私は古い人間なので、何事も記憶するときはメモを取っておりました。
だから受験勉強などの際も、ただひたすらノートを文字で黒く埋めていく方法。
そんな風にやってきたものなので、
やがて何か考えごとをしていても、頭の中を整理するために、
紙に様々な事柄を箇条書きにし、それを丸で囲んだり矢印をつけたりし、
そういう風に整理、組み立てていくと、やがて考えがまとまるだけではなく、
自分でも気づかなかった自分の考えに気づかされることもあり驚いたりもします。
また、手元に紙が無い場合などは、言葉として口にし、
それを耳から入れることにより、再度頭の中で組み立てていきます。
そうすると、先ほど同様次第に考え方がまとまるのです。
いわゆる「思考の言語化」とでもいうのでしょうか。
こういう作業は、考え方をまとめるという意味はもちろんですが、
私の場合、それと並行して、今まで意識していなかった、
全く新たな考え方が浮かんでくることもよくあります。
そう、まるで自分の中に、もう1人の別の思考を持った人間がいて、
その者が、「こういう考え方もあるよ。」と提案してくるような感じ。
だから、先ほどの様に考えを文字にしたり口にしたりという行為は、
わたしの場合、普段は隠れている自分の誰かと対話をする手段、
そういうものになっているような気がたまにします。
とは言え、恐らく私は多重人格ではないでしょうから、
今はもう忘れてしまっていたけれど、いつか思っていたこと、思いついていたアイディア、
そういったものを記憶の底から救い上げる、そういう作業なんだろうなと…
だから、実のところこういう行為は個人的にすごく楽しいので、
なにかに行き詰まり、困っている時でも、
そうして色々文字に買いだしたり、一人でぶつぶつ言っていると、
それはそれでだんだん楽しくなってくるのです。
ある意味、これも一人遊びの一種かな?
さて、つい先日、ガレージの裏庭の掃除をしていた際、
派手に散らばった、椿の落ち花を掃き集め、それを土に戻すべく木の根元に集めていたときのこと。
そこに鈍く光る青いガラスを発見。
何だろうと思い手を伸ばし、引き抜こうとして思い出した!
ああこれは…
じつはそれは、昔御昔のサイダーの瓶。
私が保育園児だった頃、祖父がそれらをたくさん集め、そしてきれいに並べ、
そしてコンクリで固めて花壇を作っていたのです。
今でもそれはきれいにならんであるのですが、うち一本がいつの間にか抜け出て庭に転がっていたのです。
で、もうずいぶん前それに気づき、きれいに磨いて飾ろうかと思ったのですが、
まてよ…
これをこのまま土に埋めておいて、またこの先忘れた頃にふと掘り出してみたら、
それはそれで結構楽しいんじゃない?
と、そう思い、そのまま土をかけていたんです。
で、今回まんまとそれが出てきたというわけ。
むろん私は、今回瓶に気づくまで、そういうことをすっかり忘れており、
そして、それなりに驚き、そして喜んだわけですから、
過去の自分にまんまとやられたというわけですよね。
どっきりとも、びっくりとも違う、独特の驚きで、
何とも言えず、懐かしくもあり、新鮮でもあり面白い!
こういうのもやはり一人遊びでしょうかね?
こういうの実はすごく好きで、子供のころからこうなんです。
だからきっとこの先も、変わらないんだろうなと思います。
(=^^=)ゞ
*追記*
少し違うのですが…
たまに懐かしい曲を聞きハッとすることがあります。
そういう時は瞬間的に過去の出来事がフラッシュバックしてきて何とも言えず気持が良い!
でも、だからといって何度も聞くと、次第にそれも色あせてしまい、
当初の「ハッと」した感じが失せていくので、
聴きたい気持ちをぐっと押さえ、またしばし封印するのです。
すると、いつかまた偶然耳にした際、また「ハッと」できるから。
これって先ほどの瓶の話に少し似ている気がするんで、
やっぱり一人遊びなんかな?
*追記の追記*
で、今自分の書いた文章を読み返して気が付いた!
私の大好きな作家で梶井基次郎がいるのですが、
彼の作品で最初に惹かれたのが「檸檬」。
考えれば、あれこそまさに一人遊びの代表のような話ではないか!
なるほど、それでか~!
だから受験勉強などの際も、ただひたすらノートを文字で黒く埋めていく方法。
そんな風にやってきたものなので、
やがて何か考えごとをしていても、頭の中を整理するために、
紙に様々な事柄を箇条書きにし、それを丸で囲んだり矢印をつけたりし、
そういう風に整理、組み立てていくと、やがて考えがまとまるだけではなく、
自分でも気づかなかった自分の考えに気づかされることもあり驚いたりもします。
また、手元に紙が無い場合などは、言葉として口にし、
それを耳から入れることにより、再度頭の中で組み立てていきます。
そうすると、先ほど同様次第に考え方がまとまるのです。
いわゆる「思考の言語化」とでもいうのでしょうか。
こういう作業は、考え方をまとめるという意味はもちろんですが、
私の場合、それと並行して、今まで意識していなかった、
全く新たな考え方が浮かんでくることもよくあります。
そう、まるで自分の中に、もう1人の別の思考を持った人間がいて、
その者が、「こういう考え方もあるよ。」と提案してくるような感じ。
だから、先ほどの様に考えを文字にしたり口にしたりという行為は、
わたしの場合、普段は隠れている自分の誰かと対話をする手段、
そういうものになっているような気がたまにします。
とは言え、恐らく私は多重人格ではないでしょうから、
今はもう忘れてしまっていたけれど、いつか思っていたこと、思いついていたアイディア、
そういったものを記憶の底から救い上げる、そういう作業なんだろうなと…
だから、実のところこういう行為は個人的にすごく楽しいので、
なにかに行き詰まり、困っている時でも、
そうして色々文字に買いだしたり、一人でぶつぶつ言っていると、
それはそれでだんだん楽しくなってくるのです。
ある意味、これも一人遊びの一種かな?
さて、つい先日、ガレージの裏庭の掃除をしていた際、
派手に散らばった、椿の落ち花を掃き集め、それを土に戻すべく木の根元に集めていたときのこと。
そこに鈍く光る青いガラスを発見。
何だろうと思い手を伸ばし、引き抜こうとして思い出した!
ああこれは…
じつはそれは、昔御昔のサイダーの瓶。
私が保育園児だった頃、祖父がそれらをたくさん集め、そしてきれいに並べ、
そしてコンクリで固めて花壇を作っていたのです。
今でもそれはきれいにならんであるのですが、うち一本がいつの間にか抜け出て庭に転がっていたのです。
で、もうずいぶん前それに気づき、きれいに磨いて飾ろうかと思ったのですが、
まてよ…
これをこのまま土に埋めておいて、またこの先忘れた頃にふと掘り出してみたら、
それはそれで結構楽しいんじゃない?
と、そう思い、そのまま土をかけていたんです。
で、今回まんまとそれが出てきたというわけ。
むろん私は、今回瓶に気づくまで、そういうことをすっかり忘れており、
そして、それなりに驚き、そして喜んだわけですから、
過去の自分にまんまとやられたというわけですよね。
どっきりとも、びっくりとも違う、独特の驚きで、
何とも言えず、懐かしくもあり、新鮮でもあり面白い!
こういうのもやはり一人遊びでしょうかね?
こういうの実はすごく好きで、子供のころからこうなんです。
だからきっとこの先も、変わらないんだろうなと思います。
(=^^=)ゞ
*追記*
少し違うのですが…
たまに懐かしい曲を聞きハッとすることがあります。
そういう時は瞬間的に過去の出来事がフラッシュバックしてきて何とも言えず気持が良い!
でも、だからといって何度も聞くと、次第にそれも色あせてしまい、
当初の「ハッと」した感じが失せていくので、
聴きたい気持ちをぐっと押さえ、またしばし封印するのです。
すると、いつかまた偶然耳にした際、また「ハッと」できるから。
これって先ほどの瓶の話に少し似ている気がするんで、
やっぱり一人遊びなんかな?
*追記の追記*
で、今自分の書いた文章を読み返して気が付いた!
私の大好きな作家で梶井基次郎がいるのですが、
彼の作品で最初に惹かれたのが「檸檬」。
考えれば、あれこそまさに一人遊びの代表のような話ではないか!
なるほど、それでか~!