-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

名前どおりの山です

2015-02-05 19:06:38 | 自然

 一昨日、荒町を過ぎて畑沢へ向かっていた荒町橋の上から、通称「なでつぎやま」が右方向に見えました。しょっちゅう雪崩が起きるので「雪崩が付いている山」の意味があります。この山の上部には、硬い岩石らしきものが露出しています。硬い地質を千鳥川が、永い年月をかけて急峻な崖を作りました。そのために、ある程度に雪が積もり気温が上がると、直ぐに雪崩が発生します。この日も雪崩が起きたばかりでした。山の中腹から雪崩が発生し、下に雪の塊がごろごろしています。

 当然、雪崩は今に始まった訳ではありません。ずっとずっと昔からです。今から約40年ほど前に撮影した写真がありました。この写真は雪崩が起きる前の状態です。その山の姿には、おどろおどろしいものが感じられます。まるで、今にもお化けが襲ってきそうに見えます。実際にこの山の下にいたら、襲われていたでしょう。

 畑沢の子どもたちは、小学校や中学校へ通学の際には、いつもこの山を見てきました。冬は恐ろしい面もありますが、学校からの帰り道、このやまが見えると間もなく松母の墓地があり、畑沢にぐっと近づいた気持ちになります。

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今期三回目の雪降し

2015-02-04 21:19:57 | 近況報告

 特段、大雪になった訳でもないのですが、畑沢に行ったついでに屋根の雪も降ろしてしまいました。今回は屋根から落ちることもなくて、平穏無事な作業でした。積雪の高さは1m足らずでしたので、たちまち終わるかなと思っていましたが、屋根に上がって見ると、雪がしまっていて見た目以上に重い雪でした。幸い、今日は天気も良かったので、雪が凍りつくこともなく扱いやすい状態でした。家内が作ってくれた弁当を食べて直ぐに作業を開始。1時間ほどで終了しました。

 時間の余裕がありましたので、上畑沢へ出かけたところ、古瀬K氏に会いました。今年の「おさいど」の予定を聞いたころ、今月24日だそうです。しかし、今年は例年と異なり、少々の問題があります。いつも「おさいど」に参加する方々の都合がつきにくいようです。そういうことなら、私と先輩が手伝いましょうと提案してきました。ブログを御覧になっている方の中でも、手伝って下さる方がいましたら助かります。

 

 ところで、情報です。

来る13日の午後1時30分から、常盤地区公民館で「延沢城跡を学習する」の講義があります。申し込みは公民館へお願いします。私も同級生も姉も三日町の人も参加します。

 二つ目の情報です。

尾花沢市立図書館で「思いで文集 一本杉」と「常盤小の百年」を見つけました。昔のことが沢山出ています。畑沢分校に触れた文章もありました。常盤館という映画館の話もありました。

 三つ目の情報です。

常盤地区の方のブログとホームページがあります。

「ホップ物語」……常盤地区のホップ農家です。

「母ちゃん広場」……細野地区の元気なお母さんたちのホームページです。

 

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畑沢の村人みんなで頑張った (石碑)

2015-02-01 17:57:58 | 歴史

 清水畑の古瀬S氏の畑には、大正時代の石碑があります。

大平山の寶澤区域(字 寶澤)に関するものです。

 

表側の文字は次のとおりです。


 異体字が使われるなどして、少し理解できない文字が見えますが、概略は掴めます。文章を簡単にまとめ、解説を加えると次のようになります。少々の間違いは、いつもの寛大な心で御容赦下さい。

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 寶澤という字(「あざ」と読む。大平山全体でなく、寶澤の字名の区域だけ)は、畑沢の南にある山で、畑沢の田を潤す畑沢川(「千鳥川」のこと)の水源地になっている山である。しかも、林産物の宝庫であるからこそ寶澤という名前になっている。
 しかるに、明治11年に官民の所有区分を見直したお達しにより、官庁の管理となってしまってからは、管理の方法が難しくなってしまい、不便になってしまった。
 明治42年に国有林野の払下げの公売をするとの告示が出されて驚愕したが、何ともできなかった。明治44年(西暦1911年)、保安林に編入することを(村人は)村長に請願した。村長はこれを村議会に諮り、議会が請願の正当性を認めて可決した。村は保安林編入を申請したが、大正2年(西暦1913年)に不許可となってしまった。そこで、惣代人(代表者)によって縁故者への特売してくれるようお願いして、同年9月に許可された。
 寶澤は総面積が66町7反8畝貮歩(662,288㎡)の土地は、大字畑澤の全戸である55戸の村人のものとなり、このことによる恩恵は幾ばかりともしれない。よって、これを記念してこの地のにおける明治維新以来の大きな出来事を記して将来に伝える。
 大正10年8月 豊嶋亀楽 誌(「記」の意)
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 現在、寶澤には畑沢に給水する簡易水道の水源池があります。昔、村人が頑張って保安林にしたので、ブナ林が守られ豊かでおいしい水も守られました。 

 この石碑の表側は平坦に磨かれてから文字が刻まれていますが、裏側は自然石の地肌のままに刻まれています。石碑の裏側には、村人の名前が刻まれています。残念ながら、私の力量では読み取れない文字が多数あります。しかし、当時の55戸全部の名前がある大事なものです。もう少し訓練してから、拓本にして読み取りたいと思います。大正時代の人達が浮かび上がるはずです。

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