エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-XVI-11

2021-12-03 09:37:59 | 地獄の生活

今夜にもその人に知らせてくれている筈なので、明日には会えるでしょう……。くれぐれも今後はマダム・モーメジャンだということを忘れないようにしてくださいね」

 現在の状況に心を奪われ、パスカルは止め処もなく喋っていた。一方フェライユール夫人は時計を取り出し、優しく息子に言った。

 「あなた、約束があるのでしょう? 戸口で馬車が待っているのを忘れてない?」

 そのとおり、彼は忘れていた。急いで帽子を被ると、母を抱きしめ、彼は外に飛び出していった。辻馬車の馬たちは疲れ切っていたが、御者は心得たものでクールセル通りまで馬たちをだましだまし走らせていった。とは言っても目的地に着くと、彼は自分も馬もくたくただと宣言し、所定の料金を受け取ると歩く速度で遠ざかっていった。

 空気は冷たく、夜の闇は深く、通りは人っ子一人いなかった。陰気な静寂が支配し、ときたま戸を叩く音か、夜遅く帰宅する足音が遠くに聞こえるだけだった。後少なくとも二十分は待たねばならない。パスカルはド・シャルース邸の向かい側にある隅石(建物や壁を馬車の衝突から守るためのもの)のところまで行き、腰を下ろした。視線はじっと邸の正面から動かず、まるで意志の力で壁を透視し家の中で起きていることを見ようとしているかのようだった。

明かりが灯っている窓は一つだけで、そこではド・シャルース伯爵の通夜が行われていたのだったが、その窓枠の中に一人の女の姿を通りから見ることができた。彼女はじっと動かず、窓ガラスに額を押し当てていた……。

時が経っていった……。

自分の人生、運命、将来がもう取り返しのつかない形で決せられようとしていることを感じつつ、言葉で表せないほどの苦悶に翻弄されながら、パスカルは一秒一秒を数えていた。過去を思い返し、熟考し、来るべきことを予測し、計画を練る……そんなことは不可能だった。彼は自分の意志で思考を制御することが出来なかった。この二十四時間で起きたすべての辛い出来事の記憶さえなくしていた。コラルト、ヴァロルセイ、マダム・ダルジュレ、男爵……すべてもはや存在しなかった。自分の地位が失われたことも、自分の名前に被せられた不名誉も忘れてしまった……。過去はまるで抹殺されてしまったかのようだった。未来は数分後から先は存在しなかった……。彼の全人生はこの瞬間に凝縮されており、何も認識せず、何も感知しなかった。彼がマルグリット嬢を待っており、彼女がやって来るということ以外は……。

彼の身体的状態がこの心弱りの原因を作っていたであろうことは否めない。彼は一日中何も食べず、胃の中は空っぽで機能を失っていた。彼が身を護っていたのは外套一枚だけだったので、寒さが骨の髄まで沁みとおっていた……。耳鳴りがし、目は光に耐えられなくなっていた……。12.3

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