歪曲される情報を見る。

日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

何か知らないが、急にアフガニスタンの話が書きたくなった。

2012年09月22日 16時56分02秒 | 日記

この馬鹿みたいな駄文を膨大に書いている私だが、一向に腱鞘炎を起こす傾向は見えない。その一方で、この文章と同じぐらいの話を昼間寝ようとする時に考えている。

それは眠る時でも無思考で居られない私の性の為である。その時考えているのは、中国の戦国時代、当事としては珍しい僧侶(仏法僧)が中国を漫遊する話である。
何でこんな事を考えようと思ったのか?と言うと宮城谷昌光の小説が、大分嘘だらけと分かった為である。例えば、孟嘗君の中で白圭(風洪)が馬車で中国をあっちこっちへと旅するのだが、この時馬車を使う。
しかし馬車はこの頃国境を越えて移動できない。理由は轍の幅が違うからだ。これを統一して1つの馬車で移動できるようにしたのが秦の始皇帝である。始皇帝の皇帝の道が最初で、実は同じ頃ローマ帝国も帝国の道と言う高速道路を使っていた。兵員の移動も然る事ながら、情報の伝達の方がどちらかと言うと頻繁に使われたのである。
この轍の違いは、国境で馬車を変えなければならないと言う馬鹿馬鹿しい手間がかかるのだが、それからすると風洪の動きの速さは、その20%が減殺される。
同じ頃の話である楽毅の中の武霊王の胡服騎射の所以を戦う為に効率的だから?と言っているが、この胡服騎射では馬車に乗っていないので馬車による進行と違い、国境の問題はなくなるからだ。
だが話のスピード感の為に馬車を多用する話には、往々にして無理があり、一般人の移動には先ず有り得ないのである。
墨攻でも、着の身着のままで移動する革離などの行動を見ると、どうして生き残っているのか?不明である。私は、それを可能にする適当な理屈を付けている。
更に宮城谷昌光の小説には、千金とか黄金とか、色々な事で金を出しているが、江戸時代の流通を知る者からすれば、完全な空論である。黄金は、通常の一般人の間では全く流通しないのである。精々、銅幣や、青銅の幣などが使われる(刀銭は青銅製である)ぐらいで、基本的に金は一般人は見た事も無い。持っていると災いを蒙る程度のものである。
また金を出されても、不毛の砂漠の様な茫漠とした土地では、ハイハイ、これで食べ物を用意しましょう?とはならないのだ。大体幣とは、神に捧げる布である。この布は、金属よりも先に通貨として使われた。シルクロードが絹を流通した事からも分かるだろう。
恐らくは、金をポンと出しても、食料の供給には使われなかったのではないかと思う。それよりも水の供給をどうしたのか?この揚げ足取りの様な事を取り上げるが、日本の時代劇とやらが、本当に見るに耐えない、変な馬鹿文科系大学出の糞馬鹿の妄想の産物であり、事実とは全く違う寝言を事実の様にマスゴミが粉飾している。
時代劇などは、最早存在しない。何より梨園の糞馬鹿が、その事にコメントしない。大笑いだ。私は通貨と江戸時代の一般庶民の風俗に興味を持っているが、NHKの金曜時代劇や大河を見ても、馬鹿ちゃう?と思うことが出てくる。
例えば、行灯の火をつけるだけでも、相当な時間的違いがある。行灯の火をつけるのは、火打石で一発!違いますよ。先ず火打石の火花を受ける種火のもぐさが必要で、それに火をつけると焚き付けに移すのです。そして、ある程度火が起きてから、行灯の灯心に火をつけるのです。この間、30秒ほど…。
こんな事すると思います?残念。馬鹿文科系大学出のマスゴミ馬鹿!ばぁかばぁか!
大体、こんな事するより前に木戸番や辻番所で人が居るから、貰い火をするものです。それと江戸の大きな町なら、灯篭があるでしょう?あそこから貰い火をして火を点けるのですよ。
また火打石より、火弓矢、火錐の方が現実的である。馬鹿文科系大学出が幅を効かすマスゴミでは、当然分からない事だ。
それに朝の風景で、月代を剃る光景が無い。月代は絶対に剃る。剃らない筈は無い。顔も剃るのである。だが時代劇と言う奴で、剃るシーンがどの程度あるだろうか?大体、朝の長屋では、何らかの刃物を研ぐ音が絶対した筈である。それを理解せずに時代劇とやらをやるのだろう。
また平清盛を「薄汚い」と薄汚い品性の馬鹿知事がこき下ろしたが、成る程兵庫は馬鹿が知事をしているのか?と分かる。
何故薄汚いのか?昔汗をかけば、埃が付いたものである。この埃の付き方をNHKはやったのである。この辺は、この時代を埃と言う点で示してはいるが、しかし、まだまだである。
この埃の付いた顔があるし、もっと埃のある所にある足を昔は、何より最初に洗うのである。手を洗うというのは最後の仕上げで、最初足を洗い、上に上がって、顔を洗い、その時に手が洗われる。そして着物を脱いで浴衣に替える。そして家の中が汚されないのである。
だが最近の時代劇では足を洗うシーンがどの程度あるだろうか?だが水戸黄門の最初の頃は旅籠のシーンでは最初に縁に腰を下ろしすと、下女が桶を持って足を洗いに来る。このシーンがあった。当然馬鹿アカ馬鹿革命運動をやっていた馬鹿文科系大学を出て完全馬鹿アカになったマスゴミに宇宙位置低脳なクズ国賊は全く知らない。
私の中国の僧侶の漫遊物語は、泉光院坊の旅日記の影響もあった。念仏を上げれば托鉢で食い物が手に入る楽な旅であった日本に比べて、道教がメインの中国では、僧侶は何をやって漫遊できるか?私の話では本草(薬草)を扱って、売って回り、後は川で魚を釣り干物を作る一方、木の実や地の中の芋などを採ったりして回っているコトにした。
そうやって、思いつくトラブルを何とか誤魔化しながら、道すがら困った人間や動物の事を助けるような助けないような事をして回るのである。
このストーリーの中、コーヒーカラーの「人生に乾杯を」を聞いていたら、ふと何故か知らないが、イスラムの事が頭を過ぎった。
旅の僧侶(名前を覚限と言うのだが)の歩く姿と、アフガニスタンを歩く中村哲(ペシャワール会の代表で、もう40年もアフガニスタンの事に命がけで奉仕している)の姿が重なった。
これは「気分はもう戦争」(大友克洋:多分、漫画喫茶にあるはずです)の中のイスラム医師「ハフィブラシン」(私もよく名前を覚えているよ)に似ていると言うより、このイスラムの医師「ハフィブラシン」のモデルは中村哲だろう。何故か?
実は、テレビが中村哲の活動を示す映像のそれと実に似ているのだ。彼も漫画の中の「ハフィブラシン」と同じくロバ一匹連れて、アフガニスタンの中でも僻地の山を殆ど食い物も水も持たず歩くのである。
これは一般の日本人がやれば自殺行為である。中国でも、何も宛てが無しに出れば水にも食い物にも窮する。アフガニスタンはもっと酷い。
そんな中中村哲は、アフガニスタンの碌でもない盗賊がわんさと居る山岳地帯を武器も無く歩き回り、地方の人々の治療を行っている。殆ど水を使わずにである。
その映像の中で、老婆の目の上の瘤を摘出する手術をしていたが、そんな事しても良いの?といいたくなるような状況だった。
何も無く、ただその身と、僅かな道具だけで、古臭い手術ぐらいしか出来ない中で精一杯やる。それは人間:中村哲ではなく、本当に立派な鉄人であると思えた。
だが、その旅は、報われる事の少ないたびでもあった。
だた、もっと報われないのは翻弄され続けるアフガニスタンの民である。彼らの忍従は、とても我々の祖先の歴史と比較しても絶望的な苦悩である。
そしてやっぱり馬鹿で下衆で低脳で白痴でチョンや中毒・暴動国と同じ程度の馬鹿文科系大学出は、彼らの歴史や状況をニュースを見ていても分からないし、分かるつもりも無い。
そんな中、イスラムの暴動が起きるたびに「イスラムは凶暴だ」と、例のお安い決めツケを馬鹿文化系大学出がこき捲くる。馬鹿文系大学出の方がよっぽど凶暴だよ!と言いたくなる。
その馬鹿文科系大学出の酷い決め付けが頭にある一方、アフガニスタンの問題が次から次へと頭の中に溢れてきた。当然馬鹿文科系大学出には未来永劫不可能な事である。
例の如く話が長くなった。だが頭を去来したものの十分の一も書いていないのだが…。
続く。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿