清水畑の古瀬S氏の畑には、大正時代の石碑があります。
大平山の寶澤区域(字 寶澤)に関するものです。
表側の文字は次のとおりです。
異体字が使われるなどして、少し理解できない文字が見えますが、概略は掴めます。文章を簡単にまとめ、解説を加えると次のようになります。少々の間違いは、いつもの寛大な心で御容赦下さい。
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寶澤という字(「あざ」と読む。大平山全体でなく、寶澤の字名の区域だけ)は、畑沢の南にある山で、畑沢の田を潤す畑沢川(「千鳥川」のこと)の水源地になっている山である。しかも、林産物の宝庫であるからこそ寶澤という名前になっている。
しかるに、明治11年に官民の所有区分を見直したお達しにより、官庁の管理となってしまってからは、管理の方法が難しくなってしまい、不便になってしまった。
明治42年に国有林野の払下げの公売をするとの告示が出されて驚愕したが、何ともできなかった。明治44年(西暦1911年)、保安林に編入することを(村人は)村長に請願した。村長はこれを村議会に諮り、議会が請願の正当性を認めて可決した。村は保安林編入を申請したが、大正2年(西暦1913年)に不許可となってしまった。そこで、惣代人(代表者)によって縁故者への特売してくれるようお願いして、同年9月に許可された。
寶澤は総面積が66町7反8畝貮歩(662,288㎡)の土地は、大字畑澤の全戸である55戸の村人のものとなり、このことによる恩恵は幾ばかりともしれない。よって、これを記念してこの地のにおける明治維新以来の大きな出来事を記して将来に伝える。
大正10年8月 豊嶋亀楽 誌(「記」の意)
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現在、寶澤には畑沢に給水する簡易水道の水源池があります。昔、村人が頑張って保安林にしたので、ブナ林が守られ豊かでおいしい水も守られました。
この石碑の表側は平坦に磨かれてから文字が刻まれていますが、裏側は自然石の地肌のままに刻まれています。石碑の裏側には、村人の名前が刻まれています。残念ながら、私の力量では読み取れない文字が多数あります。しかし、当時の55戸全部の名前がある大事なものです。もう少し訓練してから、拓本にして読み取りたいと思います。大正時代の人達が浮かび上がるはずです。