道の駅淡河近くに位置する『淡河城』は、南北朝の頃から豊臣時代の頃まで機能していた城郭跡です。播磨一帯の豪族であった淡河氏の城とされています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/05/914a619642f56b701e996f680136e6a1.jpg)
戦国期の淡河氏は三木城主であった別所家に属し、別所氏が織田信長についていた時は、別所氏に従って織田信長の命で各地を転戦していました。後に、別所氏が毛利方につき織田氏と対立関係になった際、淡河氏も同調し、羽柴秀吉による三木城攻撃の際には、淡河城は秀吉の弟・羽柴秀長の攻撃で落城し、有馬則頼が城主となりました。徳川時代に入った慶長6年(1601)有馬家は三田城に移り、元和元年(1615)に廃城となりました。
現在は小山の頂に櫓風の建物が建っています。
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戦国期の淡河氏は三木城主であった別所家に属し、別所氏が織田信長についていた時は、別所氏に従って織田信長の命で各地を転戦していました。後に、別所氏が毛利方につき織田氏と対立関係になった際、淡河氏も同調し、羽柴秀吉による三木城攻撃の際には、淡河城は秀吉の弟・羽柴秀長の攻撃で落城し、有馬則頼が城主となりました。徳川時代に入った慶長6年(1601)有馬家は三田城に移り、元和元年(1615)に廃城となりました。
現在は小山の頂に櫓風の建物が建っています。
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