歪曲される情報を見る。

日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

日本のサブカルチャーとしての人形文化。

2015年01月02日 17時53分28秒 | 日記

人形と言うと雛人形や五月人形と思う向きも居るだろうが人形はこけしや、その類の木片が人形だったりする。

何気なく人に見える木片が人形だったのである。だが、これは世の東西を問わないようである。

出来損ないの薪ほど、人形に代わりやすい。そう言う意味で出来損ないを駄目と称する今の「経団連の根絶やし品性」は日本文化と何より合わないのだろう。

人形は農家では藁人形で、無論呪いに使うものではない。案山子を作った技術は人形にも使われている。それ以外にも子供用の人形を作っている。

日本では往々にして、貧相な造形が広く広まっている。一方で手遊び(てすさび)と言う大工の腕を見せる為の遊びが結構広まっており、これは奈良時代の建築から存在している。これは通常の木組みでは到底出来ない構造をやって見せるのである。

これが手本となり、どうすれば「有り得ない構造を構成できるか?」と言うものが各所の名建築の中に散りばめられており、それを解く事が大工の力を磨く原動力となった。それは到底南大門を無様修理をして他人の所為にするウンコ野郎には出来ないものだった。

この人形作りでは大量産をしたのが江戸時代貧民救済難民救済に走り回った「円空」坊の円空佛である。この円空佛は日本中に広まっており、ノミで荒く削っただけの仏像は、出来の悪い木片からインスピレーションを得て、早々に作り上げるもので、なるべく心の支えとなるべく作り上げられた仏像である。

これ以外でも、地元の色々な人々が手づから刻んだ仏像を刻む一方で人形を作っている。ある時は木で、ある時は竹で、ある時は陶器で、ある時は紙で、ある時は藁で、自由自在に、様々なものを使って。

そこには今馬鹿文科系大学出の「何々だったら、これに決まっているでしょう」と言う馬鹿の決め付けは無い。それが自由で柔軟な人形文化を作り上げたのだ。

近年、草鞋の製作マニュアルがPDF化されて、ネットにあった。それを見ると東北の流儀だそうで、藁沓も様々な様式があったらしい。

驚いた事に藁長靴は、ブーツの様に履くのではなく、実は藁縄で固定するようになっていたのである。

それらも今となっては散逸しているのである。

藁の文化は、本当に色々あって自由自在で凄いものだった。

またチョングソは通信使が着てから毎度毎度「日本の水車は凄いニダダニニダ、ウリも捏造するニダ」とほざいていたが、そんな寝言をほざいている間にパクレず国が滅んだ。

この水車は専用の大工が居て、この様なものを作ったのだが、最終的には三連水車のように驚くような凄いものまで作るようになった。これもよく知らないのだが大工がするようなものとは思えないのである。

水車もそうだし、大八車の車輪もそうだし、桶もそうなのだが、日本は回転体をろくろで作る事は珍しいようで、水車も線引きはコンパスのような道具を使うのだが、バラバラに作り上げ、最後に組んでから微調整をするのである。この辺の技も、驚きなのだが、大体、自分達で作り上げる。

思えば、この手の組み文化は虫獄では余り見られない。

思えば虫獄では早々から「金属文化」が多く、鼎や鍋、皿などは陶器もあるが、金属製のものも多い。またお椀などの削りモノも多いが、組み物は少ない。

この組み物の中で意外なものが、桶を組む時、鉋を寝かせるのではなく、ドンと大きな鉋を水平にして、それに対して削られる木を傾けて削るのである。この水平に置かれた鉋の事を「正直」と言う。

語源をご存知だろうか?

って事で、色々なものを色々な形で使い作り想像する。その文化は、決まりきった見方をする馬鹿文科系大学出の低能名決め付けではないのである。

経団連のように固まりきった柔軟性の無い思考で根絶やし品性を振りまいている馬鹿ではなかったのである。その馬鹿な無様な姿は一万円を見るとそのオリジナルが見える。

今ふざけた諭吉を賞賛する声は国内のキチガイだけである。海外では「良くある勘違いした欲ボケ」である。

それよりも、ふざけた諭吉の嫌悪したものに世界は恋焦がれている。慶応はその名前を出さない方がいいだろう、所詮馬鹿で下衆で低能であることは竹中平蔵が証明して周知徹底している。

日本の未来を輝かしいものにするにはふざけた諭吉醜のするものを抹殺するのが一番だろう。慶応を丸ごと皆殺しというのも良いだろう。今まで卒業生の「行状」を並べ立てると丸ごと皆殺しでも世界は納得してくれるだろう。それにしても、2012年の現役性が30億の詐欺をしたのはどうなった?毎年毎年どうして、そう現役性が「経済犯罪」をするのか?何故止められないのか?全く分からない。

それとも経団連のゴキブリは分かるのか?

毎度思う、エリートとはなんなのか?と慶応がエリートとホザク馬鹿が居る。もしそれが正しいならエリートとは限りなく詐欺師に近いのである。

硬直した馬鹿、下衆と違い、日本の底辺から豊かな文化は、本当に世界が認める暖かさと優しさに満ちており、様々な未来が見える。何より、チョングソのように修復しようとしてボロボロにするゴキブリと違い、世界の修復をするのに日本文化の製品が必要なのである。

無論馬鹿文科系大学出はそんな事も分からない。

まとめてチョングソにくれてやりたい。。。。


クールジャパンなんて言う気は更々無いが。昔トンスランド土産を見て笑った日々。

2015年01月02日 17時07分54秒 | 日記

知り合いが金持ちで、彼が25年ほど前のトンスランドでお土産を買ってきた。

彼のアパートで、その報告会が楽しかった。

先ず「ミンキーモモ」と思しき絵である。塗り絵なのだろうが、色が無いから解らないと言うより、デッサンの悪魔的質の悪さが際立っていた。

「これで情操教育って、これは情操破壊されますよネェ~」と金持ちのボンボンの言。

「ううん、これは酷い」

とは言っても、日本の玩具メーカーも、この頃バンダイのガンプラを除くと、結構無様だったりする。

虫獄のテーマーパークの下手糞なパクリ衛門が出てきたが、25年前はトンスルランドでしっかり「パクリ衛門」が居た。

どうして、あんなに下手糞で描くのだろう?あの、ドラえもんの白と青の部分の面積比とか、上のほうに目と鼻が偏っているのを何故再現できないのか?と思ったものだ。

当時「火病」なんて言葉は無かったが、それでも「これでは情操教育が出来ない訳ですよ、だからチョンは、ここ(北九州)でヤクザやっているわけですよ。こんなキャラクターを見て、おまけに日本に居れば、パクリだって分かって、自国をコンプレックスに思うのは当然だ。」と「火病」の行動を起こすのは間違いないと、まぁその日は、それで盛り上がりました。

今チョングソが必死に日本の漫画を真似して「マンファ」が起源だとほざく始末。

近年、この実態を世界が把握しており、そのことを世界が嫌っている。

思うに、チョングソはどのレベルでも「金」と「虚栄」が欲しいのであって、その為だけに妙な早成をするのだろう。その結果、子供ならではの感受性を当然「あれで情操教育」が出来るわけがないので、無いのである。

伊武雅刀の「私は子供が嫌いだ」なんかで「私は大人で生まれた。」とあるのはチョングソがそれそのものであろう。幼い時の愛情が全く無く情操教育なぞは火病の罷り通る中ヤクザにならざるを得ない品性を糞同様に塗ったくられたのだろう。

それからすれば、日本の幼児番組は数こそ減ってはいるが、その質は毎度向上している。

欧米が昔は「日本の幼児教育番組は商業的で…、我々御フランスやヨーロッパの幼児番組こそが、子供の情操にあって…」とほざいていたが、今となっては、そんな事は老いぼれがホザクだけである。

まぁそこまで叩く気はないが、でも私は、私の時代の欧米の絵本とか児童向け番組が、余りにも「アート」過ぎて理解できなかった。

あんな気色悪いのが好きなの?アレがヨーロッパ?と思っていたのだ。

だが一方で「キャンディーキャンディー」(フランスではコンティーコンティー)が売れていた。ただキャンディーキャンディーは原作にチョングソが居たので、あのチョンが「ウリでもできるニダダニダ」と出てきた原因でもあるので厄介な前例である。

しかし、その後「めぞん一刻」が「シャルロット、ジュテーム」って名前で放映されるのを見て、それで人気を博しているって聞いて「あの日本丸出しのアニメが?」と思ったものだった。

まぁその後、可愛いとか、ゴスロリとか色々出てきて、これは最初「欧米への憧れ?」と思っていたが、日本の若い連中の方が進んでいる一方で割り切っていて、別の宇宙を前提としたファッションだと分かり、でも、それに外人が食いついたときには「これは本家取りだな」と思ったものだ。

何れにしても、フランスもイタリアも、子供に対する接し方はチョングソと似たり寄ったりだったのだ。

日本のアニメを大量に輸入して流しっ放しは世界中の流行で、それを止めたり、別の切り方でやる所は無かったのである。

日本の凄い所は、やっぱり、この魑魅魍魎の世界をおどろおどろしくする一方で、可愛い側面も出しているのである。

これを手塚治とか、宮崎駿ばかりを取り上げる馬鹿が多いだろうが、大正頃の童謡運動とか、子供向けの新しい童話の創作とかは、世界的にもあったが日本は独特のそれで、日本流で描いていた。

更には奔放でオリジナル丸出しの絵画の遊びは、1000年前から日本人のある意味ふざけた、そして楽しみ尽くした絵の造形の遊びそのものだ。

思えば天狗やカッパなど、居もしないものを彼方此方で或いは像として、或いは絵本として、或いは版画として登場させるのは日本のバラエティーそのものだ。

大体九十九神なんてのがあって、これは神道の考え方そのもので仏教の考え方ではない。アニミズムは呪術的で妙に生々しいものをオブラートをかけて、色々してきたのが日本だったのだろう。

仏教も、キリスト教もイスラムも、その他宗教のどれも、教条を越えた存在を身近に感じ、それに楽しい形と入れ物を用意する民族は殆ど居ないか、やったとしても可愛さが無かったのだろう。

思えば日本は九十九神と言うか八百万の神だから、達成したのだろう。そして、スクナビコの尊が、小さくても強力な存在として下を支えていると信じる力があった。それが日本の可愛いを生み出し、その可愛いから、優しさ、豊かさ、細やかさを生み出したのだろう。

欧米の技術や芸術は衝撃だろう。それからすれば日本の可愛い文化は暖かさなのだろうと思う。

それと米の文字に起源を由来する「八十八の手間」がコメに入っていると言う事で、小さなコメもタダ小さな存在ではないと、そのコメ文化が教えている。そんな点からすると挽いてパンにする主食では、分からない世界だろう。

我々は小さなものを見続け、気にかけ、そして、その思いを想像する民族なのである。細かいと言えばそうだが、小さい=駄目というチョングソの低能下衆カス糞品性とは違う。このチョングソ品性がある限りチョングソにクールは無い「ドロドロ、ヌプヌプ、べとべと、ニチャニチャ、グチャグチャ」そんな粘着質の薄汚い品性が似合いである。

日本では社長であっても軽自動車に乗り、その機能性を評価する。ちょっと金が入るとデカイ車に乗りたがるのは所詮燃費の悪い糞馬鹿なのだろう。

豊かな心はでかいものだけに因るのではない。

思えば子供は小さいものを良く追い、そして見続ける。この姿こそが日本人の感性なのだろう。

そして欧米の人間をはじめ、虫獄・チョングソ以外、そうそうイスラムも含めて、大雑把な連中は、日本文化を好まないのだろう。

優しさ、暖かさ、細かさ、それを実感できる、そんな世界、それは王道になると、潰されるから、隙間の中に隠れていて、面倒臭い奴が出てきたら、そこで一休み。

それが強かな可愛い文化だろう。今度はどんな可愛いものを生み出すのか?全く、毎度毎度驚かされるが、まだ新しい種は枯れそうにない。