館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

ミネさん・せいごうさんと行く・2018うりずんの沖縄その1・・名護編。

2018-04-19 04:59:50 | 旅は続く


今年も2年連続2度目で、怪しい3人組の「島めぐり」が行われたのだった・・・

T観光としては、ありがたいことである。今回は、参加されたツアーメンバーお二人への、追体験・思い出しのために参考になればと、記事を書く。
全5話・・・やや、詳細になるので、長い記事だが、沖縄に興味のある方は、興味を引く写真などあればお読みください。



最大のテーマは「沖縄戦と伊江島・阿波根さんたちの戦い」である。
な、わけで、空港に11時に降り立ち、伊江島へ渡る為の前泊の地「名護」を目指して、バスの旅が始まったのだ。



意気揚々と名護に降り立つ・・・




有名な名護市役所・・・53体のシーサーが鎮座する、挑戦的な建物だ。

が・・・同行者ミネさんは、さっそく雨を降らせたのだった・・・自慢じゃないが4月の沖縄で、俺はその何十回もの旅で、雨にたたられたことはないのだった・・・
彼は、僕との3回の沖縄で、雨・・台風・・・そしてまた雨を呼んでくれたのだ。




市役所の売店で、1本200円のビニール傘を購入・・・ち・・小さい傘だぜ。
そして、昼飯の名護漁港の直売所に向かった。



僕の「マグロ丼」!!!旨い・・・朝水揚げされ、冷凍されていないマグロは美味い!!の





この後予定では、名護城址の頂上にタクシーで登り、そこから歩いて30分の下りながらの散策の予定だったが、降りしきる激しい雨に、雨宿りで「オリオンビールの工場」に向かったのだ。そして、かなりまれなのだが、タイミングよく「工場見学」ができることになったのだ!嬉しかった!普通は予約しないとまず無理な場所なのだ。

製造工程をネーネが説明して回り、最後は出来立てのビールが2杯(つまみ付き)無料で呑めるのだ!




小降りになって、傘で何とかなる状態になる。名護博物館に行く(僕は3度目)。
これから講釈する、「セメント瓦」など見学。



1年前の沖縄タイムスの記事で、セメント瓦なるもの知り、沖縄では原料になる良質な石灰岩が本部で採れることもあり、盛んに本部や名護などで使われたが、現在は需要がほとんどなくなり、工場も数十軒あったが、今は1軒のみで、「補修」や「交換」のために細々と生産を続けているとあった。現存最古のセメント瓦の住宅も名護にあるとあった。最後の職人(かなりの高齢・・)3人が作っているらしい。




地図を見ながら「工場」を探すが行き着かない。やがて、セメント瓦の家並みが現れ、その1軒で所在を確かめる。
喫茶店らしいその店主は、「セメント瓦工場を探している」と訪ねると、うれしいことに、そのセメント瓦について、博物館より詳しい説明やら、実際その家の瓦など見学しなさいと家にあげ、案内してくれた。

驚くばかり!瓦の屋根は、家の中からむき出しで、これで雨漏りしないのか?という、家の作りであった。

⓵那覇などの赤瓦と比べると価格が5分の1・・貧しかったから盛んに使われた。⓶分厚い(5センチはある)厚みで、雨漏りはしない。⓷家を柱でなく、重みで支える構造になっていて、下から家を持ち上げるような沖縄の台風を上手に防ぐ・・・などなどであった。
まさに、目からうろこの「沖縄セメント瓦」だった!
この家に来て、説明を受け・・・(ほとんど興味を持っていなかった)2人はがぜん、興味をもってしまったのだった。




くだんの店主から工場の場所を教わり、矢印など間違っているてーげーな沖縄に翻弄されながら、ついに工場見学(人は居なかったけど・・)を果たした。
創業56年前・・・手仕事で仕上げるらしい工場は、哀愁漂う、職人の汗と心意気が伝わるものであった・・・

やはり、見てよかったぜ!




次の見学地は名護では名勝の「ひんぷんガジュマル」。見事な大木である。キジムナーがいるらしい・・・




そして徳球さんの記念碑。彼はここで生まれ育ったのだ。



側を流れる幸地川の緑道では、デイゴが咲き始めていた。最近デイゴの花は咲かなくなった。僕は10年目にして一昨年、初めて見たのだが、ミネさんは2年連続、せいごうさんもあっさりと「デイゴの花」を見れた。この方々はでいごと雨には相性がいいらしい・・・



さて、ホテルにチェックインして、しばし各自まったりののち、夜の名護に出かけた・・・

僕の御用達の「居酒屋金太郎」だ。




まずはボトルを頼み、乾杯。




旅の疲れが癒される時間がやってきた・・・

色々食べたが、ここはタレで焼き鳥が食べられるのがいい・・・(沖縄はほとんど塩なのだ・・)

そして、本部牛が実に美味しかった。




名護はイルカの追い込み漁が盛んだった。博物館でも、そんな展示が半分は占めるほどだ。
今は、民族の食文化に、言いがかりをつける風潮に、すっかり行われなくなった名護のイルカ漁だが、ここでは食べられる。

ミネさんや僕は、欠食児童で、学校の給食(完全給食は3年生で始まった)が栄養源だった時代に育った。クジラの肉こそ肉だった。

ヒートゥ・・・・・沖縄の言葉でコビレゴンドウなどの小型の鯨の事だ。

食べてみた・・・・・獣の味がした。

今度は昔ながらの「竜田揚げ」とか「焼いて焼肉のたれ」で、など作れないかリクエストしてみよう!


こうして、僕の名護の夜は終わったのだが、あのおふたりは終わらなかった・・・・・「スナック」!!!!

この後午前様になるまでスナックにしけこんだようである・・・

この日の歩数は16105歩であった。余裕だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする