、農村部の女性は、出産、子育て、そして家事などの多方面において男性以上の過酷な労働があり、体力の消耗は現代から見れば想像を絶するものがあったはずです。それが、30~40歳代ごろの女性の死亡率を上げて、40、50歳代になると女性の方が少なくなっていたのではないかと思われます。因みに所業別の戸数を比較してみます。



 
 やはり、尾花沢町は工業、商業、公務自由業など農業以外の職業の戸数が、二村と比べて圧倒的に多いようです。尾花沢町の周辺部は農家が多かったと思われますが、中心部にはほとんど農家がなかったでしょう。常盤村・宮沢村と尾花沢町の40、50歳代における男女差は職業の違いによることが考えられます。

2 常盤村の30~34歳代の女性について


 常盤村の②では、30~34歳代の女性がここだけ男性よりも極端に多く、逆に50~54歳代の男性が女性よりも極端に多くなっています。常盤村はその他の年代でも大きな男女差が見られるところがあります。宮沢村や尾花沢町では見られない現象です。いろいろと考えてみましたが、これを上手く説明できる想像はできませんでした。

3 尾花沢町の20~24歳代の女性について


 尾花沢町の④では、女性の人口が他の年代から突出して多くなっています。これはどう考えても尾花沢町の内部だけではなくて、外部からの移入が原因でしょう。尾花沢町の周辺部で生まれ育った結婚前の若い女性が、例えば商店や工場の働き手として尾花沢町に出てきたものでしょう。

 ところで、「郷土調査」には、尾花沢町だけの面白いデータがありました。次のグラフのように職業別の戸数の年次推移が分かるのです。
 


 短期間で大きく変動しているところが、大正10年から大正13年と大正15年から昭和4年にかけてです。特に大正11年に農家が300軒でしたが、2年後の大正13年には609軒になっています。2倍に増加しています。その分がほぼそのまま全体の戸数に影響していています。町の区域が同じままならば、あり得ないことだと思いますが、町に新たな地域が合併されたりすると、こういう現象もありうることでしょう。尾花沢市の沿革史などに解答があるのかもしれません。
 次に大正15年から昭和4年では全体戸数がほぼ同じですが、職業の内訳が大きく変動しています。商業と工業はほぼ変動しておらずに、農業と其他有業との間で相、反する動きが見られます。農業の場合は、純粋な農産物の生産以外に副業的なことをやっている場合が普通です。その年のその副業的な収入の大小によって、どちらかの職業にカウントするかが違っているのかもしれません。

 畑沢の話から区域が大分広がってしまいました。畑沢に注目してみます。次の表は、常盤村内部の職業別戸数です。

 
 畑沢の職業の殆どが農業です。当然でしょうね。それでも工業が2戸ありますし、商業が1戸あります。はて、畑沢で工業とはどんなものでしょうか。そのことは商業でも言えます。当時の畑沢のことを想像するに、農業の外には、炭焼き、大工、左官、染屋(実際は染屋そのものでなく仲介業)が挙げられます。炭焼きは農業に、大工と左官は工業に、染屋は商業に入れられていたと考えてみました。公務自由業には教員や一般公務員が考えられます。常盤小学校に勤務していた青井法善氏氏と大戸広右衛門のお二人が該当します。工業と商業に従事していた3戸は見当がつきません。

 今さらですが、ここで職業の分類についてします。これまで紹介した表やグラフで用いていた職業の分類の仕方は、現代の統計では使われていません。国勢調査での分類は次のようになっています。

  農業・林業、建設業、製造業、運輸業・郵便業、卸売業・小売業、宿泊業・飲食サービス業、

  医療・福祉、サービス業(他に分類されないもの)、その他


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