歪曲される情報を見る。

日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

ハゲ嘘=池上彰が適当に誤魔化す「何故バブルは発生するの?」の回答

2014年02月10日 21時18分06秒 | 日記

先ずはハゲ嘘が一番嘘をホザく江戸時代の経済である。バブルは、この頃が「起源」であるというとチョングソの様に聞こえるだろうか?

バブルはよくオランダの「チューリップバブル」をホザクが「継続的なバブル経済」としては、今もマネタリストが言い、慶応の経済音痴の詐欺師が否定する内容。つまり「マネー経済は江戸時代の上方商人の知恵を今の時代に合わせて応用しているのです」と言う基本を「江戸時代の全てを否定する=スターリン的な下衆カス低能外道の独裁者志向物体=ふざけた諭吉」が絶対に肯定しない内容である。

つまり竹中平蔵は「マネー経済の外れモノ」であり、今世界経済学者からは「アラン・グリーンスパン」か「竹中平蔵」か?と言われるほどの「キチガイ」扱いされているのである。実は「大前研一」もそうであり、その劣化コピーの「勝間和代」もである。

バブル経済はキャッシュ補給をする必要性から発生する。そしてバブル経済は貨幣の抽象化から始まるのである。

これは頭の悪い馬鹿文科系大学出の経済学部というバカの妄想狂の集団の寝言(野口悠紀夫さんを除く)が、バカの分際で歴史的要求を考えずに今の考えを過去に強制的に当てはめるという愚行を行って平気でいる。

先ずは15世紀に宋という国があったが、この国は「現物キャッシュ」が不足し「デフレ」となって滅んだ。それは、この時代広い産物が出てきて勝ちある製品が広まっていた。その一つ一つに価値を与えると、それはモノの存在がキャッシュ=現金=通貨となる必要性が存在する。

だが、宋もヨーロッパも、その他の地域も、現金以外は信用しないという「現物主義」だった。

一番の問題は、スペインの南米制圧で、それで「黄金」が大量に押し寄せたのだが、頭の悪い馬鹿文科系大学出は、その黄金しかバカだから見ていないのだ。実は、黄金よりも凄いのは、南米の産物だった。

南米は通貨としては黄金だけでなく「コッパーベルト」の「銅」も提供した。だが、それでは偉大で偉大でしょうがない、頭の悪い馬鹿文科系が理解しない南米の凄さを「通過如き」で表す事ができなかった。

コルテスなどの実にバカ下衆カスの「濡れ手に粟」の妄想は「実質上の素晴らしい南米の収穫」を「形に表し交換の形態」を表すには「キリスト教の低能では追いつかなかった」のである。無論「イスラム教」でも不可能だった。

今の通貨の価値は「金」を基本としている。そして硬貨としての金貨で比較すればナポレオン金貨が何ドルか?と言う事が「インフレの度合い」を示すとは「誰も教わっていない」のだろう。

実は世界の通過の多くは「当時の1ドル・マルク・ポンド・フラン」の硬貨の価格が基本だった。だから「副通貨」が必要だったのである。

それから考えると、日本の円は極めて穏当な1通貨で流通可能と言う「理想的な通貨」なのである。

さて頭の悪い西洋や虫獄では誤魔化しの通貨運用が可能だった。その典型がデナリウス金貨の金含有量の低下に対する一般人の通貨評価だった。

これをバカ丸出しの頭の悪い馬鹿文科系大学出の経済学部の教授とか準教授の低能が「徳川幕府は馬鹿だ」と自分がバカである事を兵器でホザク。

徳川幕府の通貨運用の妙味は「山田葉書」などの「世界最初の紙幣」で、頭の悪い慶応などの馬鹿文科系大学出の馬鹿を遥かに越えているの事は馬鹿文科系大学出の糞馬鹿が闊歩する日本では通用しないが、世界では江戸幕府の通貨デリカシーが高く評価されている。

その幕府も「色々な異名の将軍吉宗」の多才をもっても制御できなかった。

それは、後で吉宗も理解しただろうが「成長なき経済」は「沈滞する」というものだった。そこで幕府は、いや上方の商人は「米券バブル」を「容認した」のである。

そうでないと「カツカツ生活」では「生活必需品以外に金を出さない」事が確定するのである。それは「ただひたすら節約節約=経済規模の縮小」となる。それが、それまでの常識だった。

だが、それを変えたのが戦国大名だった。

北条氏康、上杉謙信、斉藤道三、織田信長などの戦国大名が「節約ばかりではどうにも成らない」と言う「商業活発化」と言う「下衆でカスでレイプ魔の低能の早漏のクズ」が考えられなかった「立派な考え」を持って実行した。「命がけで」

その伝統が結局上方の商業活動に続いたのである。

ただ、この頃のバブルは「米券の転売バブル」だった。このバブルは、頭の悪い馬鹿文科系大学出の「経済を知らない馬鹿の愚策」とそれこそ「自分自身こそ経済の本質を知らない馬鹿を披瀝する寝言」なのだが「棄捐令や徳政令」の存在となる。

それは借金問題である。、

先ずバブルは「余剰資金」を「転売」と言う空虚な作業であるが、一応存在を定型化し、その儲かった金を「投資に向かわせる」と言う義務を得ていた。

この投資をするかしないか?は「町衆の評判」で「ああ、竹中平蔵の低能のクズは最低のやり方だった」「ああ、渡辺美樹なんぞにかねだしたとあっちゃ、身代が腐れる」と投資の名前が公開で、下衆に秘密に金は出せなかった。それは隠してもでてくるものである。

その一方で、色々な座興の様な仕事に金がついた。先ずは歌舞伎である。歌舞音曲である。出版である。和算である。また設えモノである。つまりかんざしや、寄木細工、宮大工の奇妙な構造とかである。

また学校の蛆虫教師の寝言では分からないだろうが、唐傘貼りは、捨てられた唐傘を買うから、解体、、分離、まとめて問屋にする、組み立てる、紙を張る、売りに出す。とういう流れが出来た。

この構造は「座」が存在した結果であり、この座を作り出したのは、その周辺のお店が、こういう需要があるからと株と資金をして、人を集め、当座の運転資金を出したのだ。そして組織の中に入れるのだが。それはヤクザのそれはとは違う。

こうして「余剰資金の存在は、採集敵に産業の先進を走るのでいつかお余りにありつける。そえが最初祖討ったが、どれが遅くなった。そして貧富の差が大きくなった。

どうだろう?江戸の貧乏人と金持ちの接近具合は、やっぱり遠くならざるを得ない。それはそうだろう。だから、この問題は簡単に片付かない。ただ、一つだけ日本人が誇れるのは、この方法で250年間問題なくやってきたんだよ?それはちょっと凄いだろう?


最新の画像もっと見る

コメントを投稿