エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-VIII-8

2023-07-08 11:17:42 | 地獄の生活
しかし自己防衛の本能がこれらの良心の呵責に打ち勝ったのであろう……。彼女の名誉、パスカルの名誉、そして彼ら二人の将来、二人の愛と幸福が掛かっているのではないか!
「ここで躊躇ってなどいたら、それは正直さでなく愚かさだわ」と彼女は呟いた。
そしてしっかりした手つきで鍵を鍵穴に差し込んだ。錆びついてがたがたになっていたので、なかなかすんなりとは行かなかったが、引き出しは開いた……。すぐに目に飛び込んで来たのはマダム・レオンによってきちんと整列させられた装身具の畝で、問題の手紙はその上にあった。マルグリット嬢は気持ちの昂ぶりを感じつつ急いでそれを手に取り、広げて読んだ。
『マダム・レオン殿、……』
まぁ、とマルグリット嬢は呟いた。名前を省略もせずに書いてあるではないか! これでは否認することも難しかろう、不用意なことだ……。彼女は続きを読んだ。
『貴下の手紙、たった今落手。当方の召使どもより聞き及びしことの正しきを確認せり。我が留守中、土曜夜及び日曜朝と二度までも我が方を訪問、伝えたき用ありとの由……』
思い切ってここまで侵入してこの手紙を読めてよかった、と彼女は思った。マダム・レオンがいかにも大事そうに親戚、親戚と言い立てていたのはやはり単なる口実に過ぎず、自由時間を作るためだったのだ。侯爵の言葉は続く。
『留守をいたしたことは誠に遺憾。面会能わずなりしこと以上に、さもなくば命運に関わる最重要なる指示を貴下に直にお与え申すことができましたものを。いまは貴下も心して掛かられよ。我らは決定的な局面を迎えんとしております。我が計画により、ダルジュレ邸において我らが計りしかの取るに足りぬ不祥事のあった後は、かのむくつけきP.F某 の記憶をば、たとえ思い起こさんとあそばされたとしても徹底的かつ恒久的に人心より抹殺したものと考えます……』
P.F.某……このイニシャルははっきりとパスカル・フェライユールを指している。ということは、マルグリット嬢は自分自身が攻撃されたもののように、これに応じるのは当然のことだ。彼は無実だったのだ! そして彼女は彼の無実を証明する反論のしようのない証拠を手にしているのだ……。あの卑怯者のヴァロルセイはこのように告白している。しかも、なんという破廉恥な軽々しさでもって自分の卑劣で忌むべき犯罪を語っていることか。
彼女は先を読んだ。
『お膳立てはすべて整った。よほどの思いもかけぬ不都合でも生じぬ限り、あの小娘は我が腕の中に飛び込んだも同然……』
戦慄がマルグリット嬢の肩を震わせた。小娘……それは明らかに自分のことだ。7.8
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2-VIII-7

2023-07-04 10:02:13 | 地獄の生活
既に出かける支度を終えていたフォンデージ夫人は馬車を迎えにやろうとしていたのだが、マルグリット嬢に一緒に行かないか、と提案した。こんな申し出に乗らない者などいない、と彼女は決めてかかっていた。新商品を取り揃えている店から店を回るのは、買えるか買えないかは別にして、たとえ興味を惹かないものであったとしても、抗しがたい魅力なのだ……。それは大貴族の御婦人たちによってアメリカから取り入れられた習慣で、絹物を取り扱う店の貧しい女店員に絶望感を与えるものであった。一時ごろになると、流行に敏感な若い女性たちがこういった店にどっと押しかけ、布地を見せてくれと要求する。ただ見て回るだけより、その方が面白いのだ。絹の布地を二百メートルほども無駄に広げさせた挙句、彼女たちは夕刻には帰宅するのだが、その一日は無駄に終わったわけではないと満足するのである。中には猛者がいて、このような探検から手ぶらでは帰らない。レースの一片、あるいは手袋など易々と一ダースほどもマントの襞の中に迷い込んでしまうのだ。
さて、それなのに、マルグリット嬢はその申し出を断ったので『将軍夫人』は非常に驚いた。
「片づけなければならないことがたくさんありますので」とマルグリット嬢は付け加えた。なにか理由が必要だと思ったからである。
マダム・レオンは『お嬢様』と違い、そのような理由で家に留まる理由はなかったので、勇んで口を挟み、自分は何軒かの店に知り合いがおり、特にミュルーズ通りのレース飾り専門店では自分が口をきけばかなりお安くしてくれる筈、と主張した。
「いいわ」とフォンデージ夫人は答えた。「貴女を連れて行きましょう……でも身支度は素早くしてね。私が帽子を被っている間にやってちょうだい」
彼女たちは同時に食堂を出た。その後をマルグリット嬢も大急ぎで続いた。自分の心に芽生えた希望が表に出ないよう気を付けながら……。彼女は部屋に戻ると仕切り壁に額をくっつけ、隙間に目を凝らした。マダム・レオンは急いで服を着替え、ショールを肩に掛け、一番綺麗な帽子を選び、小さな鏡にちらりと視線を走らせると、外に飛び出して行き、大声で叫んだ。
「奥様、用意ができましたわ!」
そしてその後すぐ、二人は一緒に出掛けて行った。玄関のドアの閉まる音が聞こえたとき、マルグリット嬢は目も眩む思いだった。もし見えたものを信じるとすれば、マダム・レオンは箪笥の鍵を今脱ぎ捨てていった服のポケットに忘れていった筈である。
彼女の胸の鼓動は呼吸が困難になるほどに高まったが、彼女は隣の小部屋に通じているドアを開け、入っていった……。素早くベッドのところまで行くと、そこに脱ぎ捨てられたドレスのポケットを震える手で探った……。
運命は彼女の味方をした! 鍵はそこにあった……あの手紙が手の届くところにあるのだ。しかしそれは嫌悪を催させる行為であった。鍵を盗み、鍵のかかった引き出しを開け、信書の秘密を侵す……。これは彼女の自尊心を著しく傷つけることであった。彼女はしばらく動かなかった。7.4
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2-VIII-6

2023-07-01 14:52:23 | 地獄の生活
この瞬間から、彼女の頭は専らこの考えに占領された。なんらかの策がないものかと一心に考え込んだあまり、朝食の間彼女が喋った言葉は十語にも満たず、しかもうわの空であった。
 「あのいまいましい手紙を手にする方法を考えつくことが出来なければ私は単なるお馬鹿さんだわ」と彼女は頭の中で何度も繰り返した。「あの中に書いてあるのよ。パスカルと私が陥れられた邪悪な陰謀の証拠となるような言葉が……」
 彼女がうわの空であることは、しかし幸いにも誰にも気づかれなかった。共に食事をしている者たちは皆それぞれ自分の考えに耽っていたからである。
 マダム・レオンはさっき受け取った手紙について思いを巡らせ、それ以外は専らヤマウズラのトリュフ詰めとシャトー・ラローズの瓶に注意を奪われていた。彼女は美味しいものには目がない方で、自分でも無邪気にそれを認めていた。そして、完全な人間なんていませんものね、と付け加えることを忘れなかった。
 『将軍』は午後に見に行くことになっている二頭の馬のことを止め処もなく喋っていた。彼はそれらを買うつもりであった。貸し馬車にはほとほとうんざりさせられているので、と。それに、さる破産した若い貴族が所有していた繋駕用具の購入は申し分のない投資であると述べていた。その青年貴族は博奕好きであるのと、少し度を越した贅沢好きの金髪女性に入れあげていたこと、及び宝飾店主の訴えにより軽罪裁判所送りになったのであった。
 フォンデージ夫人は、間近に迫ったコマラン伯爵夫人のパーティのことで頭が一杯といった風情であった。準備をするのにあと二週間しかないのだ……。昨日の夕方からベッドで寝ている間、そして今朝起きてからもずっと彼女は頭の中でドレスの生地や色の組み合わせ、スタイルをあれこれと考えていた。そのため偏頭痛を起こしながらも、彼女はついにセンセーショナルな衣装を思いついた。それは新聞の時評欄に載り『シックな』と評され、地方のファッション誌のド・サンタガット男爵夫人やド・ヴィラフォール子爵夫人といった婦人たちに恍惚感を惹き起こすことであろう。
「まぁこれって凄いじゃない!」と彼女はこの閃いた考えにうっとりとなった。「紅茶色のドレス一面に小さな花が刺繍してあって、その下には中国製の厚手の生の絹。裾には大きなバレンシア風の裾飾り。私はその上にパールグレーのクレープのチュニックを羽織るわ。ドレスと同系色のフリンジで縁飾りがしてあって、後ろはバスケットの形になっているものを」
しかし、このような複雑で素晴らしい作品を完成させるためには、どれほどの苦労と手間、そして大騒ぎが必要なことか! 仕立て屋と何度相談を重ねなければならないことか。それに花屋、飾り紐製造業者とも!暗中模索したり、躊躇したり、それに必ず間違いも出てくる! ああ、取り掛かるのに早すぎるなんてことはないのだ!一分たりとも無駄には出来ない……。
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