◎一生ずっと坐禅、一度だけ坐禅
(2005-07-27)
『伊勢の国に一生坐禅して死んだ人がある。その人自身のために貴いことだ。かつその人自身坐禅して死んだのはよいことだ。もし病気で苦しむようになれば、坐禅できるかどうか覚束ない。
我が師愚堂国師は、一度の坐禅も、これが一生涯一度の坐禅、と思ってやれとおっしゃった。有りがたいことだ。』《至道無難/自性記》
坐禅して死んだとは、メンタル体で肉体から出たことを言っているようです。
人生一回きりなんだから、死んで天国に行ったらいい目を見れるから、今善行を積みましょうなどという宣伝には乗れないですよね。その理屈は、まずこの人生の可能性を捨てて、死後の生に賭けろと言っているわけですから、どこか欺瞞の雰囲気があるように思います。
輪廻転生とか前世があるではないかという反論もあろうかと思いますが、輪廻転生も前世も、いわゆる大悟は、それらを問題にはしていません。
また積善は、積善という行為を通じて、自我というものをなくして行こうとする行為であって、決して来世での恵まれた生活のための打算的行為であってはならないと思います。
一日の生活もこれが一生涯最期の一日としてやれということでしょうが、そこまで追い込んでも、成道できるかどうかは別の問題。ただ自分をそこまで追い込んでいくほどの情熱がなければ、そういうチャンスも訪れないでしょう。