アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

一休という名の由来

2023-08-03 19:28:44 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎祇王寺

(2005-11-06)

 

京都の祇王寺に参ると次のような説明を目にする。

「平清盛の寵愛を受けていた祇王は、仏御前に寵愛が移ったことにより、清盛に捨てられ、祇王は母と妹と共に出家して、この祇王寺に移り住んだ。

後にやはり清盛に見限られた仏御前も祇王を追い、四人の女性はここで尼としての余生を過ごした。」

 

そこで「女所帯のわび住まいの場所なのだろうが、出家して納得したところがあったのだろうか。そういえば、平安文学に、悟りの概念などなかった」などと感慨を新たにしたものだ。

 

さて一休が25歳の時、ある日盲目の琵琶法師が、平家物語の祇王が清盛の寵愛を失うの段を歌うのを聞いている時、公案の『洞山三頓の棒』のことで突然悟るところがあった。このことで、師匠の華叟は、一休の二文字を与えた。(祇王の悲話と公案にはストーリー的に何も関係はない。)

 

『洞山三頓の棒』の公案とは、これ。雲門、洞山とも中国の有名な禅匠。曹洞宗の洞の字は、洞山の名から来ている。雲門は、肝心なことをわかっていない禅僧が来ると、親切にも棒で20発たたいてあげた(棒を食らわすとは、このこと)。

 

******

「雲門は洞山が初めて参じたとき、いきなり尋ねた。「何処からやって来られたか」

洞山「査渡からやってきました」

 

さらに「この夏(安居)は何処で過ごされたか」

「湖南の報慈寺でございます」

「いつそこを出てこられた」

「8月15日であります」すると、

「お前さんに三頓の棒(六十棒)を食らわせてやりたいところだよ。」とすげない応えが返って来た。

翌朝洞山は雲門和尚の室に行って、「昨日は六十棒を食らわせたいと言われましたが、私のどこが間違っているのでしょうか」と尋ねた。すると雲門が言った。「この大飯食らいの能無しめ、江西だの湖南だの、お前はいったい何処をうろついていたのじゃ」

洞山はその途端に大悟した。」

*****

 

大悟するしないは、薄皮一枚の差とは承知しているが、そこに飛び込む勢いがないと飛び込めるものではないのではなかろうか。現代はテレビやブランド漁りを始めとして、その勢いを消耗させるものがあまりにも多い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

危機感の薄い日本人に求められるもの

2023-08-01 12:37:39 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎どこかでどん底まで落ちるしかないのかも

(2012-02-21)

 

嶋野栄道氏の続き。これは阪神・淡路大震災後に日本人の無覚醒を憂えた文。

 

『危機感の薄い日本人に求められるもの

 

こんなに文明が発達し、こんなに物質的に恵まれた時期がかつて世界の歴史の中であっただろうかと思うほど、現在の日本は成熟しています。

 

日本に帰ってきて新幹線に乗るといつも驚かされます。十五分ごと、時間どおりに発着して、しかも実に丁寧なアナウンスがあります。あまりにも丁寧すぎて、もうやめてくれと言いたくなるほどです。とにかく、きれいで、速くて、素晴らしい。私が知る限り、物質的にこれだけの文明を有する国はありません。アメリカにもヨーロッパにもない。日本だけです。

 

その半面、日本人はアメリカの悪い面ばかりを真似しているように見えます。自国にある素晴らしい文化的伝統を躊躇することなく捨ててしまっているように感じられてなりません。「捨てるべきもの」を間違っているのです。

 

先に情緒の話をしました。言葉にはできないけれど、感情が伝わってくるというのは、日本人に独特のものでした。しかし最近の人たちは、日本人でありながら、情緒というものがわからなくなっているようです。それは日本人が自国の文化の集大成である古典を読まなくなったこととも関係しているかもしれません。

 

私は長く日本を離れていた分、余計に日本を愛しています。それは愛国心というより祖国愛です。それだけに、この素晴らしい国がいつまで続くのだろうかと心配します。同時に、

一禅僧の目から見て、日本人の心が枯れてしまっているのが気がかりです。日本人にはそういう危機感があまりに少なすぎるように思うのです。もし日本人が今のまま目覚めないとすれば、どこかでどん底まで落ちるしかないのかもしれません。

 

一九九五年に阪神・淡路大震災があった時、たくさんの方がお亡くなりになりました。その時に被災者の方たちは、地震のすごさを体感されました。頭で理解したのではなく、目で見ただけでもなく、まさに身をもって感じたのです。地震に遭遇した方にお話をうかがうと、今でも大きな音を聞くと、思わず身構えてしまうそうです。

 

天災は避けようとして避けられるものではありませんが、一度ああいう極限状態を体験すると、それ以前とそれ以後とでは人間が変わってしまいます。それまでは何でも買い集めていた人が、一遍上人のように「捨てて捨てて」という気持ちになったという話も聞きました。

 

本当は、日本人自らが気づいて自分たちのあり方をあらためるのが一番なのですが、もしそれが不可能ならば、いつ何らかの力によって厳しい状況に遭遇することになるやもしれないということを肝に銘じておくべきでありましょう。そうなる前に、なんとか日本人が目覚めることを願います。』

(愛語の力/嶋野栄道/到知出版社P232-235から引用)

 

自分も今の日本が恵まれていることには、相当に見方が甘かったことは自戒したい。心ある日本人のみるところ、「日本は、いままでが良すぎた。それを当然・普通と思っている。」という声をしばしば聞くようになった。

 

そこに来て東北関東大震災があって、日本人はどんぞこまで一回落ちないとという嶋野さんの懸念が現実化しつつある。

 

中国人の悪いところは目につきやすいが、アメリカ人の悪いところは宣伝・マスコミ対策のせいかわかりにくくなっている。その延長線上に、つまりアメリカのカルチャー、音楽(ヒップポップ、ラップ、ロック)、映画、核家族なライフ・スタイル、ファースト・フードの受け入れは盛んである一方、日本の情緒的な映画、演歌、大家族なライフ・スタイルはどんどん捨て去られていく。

 

一言で言えば、アメリカン・カルチャーは愛の薄いドライなカルチャーで、日本の文化は、愛あふれる情緒的なウェット・カルチャー。日本がそれを捨てすぎれば、源流は枯れる。それでも日本がどんぞこまでいくのであれば、その落ち目の運命は、政治家や官僚だけのせいではなく、われわれ自身のせいであることに間違いない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏法東漸してニューヨークに到る

2023-08-01 12:33:31 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎愛語の力(嶋野栄道/到知出版社)

(2012-02-20)

 

嶋野栄道氏も三島の龍澤寺出身。中川宋淵老師の膝下で修行を積み、昭和39年ニューヨークに渡り、文字通りの無一物からニューヨーク禅堂を開いた。文字通り異郷の菩薩である。

 

嶋野氏は渡米時にはまだ修行中の身であったが、山本玄峰に頭をさわってもらったり、中川宋淵に自分の遺骨を米国に埋めることを頼まれたり、相当な役回りのできる高徳の人物であることがうかがえる。実は、一宗の命運を託されるその様子は、古神道の笹目秀和氏と似たようなところがある。

 

歴史学者のアーノルド・トインビーが、数百年後に評価される20世紀最大のイベントは、人類月に立つでも2つの世界大戦でもなく、仏法東漸であるといったそうだが、禅が米国で芽吹くというのは、禅も亡国日本とともに滅び、やがて米国で花を開くということか。それを予期した上で中川宋淵は自分の遺骨を米国に埋めることを嶋野氏に託したのか。だとすれば、これには一種のご神業の風光がある。

 

仏法が東漸するとは、日本からアメリカに到ることであり、更に21世紀最大のイベントは、フロリダの先に再浮上するネオ・アトランティスに仏法が東漸することに違いない。(古神道はモンゴルへ。)

 

愛語の力(嶋野栄道/到知出版社)は、とても読みやすい本だが、書いている中身は凄味がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丹田を錬る-7

2023-07-27 18:39:41 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎古神道の禊の神事-6

◎伊吹の神事

(2021-03-01)

 

一厘の仕組は、言霊。言霊を伊吹き払う。

『言霊(ことたま)の水火(いき)をこらして曲神(まがかみ)を

  伊吹き払へば消え失せにけり』

(霊界物語第77巻 第一五章 笹原の邂逅)

 

伊吹の神事は重要である。

やり方のポイントは、

1.両掌を臍の位に置き、勢よく十字形に組み合せ

 

2.腹式深呼吸を三回行う。

※腹式深呼吸:完全呼吸法(丹田呼吸法)

①意識を丹田(へそのやや下)において腹をひっこめ、息を十分に吐きだす

②1~2秒息を止めてから、腹の力をゆるめる。すると自然に鼻から息が入り、腹が少しふくれる。

③胸を広げ、まず胸の下部分に息を入れ、次に真ん中とだんだん上方に息を入れていき、最後に肩を上げ、胸の上部にまで一杯に息を入れる。息が胸に滿ちるにつれ、腹は自然に少し引っ込む。意識は、息で膨らむ部位とともに上へ上へと位置を変えていく

④しばらく息を止め、やがてゆっくり息を吐く。まず腹がすぼまり、次に胸の下部、中部、上部とすぼまりながら、完全に吐く。 意識をすぼまる部分にそって移動させる。

 

3.最後の吸気を全部呑んで呼出しない。

 

以下は霊界物語での伊吹の神事の説明。

伊吹の神事:

『雄詰を終りて、直ちに両掌を臍の位に置き、勢よく十字形に組み合せ、然る後腹式深呼吸を三回行ふ。而して最後の吸気を全部呑みて呼出せず、之を伊吹の神事と言ふなり。』

(霊界物語第75巻第一章 禊の神事から引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝海舟の禅

2023-07-05 16:51:56 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎虚心坦懐、事変に処す

(2017-08-26)

 

勝海舟は、19か20の時、島田先生から、剣術の奥義を極めるためには、まず禅だと言われて、手島の広徳寺に行って、大勢の坊さんと一緒に禅堂で坐禅を組んだ。

すると和尚が棒を持ってきて、いきなり坐禅をしている者の肩を叩く。すると片端から仰向けに倒れる者が沢山出た。

坐禅していても、金のこと異性のこと、グルメのことなどいろいろなことを考えて心がどこかに飛んでしまっているから、そこを叩かれるので、びっくりして転げるのだ。

海舟も最初は、ひっくり返る仲間だったが、だんだん修行が進むと少しも驚かなくなって、肩を叩かれてもただわずかに目を開いて見る位のところに達したので、4年位真面目に修行した。

この坐禅の功と剣術の功が土台になって、勇気と胆力となり、後年大変役に立った。明治維新で万死の境を出入りする時に、遂に一生を全うしたのはこのためだった。当時は随分刺客に襲われたが、いつも手取りにした。

 

危難に際会し、逃げられないと見たら、まず身命を棄ててかかった。そして不思議に一度も死ななかった。

ここに精神の一大作用が存在する。人、一たび勝とうとするに急なれば、たちまち頭は熱し胸が躍り、やることは却って顛倒して、進退度を失することになるのを免れない。

反対に、退いて防御の位置に立とうとすると、たちまち退縮の気が生じてきて、相手に乗ぜられる事になり、大なり小なりこの法則のとおりとなる。

 

海舟は、この法則を悟了し、いつも先ず勝負の念を度外に置き、虚心坦懐、事変に処した。それを、小は刺客乱入の厄を逃れ、大は、明治維新前後の難局に処し綽綽として余裕があった。これは禅と武士道の賜物であると感謝している、と。

勝海舟は、幕臣でありながら、明治維新に際しては、世渡りがうまく立ち回ったこずるい人物のように見られがちであるが、大悟したようではないが、それなりに冥想修行には打ち込んでいた。

「勝負の念を度外に置く、事に際しては逃げない、自分を棄てる」、というのは簡単な理屈ではあるが、実際に行うのは容易ではない。

 

夏の高校野球で優勝した花咲徳栄高校岩井監督が、決勝で広陵高校の本塁打6本の中村奨成選手に対する心構えとして、「逃げるな」をアドバイスしたのは、勝海舟に通じるところがあった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西郷隆盛と禅

2023-06-25 20:52:38 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎未発の中

(2006-07-19)

 

日本の政治は薩摩長州というのは、戦前だけではなく、戦後も連綿とその影を落としている。一例として、安倍晋三は長州閥代表である。

 

さて明治維新の大乱の中で、利害得失について大局観を失わずに物事を進めていくためには、個人や一国という人間を超えた立場、己れを捨て去った立場に立たないとならないものである。そこで、幕府方の一人が禅を極めた山岡鉄舟であり、かたや倒幕勢力の薩摩の西郷どんが、これまた禅に打ち込んでいたことはあまり知られていない。

禅なくして、明治新政府の時代を先取りした舵取りの一定の成功はなかったことだろう。新知識、新技術が洪水のように導入されたが、それがそれなりに成功したのは、禅によるバランスのとれた判断力があったと見るべきだろう。

 

西郷隆盛は、17歳から28歳までの間、一日も怠ることなく、誓光寺の無三住職について禅をしていた。大山巌が、朝早く西郷隆盛の家を訪れると、既に西郷は無三住職の下から帰って来ていたものだという。

ある日西郷隆盛は、無三和尚に言われた。

「貴下の学んでいる儒書には、喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という、とあるが、未発の中とは何か。」

南洲(西郷隆盛)は、さっそくいろいろと説明した。

すると和尚はすかさず言った。「それは文字の講釈じゃ。朱子や王陽明など古人の残り糟をなめる死に学問だ。おまえさんの活きた本物を出して見せなさい。」

南洲は茫然自失し、唖然として答える言葉がなかった。それから一週間、猛然と禅に打ち込み、ついに未発の中を大悟した。

 

昨今は、知識だけつけて、良い大学に入りさえすれば、将来が開けるとか、難しい資格試験の勉強をして良い資格をとりさえすれば、一生安泰だと思っている人が多い。

ところが資格や高学歴の前に、人生の一大事である『何のために生きるか』について、一つの回答を持っていなければ、人生行路の途中で『うつ』になったり、心身のバランスを崩したりすることが多いのではないか。内面に出なければ、家庭崩壊などの外面に出ることもあるのではないか。

人は、人生のあらゆる局面を「資格」や「学歴」や「知識」や「金」で解決できるものではない。

あの大西郷ですら、10年以上『何のために生きるか』という大問題と格闘した。いわんや市井の凡人ならもっと努力が必要だろう。その方法は、何も臨済禅に限る必要はないけれど、自分にあった冥想によって、納得できるまでアプローチしていく人が増えなければ、日本の未来も、世界の平和も、個々の家庭の安穏もあるまい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西郷隆盛沖永良部で万事休す

2023-06-25 18:59:45 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎その冥想修業を語らず

(2019-07-27)

 

西郷隆盛は、流刑に2度遭遇し、一回目は奄美、二度目は、沖永良部。沖永良部は奄美と沖縄の間にある。

 

老西郷大島流竄中の事跡によれば、非常にお粗雑な造りで狭隘な牢(二間四方)に閉じ込められ、日光も浴びれず、脚を伸ばせば枕は便所に接し、臭気は我慢できるものでなかったほど(トイレは室内)。

 

また与えられる食事も粗末で量も少なく、もともと巨体で肥満していた西郷の肉体も日に日にやせ細り、ついに歩行の自由を失うに至った。

 

このような状態であるにも拘わらず、君命重しとして、敢えて牢を出ることなく、三度の食事以外は水も口にせず、端座し続け、読書や冥想をしていた。(出典:維新を創った男西郷隆盛の実像/粒山樹/扶桑社P144など)

 

こうした状態が2か月続き座敷牢に移してもらった。

 

狭い牢獄で暫く暮らすと歩けなくなるのは、黒田官兵衛の有岡城の土牢の件でも知られる。

 

こうした冥想しかできないような環境に置かれ、かつ絶望に陥らず冥想を続けるというのは、万事休したが、坐ることはできるので坐ったということ。

社会性は失ったが、冥想しかできなかったので冥想したということ。

 

簡単にできるが如く書いてはいるが、洞窟での感覚遮断実験のようなもので、自分が振れると気が触れる可能性はある。

 

飲まず食わずの冥想は長く続けられるものでなく、2か月で打ち止めとなった。イエスも荒野の冥想は40日。

 

その後、西郷隆盛は写真を残さないまま、戊辰戦争など明治維新前後の戦役をほとんど一人で主導し、西南戦争で没した。西郷隆盛は悟っているが、更に沖永良部でその冥想を深めることで、その後の人生と日本の維新を一気呵成に進めたというべきだろう。

 

覚者の長期の冥想修業は軽々に見るべきではなく、その間の出来事は、聞ける相手が出現して初めて語られるものであって、結局そういう相手は出ずに終ったのだろうと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水牛の尻尾

2023-05-10 06:25:59 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎無門関の第三十八則 牛過窓櫺

(2017-10-18)

 

禅問答集の無門関の第三十八則 牛過窓櫺(ぎゅうかそうれい)

 

『禅の五祖法演禅師が曰く、

たとえば、水牛が窓の格子越しに通っていくのを見ていて、頭、角、四本の蹄がすべて行き過ぎ終わったのに尻尾だけが残って行き過ぎない。』

 

これを無門が歌うに

『窓を過ぎ去れば、堀や溝に落ちてしまう

引き返すようでは押しつぶされる

この尻尾は、甚だ奇怪である。』

 

窓から見ている自分は、本当にすべてを捨てきることができたのか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正受慧端-5

2023-04-26 16:25:31 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎その生い立ち

(2009-07-31)

 

正受慧端は、1642年信州松代藩主真田信之(真田幸村の兄)の庶子として生まれ、飯山城主松平忠倶侯に養われていた。正受13歳のころ、城下の曹洞宗大聖寺の奪心禅師の登城した時に、侯の子供達が、禅師に紙を差し出し仏名を書いて頂いていた折り、正受も請うたところ、禅師は「正受には観世音がついておられるので、仏名を差し上げられない」と断られた。

 

正受がその意味を問うと、禅師は「自分に訊いてみなさい、他人に問うてはならない」と戒められた。この時正受は、将来の自分の成道の予感を持つことになる。

 

以後、出家こそしていないが、修行に専念するようになり、しばしば寝食を忘れ、大疑団に集中し、立っては坐ることを忘れ、坐っては立つことを忘れ、城内で行方不明になることも多く、雪隠(トイレ)で発見されることが多かったので、松平忠倶侯は、正受のことを強情な白痴だろうと言うほどであった。

 

正受16歳の時、たまたま2階に上がろうとして、階段の半分位のところで、立ったまま定に入り、階段から転げ落ちて、気絶した。

 

人々が驚いてこれに水をかけて呼ぶと、蘇生して、手を打って大声で笑いだしたので、人々はこれは発狂したのだと思ったが、実は大悟したのであった。

 

その後19歳の時、江戸に出て、菰一つだけで寝たり坐ったりする極貧の、麻布の至道無難禅師について出家した。(いつの世も、極貧が本物のサインであって、豪壮な本部を構えている本物はまずない。マンモンの神は本物には寄りつかない。)

 

大器は、遅くとも思春期のころから悟りのボーダーにいる。思春期の頃から無常を生きているわけだから、生きるのはつらいものだと思う。また部屋住みとはいえ、藩主の子が出家するのはなかなかの覚悟がなければできることではない。

 

実母も長生だったようだから、覚者によくある両親の早世というインパクトがなくても、充分にこの世の思い通りにならぬことを骨身にしみて承知していたから、16歳で大悟したということだろう。

 

飢え死にする危険はほとんどないけれども、いまや小学校でも三分の一が片親家庭、失業率も高く、うつ病の生涯有病率は8人に一人と、充分に不安定な精神の者が大量に出現する時代。物質的にはそこそこで、精神的には不安定、そんな現代の環境は正受の生い立ちによく似ている。よって自覚さえあれば、大悟への道は開けやすいとも言える。

 

衣食住の環境は整い、精神は成熟した。今や待たれているのは、政治でも経済でもそうなのだが、精神世界でも『次世代のビジョン』である。そろそろ出ないと、あらゆるものが混乱のうちにコントロールを失って失速する虞がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正受慧端-4

2023-04-26 16:19:42 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎正受慧端の修行時代

(2005-08-02)

 

1.屋根の下から足を突く

正受は、師家の至道無難に付いて修行を続けていたが、ある日屋根の修復を命じられた。正受が屋根に登ったところで、師家は、下から杖を伸ばして老人の足を突いて、『香厳の樹上の公案はどうだ、さあ見解を言ってみろ、言ってみろ。』と責めたてた。

 

※香厳の樹上の公案:口に枝をくわえてぶら下がっているところで、正しい見解を言わねばならないという公案。言えば枝から落下して大けが、言わねば修行としては不合格。

 

2.師匠の著作を火に投ず

ある時無難禅師が、和文で書いた法語を出して、正受に与えて言うには、「これは、私の睡眠中のたわごとである」。

そこで正受は、これを開いて2~3枚読むと、立ち上がって、炉の中に投げ入れてしまった。

無難が「何をする」と言うと、正受は「老師こそ、何をなさいますか」と答えたところ、無難も黙ってしまった。  

 

 

一人でも半人でも、得道した人間を育て上げるのは、得道した人間の使命であり、かつその育て上げた弟子は、師匠のレベルを上回っていなければならないと聞く。

 

中国古代の聖天子の一人、舜は、やはり屋根の上で、下から火をつけられたが、屋根の上で足を突かれる話は、それに比べると、ましかもしれないが、危機の中に陥れるという点では、十分な鍛え方と言えよう。

 

また、自分の法語を焼き捨てられるのは、師匠として、その場は非常に気分を害したろうが、納得した部分もあったのではないだろうか。師匠のレベルを越えるという意味で。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正受慧端-3

2023-04-26 16:10:24 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎見性した後の正念ケアが大切

(2005-08-01)

 

見性するのも大変だが、正受慧端ほどの名僧にして、60代半ばにして、ようやく正念相続ができるようになったと述懐している。正念とは、仏の側の生き方であるが、それが日常生活、行住坐臥の中で徹底できるようになったと語っている。

 

正念相続とは、普通の人間が見ている世界というのは本物ではなく、生も死もないというのが当たり前の現実であるという意識の世界を継続していくことである。フツーの人から見れば、その認識の仕方は、変性意識とか、統合失調症の症状の一種ではないかと見られるが、それが、覚者から見たまぎれもない現実なのだろうと思う。

 

つまり『生も死もない』というのが、それしかない唯一の現実であると感じられる精神状態は、精神医学的には、変性意識とか、統合失調症の症状にしかないと思う。このような精神状態も正常として受け入れる了見が、現代社会にあるとは思えないのもまた、寂しい現実ではある。

 

理屈や観念的、知的理解で『生も死もない』とやるのは、簡単だけれど、正受慧端が、単に知的理解を期待して『生も死もない』とやったわけではあるまい。

 

※「正念とは、正しい思考、真実の思念。これを常に持ち続けて修行に勇猛邁進することが工夫」という注釈がついているが、これでは何のことかよくわからない人が多いでしょう。正念って、世間の常識からずれたところにあるので。 

 

『現代の悪風として、人々は世間的な名誉を得たい心が強く、それぞれ財をむさぼり、身を肥やす情が盛んで、時々は仏道を行っているように見えることもあるが、しかも正念工夫の決断をして動かぬ人は実に得難い。

まして正念工夫を持ち続けて絶やさぬ人を求めると、千人万人の中に二人とはない。

 

(中略)

 

今は既に七十に近いが、その間の四十年は、万事をなげうち、世の中の様々を縁を断ち切って、もっぱら仏教を護り続け、ようやくここ5~6年この方、正念工夫の本当の持続をすることができるようになった。』

(垂語/日本の禅語録/無難・正受)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正受慧端-2

2023-04-26 15:51:45 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎見性した人の少なさ

(2005-07-31)

 

さて、いろいろなきっかけで、禅寺に入って修行してみようと思うことがある。その場合正しい師匠がみつかるかどうかということが重要な問題となる。インターネットで検索してみても、「某A寺のA和尚は見性しました」とか、「某B寺のB和尚は、大悟何回小悟何回の実績があります」などということが書いているわけではない。

クチコミでも、なかなか誰それが見性したという話は聞くことは少ない。

 

かたや見性した者を多数輩出している寺があり、よくよく聞いて見ると、どうも至道無難や、正受慧端のいう見性ではなく、どうも観念的な「気づき」や「知的理解」みたいなものを見性と呼んでいるので、多数見性した者を出しているようだとわかったことがある。

 

絶対なるものに対しての観念的な気づきすらも、全く理解できない人が多い中、「気づき」も決して馬鹿にすることはできないが、それは見性の重さとは全く異なるものである。

 

『近頃は、国中を払ってみても、似たりよったりの学問を看板にした生き損ないや、見性しない師匠ばかり。仏祖から伝えられた大法に至っては、今だかつて夢にも見られないと。

 

白隠(正受慧端の後継者)が人に語って曰く、

私はかつて老師の議論を聞いて思った。方々の寺が互いに威容を誇り、有名な師匠が次々に繁盛している。

私の老師はなぜこのように諸方のことを憤激なさるのか。これは、いわゆる仲間意識だろうかと。

 

その後、世の中あちこちに遊歴して、幾人かの宗匠にあったが、一人も大きな見地で導くような、本当の高僧にぶつかったことはない。初めて知った。正受老人の道は遥かに諸方の僧どもにぬきんでていたことを。』

(垂語/日本の禅語録/無難・正受)

 

江戸期の寺は、戸籍の管理をしていたり、戦の時の陣屋になったりして、今の役所以上の重要な機能を果たしていたので、有力者の厚遇を得るチャンスは多かったであろうから、今の時代と比べても、寺の経営を隆盛にすることは、簡単にできたのではあるまいか。

したがってこのような大寺が、道を説くという面をおろそかにしていても、あまり不思議はなく、逆に真正の求道者が貧乏寺に起居させられるのを見て、正受慧端が憤慨するのも納得できるところがある。

 

中国のように生き抜くこと自体があまりに厳しい社会では、結局仏教は根付かなかった。日本は、中国ほど生存環境は厳しくないが、江戸時代に寺を厚遇したら、あっという間に仏教の本当のところは、衰退したということだろう。

 

坐禅冥想をするには、必ず寺でやる必要はない。自宅でやればよい。

ところが、見性以上のところにいくためには、世間的に見たら精神異常のような状態を通過するので、見性した師匠の指導のもとに、世間から隔離された場所でする必要がある。そのことが、世間の人に常識として広く理解してもらえる時代が来ないと、冥想の本当に深いところが、広がっていくことはむずかしいと思う。

 

例えば白隠が、一軒の家の前にたたずんで、老婆に何度も「あっちへいけ」と言われたのに、つんぼ同然に突っ立っていて、一向にどかないので、その老婆に竹箒で頭を何度も殴りつけられたのは、重いノイローゼそのものの症状です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正受慧端-1

2023-04-26 15:44:00 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎正受慧端の団扇バトル

(2005-07-29)

 

江戸時代のまだ関が原の合戦の硝煙の匂いも消え去らぬ頃に出た至道無難、その後継者たる正受慧端、白隠と3代続けて実のある禅者が出ている。現代においても、丹田禅で目を開いた人が出ているのはこの3代によるところが大きいのではなかろうか。

 

ある日、20年の修行により、各流派の奥義を極めた一人の剣術家がやってきて、剣術の奥義を問うてきたところ、正受慧端は、この剣術家を、拳で三回打ちすえ、さらに一踏みに踏み倒してしまった。

 

これを聞いた長野飯山の郷党の武士が、「先生は、法においては、すぐれているだろうが、剣術においては、先生は私どもには及ぶまい」と言い、剣術の試合を申し入れた。

正受慧端「お前らが私を打とうと思うなら、勝手に打って来なさい。ただし恐らく打ちこめないだろう。」

 

武士たちは、互いに顧みて、「先生を打つことはむずかしいものか。先生、試みに刀を使うことをお許しになりますか。」

正受「許す。」

武士たち「どうか先生も刀をお取り下さい。」

正受「私は仏弟子だ。どうして刀などを用いるものか。このままでよい。」と小さな団扇を持って、「試しに打ってみよ、もしわずかでも打てたら、お前は妙手だと認めてあげよう。」

 

武士は、声をあげて立ち向かい、千変万化してその技を尽くしますが、木刀の触れるのは団扇だけです。ついに正受を打つことはできず、一同は無礼を謝して帰りました。

 

後に白隠が正受に、この秘訣を訊いたが「正しい眼力が明らかならば、どうして剣術だけにとどまるものか。お前はわずかに言葉を聞いただけで、すぐ思い違いをする。もし剣の来る道がはっきりわかれば、来る途中で打ち落とせるものだ。もしそれができれば、万に一つも心配することはない。」

《出典:日本の禅語録/無難・正受P31-32》

 

白隠は、この話を聞いて、仏法と剣術は別のものであると思い込んでいたが、正受慧端は、仏法も剣術も奥義は同じであることを諭している。

 

丹田禅においては、気の源泉たるスワジスターナ・チャクラを鍛えていくことになり、大安心を得ていく。丹田(スワジスターナ・チャクラ)の開顕というのは、気を自由自在に使える超能力の発現につながっていくだろうことは想定されるので、丹田禅を極めた正受慧端が、団扇で木刀を翻弄することに、何の不思議もないように思う。

 

明治の剣客山岡鉄舟もこのような剣を使うという話を読んだことがあるが、団扇で応対した話ではなかった。

 

合気道の創始者植芝盛平は、立ち会いに際して、剣の切っ先がくる前に白い光が来るので、それを避ければ剣を避けることができ、また弾丸の来る前に白い光が来るので、それを避ければ、弾丸も避けることができると言い、そのエピソードも残っている。

 

植芝盛平は、大正8年36歳の時、一家を上げて、大本教の本拠たる綾部に移住し、大クンダリーニ・ヨーギ出口王仁三郎師の厚遇をうけ、鎮魂帰神、その他の幽斎修行、顕斎修行につとめ、同師の勧めにより、道場を開設したとのことで、合気道の出所は、クンダリーニ・ヨーガの技術のようだ。というのは、植芝盛平も「気の妙用」だと言っているので、スワジスターナ・チャクラに関連する「気」を用いた技であることを十分に承知していたように思われるからである。

 

ただ植芝盛平は、鎮魂帰神によってすべてが分かると述べ、クンダリーニ・ヨーガでその境地を極めたのに対し、正受慧端は、丹田禅でそれを極めた。一つの頂きにも登山路が複数あるわけだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

至道無難-5

2023-04-25 19:55:02 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎冥想教育の可能性

(2005-07-30)

 

次の時代は学校で冥想教育をする時代だが、そのあり方を感じさせる一文がある。

小学校から、15歳くらいまでの間に、見性させるくらいの冥想カリキュラムが自然な姿かもしれない。

 

『ある子供で頭の良いのが、仏はいかなるものかと問うたので、そこで坐禅をさせると、何の心もなくなった。それを常に守れば良しと教へ、さて程経ていろいろになった心を訊ねたら、納得して去った。

 

男女に限らず、まず本性を悟らせて、それから坐禅させると良い。本性の悟りが十分にできたとき、万事に対応することを教へよ。

 

悟ったと同時にそれを守らせよ。悪念が生まれることが無い。年久しくこの心を養えば、道人となるのである。

 

悟ったと同時に、万事は是だと教へると、大方悪人になるものだ。悟りばかりを守る人は、大方坐禅に取りついて、律宗になるものだ。大道を早く教へて悪いのと、その人に依って異なる。よくよく心得て教へよ。誤ってはならぬ。』

(龍沢寺所蔵法語/日本の禅語録/無難・正受 P191-192から引用)

 

※律宗:仏教13宗の一つ。戒律の実践を成仏の因とする。本山は唐招提寺。

 

子供に幼少から冥想をさせると、思春期には見性するということを聞いたことがある。

この「あたまの良い子」は、すっと見性した。そこで、見性を守らせ、見性が十分に深まるのを待った。そこで、万事にどう対応するかを聞いたら、心得て去ったのである。

 

至道無難は、まず見性し、その見性を深めるために、坐禅させると良いと言う。見性で見つけた牛は、簡単に逃げるもののようなので、見性したと同時にその状態を守らせることが大事なのだとする。

 

「悟ったと同時に、万事は、これだと教えると、大方悪人になるものだ。」とは、見性した時の感動は、全身心で手の舞、足の踏むところを知らずといったものだから、それを得て高ぶったところに、「あなたは、仏の境地を知ったのだから、その正しい境地から行動しさえすればよいのだ」などと師匠がアドバイスした途端に、「私は、仏そのものなのだから、何をしてもいいんだ」と思って、以後勝手放題に行動して、悪人となる消息も想像される。

 

よくカルトの教祖が、悪人になってしまうことがあるが、カルトの教祖でも見性体験があって、そこで、このようなヒントやアドバイスをもらって悪人となる例もあるのではないだろうか。

 

次の2首で、見性したくらいでは、その行動はすべて善となるわけではないことが戒められている。同様にスピリチュアル体験しただけでは、その行動がすべて善になるわけではないので、よくよく気をつけないと。

 

やがては人の師になろうとする人に

無一物になった時には何事も罪にならぬと思ふ悲しさ。

(無一物になりぬるときに 何事も とかにならぬと見るそ かなしき)

 

ある法師に

悟ったからと言っても、自分で心を縛ったら、その束縛の解けないうちは凡夫なのだよ。

(さとりても 身より心をしはりなは とけさるうちは ほんふなりけり)

 

※(2023-4-25)

至道無難は、何よりもまず自分自身の悪を除去することが大切と説いた。悪の不在を目指す。

OSHOバグワンは、善とは悪の不在のことだとする。

○○することが善であると教えても、実際にそのTPOでそれが善であるかどうかわからないことの方が実際の場では多いのかもしれない。それで、至道無難はまず悪を除去せよといい、OSHOバグワンは、悪の不在が善だと唱えるのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

至道無難-4

2023-04-25 17:10:26 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎至道無難の悟境

(2005-07-28)

 

 生死即涅槃

 生死もしらぬところになをつけて

 ねはんといふも いふはかりなり

(生も死も、わからぬものに名をつけただけで、

 涅槃というのはそういうだけのもの) 

 

涅槃(ニルヴァーナ)を直接見た者であって初めて、涅槃とは言葉では表現できないものに対して、仮そめに名をつけたものであるというものであることを確認できる。この言葉があることにより、至道無難が涅槃(ニルヴァーナ、宇宙意識、タオ)を知っていることがわかる。

 

 

 仏道はありがたしといふ人に

 ものごとに心とむなととくのりの

  法にこころをとむるひとかな

(仏道はありがたいという人に対して、

ものごとに執着するなと説く仏道の

その法に執着するとはおかしい人だな)

 

 あらゆるものが、仏道の現れであることを知る体験が、仏道の側から起きれば、仏道は確かにありがたいことを知るが。その体験なしにただ「仏道はありがたい」と唱えても、その「仏道はありがたい」という執着すらも捨てないと、仏道の正体にはたどりつけないということだと思う。

 

 強いて仏になろうと願う人に

 さかさまにあびじごくへは 落つるとも

 仏になるとさらにおもふな

(何とか仏になろうとする人に対して、

たとい逆しまに阿鼻地獄へ落ちようとも

 仏に成ろうなど決して思いなさるなよ)

 

仏というものは、自分を離れてはないのであって、本当の自分ではない「仏」という、よそのものに間違ってもなろうとしてはいけない。

 

最初の一首は、仏そのものの実感を言い、後の二首は、修行者向けの警句である。

ちゃんと本当のものを知っている人がいて、それを見抜く目を持った周りの人がそれを伝えて、臨済宗の法灯が伝わっていく。臨済宗でなくとも、神道などでも、このようにして、過去連綿としてそれを伝えてきたはずだけど、今の時代に、その生きた真理そのものを持っている人がどの程度残っているのだろうか。文明の衰退とはそんな人が少ないことを言うのだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする