最終章だけど、、、

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一日三回は感動すること

2020-08-03 03:46:17 | 日記
先ほど、前日の私の駄文にコメントをお寄せ下さったブロ友さんへ、お返事を書きました。 私の悪い癖ですが、どんどん、話が違う方向に、いわゆる脱線状態に陥り、なき両親を思慕する記、で終わりました。
それでも私の心はおさまらず、もう少し、言葉を重ねたい思いが募っております。

母は旧制女学校卒業後すぐに結婚、16歳の花嫁は痛々しいほどだったようです。父は10歳年長でした。18,20,27歳で出産。兄二人には若すぎる母だったと思います。末っ子の私でちょうどいい歳でした。
昭和17年に結婚、金婚式も迎えることができていますが、何かお祝いをしたかどうかは定かではありません。
なくなる前の年の11月、母の喜寿を祝って宇奈月温泉延對寺荘で、お祝いしたのは覚えています。

尽きない思いが母についてはありますが、今日はひとつだけ、どうしても書いておきたいことがあり、忘れてしまわないうちに、記しておきます。今の、それから今後の私のために。

母は50歳で、次兄と私の両方の結婚させました。私の結婚式には3歳くらいの姪(長兄の長女)が写真に並んでいますから、もう孫もいての50歳だったのですね。それから亡くなるまでのほぼ四半世紀、父と二人で暮らしました。
兄は二人とも勤務先が東京と駐在員として海外でしたので、たまたまこの地方で嫁いだ私とはいつも会える距離内にあったものの、兄たちとはそう仲睦まじい関係でもなかった感じがありました。
母が、比較的若いころ(少なくとも今のわたしよりはるかに若い)から口にしていることがありました。
「ねえ、ぽこちゃん、どうしたら、ぼけないでいることができるかしら?」
母は、家庭の経済のやりくりなど、鷹揚に父に頼っていた人で、生涯一度も銀行に行ったこともなかったのです。
だから、よけいに、自分がぼけることへの恐怖があったのでしょう。
茶道華道は、娘時代からの筋金入りで、母の告別式に、献茶式があり、池坊専永さんからの献花や、茶道家元からもお心遣いがありました。ですから、普通の専業主婦にしては、まだ十分に社会人の自覚はあった方なのですが、携帯電話の使い方が覚えられないとか漢字を忘れるとか花の名前を忘れるとか不安がいっぱいというのです。

とある日、私は、母にようやく、ぼけないで生きる方法を伝授することができました。

私はずいぶん以前からTBSラジオの「秋山ちえ子の談話室」(タイトルは不確かです)というラジオ番組を欠かさず聞いておりました。
一日10分くらいの番組でしたし、内容がいつも私の心に響くものがあって。。。

そのある日です。
秋山ちえ子さんが、少し(たぶん、わざと)重々しく、仰いました。
「人は、加齢とともに、一刻一刻衰えていく、特に頭はどんどん脳のしわがなくなってkる。でも、ひとつだけ、ぼけるのをストップは無理としても、おさえる方法があります」と言われたのです。

「それは、意識して毎日少なくとも三回は感動することです」
「できたら、感動したことを何かに書き留めておくともっといいでしょう」

それを聞いたのは、たぶん前世紀でウインドウズがまだ出ていなかったころ、
私は当時使っていたワープロで秋山ちえ子さんの一日三回感動せよという言葉を印字、印刷しました。
母のもとに持参し、番組の内容も説明しました。

母はとても喜んで、硯に水注から水を入れて墨をすり、美しい毛筆で、「毎日三回感動」と巻紙に書きました。

以後、母の亡くなる前日まで、母は会うと必ず、「ぽこちゃん、今日はね、お向かいのわんこが私にむかって、歌をうたって、と頼むみたいだから、犬のおまわりさん、を歌ったらとってもよろこんでくれたわ。感動!」など取るに足らないことから本物の感動までいろいろ言ってくれました。

母の存命中は、いつの間にか私も感動したことを注視し、何かに書き留めて母に話すようになっておりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・母の逝った日以来、感動を覚えることが激減し、自分でもわざわざそれを書き留めるなんてことも忘れ、日のみ重ねました。
あと10年あまりで、やがて、私も母がこの世を去った年になります。
今からでも遅くないですから、毎日、感動する心状態を持ち、感動したことはできたら、記そうと思います。
ぼけないで済むかどうかは二の次三の次としても、
ちょっとはこころが潤い、自分が視点をしっかりもてるようなそんな予感だけはしますので。。。






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