創業50年ほどのになる老舗喫茶店「メフィストフェレス」でモーニングをいただきました。場所は帯屋町でひろめ市場の近くになります。個性的な外観の建物になります。店内はかなり広く多くのお客さんでにぎわっていました。ホットサンドモーニングをいただきました。美味しかったです。
高知市の日曜市は、日本最大規模のスケールを誇る街路市です。その歴史は古く、元禄3年(1690)、土佐藩4代藩主・山内豊昌が、場所と開催日を定めた日切りの定期市の開催を認めたのが始まりとされています。
高知市では廿代町のホテルに宿泊したのですが、朝に江の口川沿いを少し歩いた時の風景です。なんとなく南国感を感じさせますね~
今日は午後から開催される会議に出席するため高知にやってきました。昼過ぎに高知にはいいたのですが、ホテルの駐車場に車を停め、3時からの出番まで時間があったので、久しぶりに高知城に行ってみました。結構暑くて大変でしたが、高知城を堪能してきました。
小駄良川は、岐阜県郡上市を流れる木曽川水系の河川で、吉田川の支流になります。源流は、郡上市八幡町北部、明方村との境界にある河鹿になり、八幡町市街部で吉田川と合流します。下の写真は、その合流部付近の風景になります。
現在の京都駅が完成したのは平成9年(1997)なので、25年前になります。もう25年なのか、まだ25年なのか、微妙な感じはしますが、四半世紀は経過しています。いまの駅舎は4代目になるようです。初代は明治10年(1877)です。維新の志士や新選組が活動してた幕末の頃から10年後には鉄道が走ってる現実になんだか驚いてしまいますが。現在の駅舎の設計は、国際指名コンペ方式で原広司の案が採用され建築されています。下の写真は、中央コンコースの巨大な吹き抜け空間になります。
丸亀城三の丸付近から飯野山方面を望む風景です。一番右が讃岐富士の愛称で呼ばれる飯野山(422m)、その左側が城山(462m)、一番左側の山が常山(283m)になります。
香川県高松市東植田町の公渕池は、文久3年(1863)に完成した、ため池です。高松藩最後の普請になるそうです。
公渕池という名前の由来は、屋島での源平の合戦に敗れた平家の公達が、ここまで逃げ延びてきたがが、疲れ果てていたため、ここにあった淵が都の自分の家であると思って、そこに身を投じたという言い伝えが残っていて、その後、この公淵に土手が造られて池になってからは、公淵池と呼ばれているそうです。四国には、結構源平がらみの逸話がそこかしこに残っているようです。
公渕池という名前の由来は、屋島での源平の合戦に敗れた平家の公達が、ここまで逃げ延びてきたがが、疲れ果てていたため、ここにあった淵が都の自分の家であると思って、そこに身を投じたという言い伝えが残っていて、その後、この公淵に土手が造られて池になってからは、公淵池と呼ばれているそうです。四国には、結構源平がらみの逸話がそこかしこに残っているようです。
十和田市現代美術館は青森県十和田市にある現代アートを中心に展示する美術館です。設計は西沢立衛建築設計事務所になります。開館は平成20年(2008)になります。
秋田県鹿角市で特別史跡に指定されている大湯環状列石です。野中堂環状列石と万座環状列石で構成されていて、下の写真は野中堂環状列石になります。縄文時代後期(約4,000年前)の遺跡です。葬送儀礼や自然に対する畏敬の念を表す儀式を行った「祭祀施設」であったと考えられています。
樹齢900年と推定されている「伊弉諾神宮の夫婦クス」です。元々二株だったものが、結合して一株として成長しています。幹周は8m、根周り12.4m、樹高は約30mです。見事な大楠でした。伊弉諾・伊弉冉二神の神霊が宿る神木として、夫婦円満・安産子授・縁結びなどの信仰で篤く崇められています。昭和48年3月9日に兵庫県の天然記念物に指定されています。
伊弉諾神宮の『放生の神池』です。古くは放生神事(鳥や魚を放して生命の永続を祈る行事)が行われていました。現在は病気平癒のための命乞に「鯉」を放ち、快癒の感謝に「亀」を放つ信仰習慣がありそうです。もともとは本殿後背の森を隔てる「ため池」と連結して、神陵の周囲に巡らされた濠の名残と考えられています。
高知県安芸郡馬路村魚梁瀬の遠景です。魚梁瀬は馬路村の北部、奈半利川上流域に位置し、四周を標高1000m程の山に囲まれた地域になります。銘木として有名な魚梁瀬杉を産出する地でもあります。
壇之浦の合戦で敗れた能登守平教経が阿波祖谷山に入り、さらに危険を避けてこの地に居住したという伝承が残っています。教経の子孫は門脇氏を名乗り、多くの家来とともに当地を繁栄に導いたとも伝えられれいます。戦国時代末期には柳瀬氏を名乗る者がいて、安芸国虎より当地方を任されていたと記録が残っています。山村のため生産性が低く、良質な木材生産が村を支えていたのだと思います。先日、ブログに記載した森林鉄道も、木材生産の一端を担ったものです。
下の写真中央部の集落が魚梁瀬集落になります。
壇之浦の合戦で敗れた能登守平教経が阿波祖谷山に入り、さらに危険を避けてこの地に居住したという伝承が残っています。教経の子孫は門脇氏を名乗り、多くの家来とともに当地を繁栄に導いたとも伝えられれいます。戦国時代末期には柳瀬氏を名乗る者がいて、安芸国虎より当地方を任されていたと記録が残っています。山村のため生産性が低く、良質な木材生産が村を支えていたのだと思います。先日、ブログに記載した森林鉄道も、木材生産の一端を担ったものです。
下の写真中央部の集落が魚梁瀬集落になります。
「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選ばれている「伊尾木漁港石積堤」です。
河野の郷士久保家によって開発された港で、江戸時代の終わり漁港整備にと内港の開削を進め、石組の防波の建設に取りかかったが、藩の財政難から工事は中断。明治以降にも何度か開発が試された後、放置され、河野池として残ったものです。
河野の郷士久保家によって開発された港で、江戸時代の終わり漁港整備にと内港の開削を進め、石組の防波の建設に取りかかったが、藩の財政難から工事は中断。明治以降にも何度か開発が試された後、放置され、河野池として残ったものです。