国の史跡に指定されている兵庫県三木市の『三木城』です。
【三木城跡 美嚢川より|2018年9月16日|LUMIX DMC-GX7MK2|おさかな撮影】
お城自体は江戸初期の一国一城令により元和元年(1615)に廃城になっています。このお城が歴史の表舞台に出てくるのは、羽柴秀吉と別所長治との間で二年間にわたる攻城戦ではないかと思います。もともと別所氏は早くから織田方に付いていたのですが、毛利側の外交交渉によって毛利方になったことから、戦端が開かれ、最終的には籠城戦になり別所長治の切腹により開城に至りました。
天守跡横に、別所長治の石像がありました。切腹時は23歳であったようです。
【三木城跡 別所長治石像|2018年9月16日|LUMIX DMC-GX7MK2|おさかな撮影】
こちらは天守跡です。
【三木城跡 天守跡|2018年9月16日|LUMIX DMC-GX7MK2|おさかな撮影】
天守台には長治の辞世の句などの石碑などが建っています。
【三木城跡 石碑(天守跡)|2018年9月16日|LUMIX DMC-GX7MK2|おさかな撮影】
【三木城跡 石碑(天守跡)|2018年9月16日|LUMIX DMC-GX7MK2|おさかな撮影】
城跡は広場になっていて、休憩などが出来るようになっていました。
【三木城跡 広場|2018年9月16日|LUMIX DMC-GX7MK2|おさかな撮影】
【三木城跡 忠魂碑|2018年9月16日|LUMIX DMC-GX7MK2|おさかな撮影】
三木城が築城されたのは室町期で、長享2年(1492)前後に別所則治により築城されたと考えられています。天正8年(1580)の落城後、羽柴秀吉の支配下になり城代が置かれていましたが、天正13年(1585)に中川秀政が入城し文禄3年(1594)まで中川氏の治世下におかれています。そのご豊臣氏の直轄地となり、関ケ原の戦い以後は、姫路城主・池田輝政治世下における支城のひとつとなり、元和元年(1615)の一国一城令によって破却されるまで城としての機能を持っていました。
【三木城跡 美嚢川より|2018年9月16日|LUMIX DMC-GX7MK2|おさかな撮影】
お城自体は江戸初期の一国一城令により元和元年(1615)に廃城になっています。このお城が歴史の表舞台に出てくるのは、羽柴秀吉と別所長治との間で二年間にわたる攻城戦ではないかと思います。もともと別所氏は早くから織田方に付いていたのですが、毛利側の外交交渉によって毛利方になったことから、戦端が開かれ、最終的には籠城戦になり別所長治の切腹により開城に至りました。
天守跡横に、別所長治の石像がありました。切腹時は23歳であったようです。
【三木城跡 別所長治石像|2018年9月16日|LUMIX DMC-GX7MK2|おさかな撮影】
こちらは天守跡です。
【三木城跡 天守跡|2018年9月16日|LUMIX DMC-GX7MK2|おさかな撮影】
天守台には長治の辞世の句などの石碑などが建っています。
【三木城跡 石碑(天守跡)|2018年9月16日|LUMIX DMC-GX7MK2|おさかな撮影】
【三木城跡 石碑(天守跡)|2018年9月16日|LUMIX DMC-GX7MK2|おさかな撮影】
城跡は広場になっていて、休憩などが出来るようになっていました。
【三木城跡 広場|2018年9月16日|LUMIX DMC-GX7MK2|おさかな撮影】
【三木城跡 忠魂碑|2018年9月16日|LUMIX DMC-GX7MK2|おさかな撮影】
三木城が築城されたのは室町期で、長享2年(1492)前後に別所則治により築城されたと考えられています。天正8年(1580)の落城後、羽柴秀吉の支配下になり城代が置かれていましたが、天正13年(1585)に中川秀政が入城し文禄3年(1594)まで中川氏の治世下におかれています。そのご豊臣氏の直轄地となり、関ケ原の戦い以後は、姫路城主・池田輝政治世下における支城のひとつとなり、元和元年(1615)の一国一城令によって破却されるまで城としての機能を持っていました。
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