淀城は稲葉家10万2000石の居城でした。稲葉家の治世下になったのは、享保8年(1723)に稲葉正知が下総佐倉藩から転封してきたのが始まりで、以降12代の正邦で明治をむかえます。歴代藩主の中で、名が知られているのは12代の稲葉正邦で幕末時に老中を2度務めていました。
稲葉氏の歴史を掘り下げてみると、戦国期の稲葉氏当主・良通(一鉄)は、美濃の斎藤氏に仕え、安藤守就・氏家卜全と共に西美濃三人衆として権勢を振るっていましたが、のちに織田信長の配下となりました。本能寺の変で織田信長が倒れた後、豊臣秀吉の配下となりました。良通の子貞通は、関ヶ原の戦いでは東軍に属し戦功をあげ、美濃郡上八幡4万石から豊後臼杵5万石に加増移封され、臼杵藩の藩祖となりました。
良通の庶長子の重通が分家して大名となり、美濃清水を領地としました。その後、家督を稲葉氏の一族の尾張林氏より養子に入った正成が継ぎました。この正成の妻が3代将軍徳川家光の乳母となった春日局です。そういった関係から、正成系の稲葉家は譜代大名となりました。淀藩の藩主家稲葉氏は、この正成系の稲葉氏です。
現在城跡として残っている淀城は、徳川時代のもので、豊臣秀吉時代の淀城は「淀古城」とよばれ、城跡北の妙教寺付近にあったとされています。
淀藩は、稲葉家の治世になるまでは、藩主家が定着しない藩でした。元和9年(1623)に遠江掛川藩から松平定綱が3万5000石で入ることで、淀藩が立藩しました。寛永10年(1633)からは下総古河藩より永井尚政が10万石で入り2代にわたって支配、寛文9年(1669)からは伊勢亀山藩から石川憲之が6万石で入り3代にわたって支配、宝永8年(1711)からは美濃加納藩より松平光煕が6万石ではいり、2代にわたって支配、享保2年(1717)からは伊勢亀山藩より松平乗邑が6万石で入り支配。藩主が定着したのは、稲葉家になってからのようです。
淀藩の基盤を整備したのは永井家で、初代の永井尚政によって城下町の拡大や水上交通の整備、地子免許などを行なっています。石川憲之は幕政に参加。松平乗邑は、大坂城代代行を務め、、徳川吉宗に見出されて老中まで務めた大名です。
現在の淀城は、本丸の石垣と堀の一部が残っているだけで、10万2000石の大領の藩の城跡としては少し寂しい佇まいとなっています。ただ、本丸跡に実物大の櫓や、内堀の再掘削、淀城のシンボルだった水車を復元する計画があるようです。どのようなものになるか楽しみではあります。
淀は、諸国からの貢納物や西日本から都に運ばれる海産物や塩の陸揚げを集積する商業地でり、河内国・摂津国方面や大和国方面から山城国・京洛に入る要衝でもありました。しかし、稲葉家は山城国唯一の大名家で10万2000石という大領ではあったのですが、その所領は山城には2万石程度しか無く、摂津・河内・近江・下総・越後などに分散し、藩の経営は不安定な状況だったようです。