館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2023年真冬の沖縄・自らの学び旅その1・・八重瀬「ヌヌマチガマ」。

2023-02-13 04:55:03 | 旅は続く


時々、乞われて、沖縄を案内などしている・・・(最近はなんだかオバースナック組が多い・・)。地元では、講演のような企画や、年金者新聞に「沖縄の連載」なども行っている。使ってもらうのはありがたいことだ。
情報の刷新・深堀り・そして、俺自身の学びを深めることが、ますます大事に思える。
俺の沖縄の学びのスタンスは「現地に立つ・現場に立ってみる」なのだ。

今回は1人でと思ったが、「私も当然連れて行け」と・・女房がもれなく付いてきた。行き先はすべて、初めての場所としたが、もれなく付いてきたので、途中サービスの寄り道もしたけどさ・・・

3日は昼に着くので、買物や市場散策で暮れた。2日目3日目が俺のメインの企画が続いた。

3日目・・50番線のバスで、八重瀬を目指した。







前回12月・おばぁスナック組を「白梅学徒隊」の足跡を案内した。その折、立ち寄った具志頭歴史民俗資料館で、その「白梅隊」の5名の派遣があった、分院のガマがガイド付きなら中に入って見学できることを知った。10年ぐらい前から解放され、修学旅行生たちが見学しているらしい・・・
前回旅は彼女たちが配属された「24師団第一野戦病院」を見学したが、その分院・・新城分院(ヌヌマチガマ)だ。
ガイドを予約し、待ち合わせたが、やさしいガイド氏はバス停まで迎えに来てくれた。



長靴・ヘルメット・手袋・懐中電灯を渡され、若干の注意事項を聴き、ガマに向かった。





八重瀬町がここを保存しようと、明確な意思で、整備したことが分かる。内部は崩落部分が多く全長500mに、入れる場所は80mほどのようだ。



俺は、実はこうしたマガの内部に入るのは初めてだ。





いたたまれない思いで、入る。



入ってほどなく「手術室」であった、広い空間にでる。
白梅隊5名が野戦病院から派遣され、看護にあたる。炊き出しや包帯の洗浄などに、地元住民や女子青年も駆り出される。



やがて、奥へ進むと、さらに広い空間が現れる。病室・・・2段ベットなど設置されていたが、戦況の悪化で運び込まれる負傷者が増え、敷き藁の上に寝かされるようになる。
野戦病院壕は500名で満員だが、ここは多いときは1000名を超えたという。
食事もおにぎりが2個から1個になり、薬品・包帯も不足しもはや十分な治療は不可能になってゆく。



発掘したものなど、並んでいる。



かまど跡・・・・・



まだまだ奥があるが、入れない。
6月3日にここは封鎖され・野戦病院壕も4日に封鎖。重症兵は衛生兵から青酸カリが投与され、あるいは銃剣で「処置」される。その数500人余だ。



4日・・解散命令(解散たって、放り出されって話・・・軍隊は住民を守らない)。鉄の暴風と形容される地上戦のなか、彼女たちは彷徨することになる。
白梅学徒隊・・・動員56名・・・22名が戦没。



戦争前、このガマは住民の共同作業(布を織ったり・アダンからパナマ帽を作ったり)の集いの場だった。
まさに「布巻」ガマ。



亡くなったもの、生き残った者の無念の思いが包む・・・ガマとはそういうものと、改めて認識した。





広場には、「白梅学徒」の名の花・・・生き残った白梅の方々が、植えた30本の梅が咲いていた。



ガイド氏は、元自衛隊員だったようだ。定年後、研修など受けて、ガイドをしているらしい。
丁寧で、要を得た案内だった。コメントも、元・・・らしい見解もあって、それはそれで、面白かった。

遠く、冨盛方面・・・野戦病院壕の小高い丘が見える。

今は、陸上自衛隊の八重瀬分屯地・・・第15高射特科連隊が見える。


12日の2m圏内接触者。

*濃厚接触・・1人。
コメント
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