◎気まぐれな隣人
神霊の方では、実のところ我々をどう思っているかというのは、初心者兼野次馬たる我々には関心の高いところである。ドン・ファン・マトゥスの説明では、ここは明快である。彼らは、力はあるかもしれないが、気まぐれで、同情心がないのだ。
古代メキシコの呪術師は、神霊を何種類かに分類したが、その中で人間に似ているのが斥候と調査者と呼ばれる存在。その2種は、人間と共生関係を作ることができると考えて、それを盟友と親しみをこめた名前とした。
ところが古代メキシコの呪術師たちは、もともと人格など有していない純粋なエネルギーに人間の特性を賦与したり(神々として親しみやすい名前をつけたり)、その神霊(非有機的存在)のエネルギーを利用できると信じた。
ところがその神霊は、もともと純粋なるエネルギーであるがため、いかなる努力をも持続することはできないので、神霊によるサポートを期待した呪術師にとっては、しばしばその期待を裏切られることになった。
他方、そうではないと考える呪術師のグループもいて、彼らは、神霊と友情を取り結ぶための神霊から人間への要求がいつも法外なものであるため、神霊を人間の親類と見ていながらも、それと友人になることは、無駄だと考えていた。
すなわち、神霊も人間もたまたま同じ世界に住んでいるけれど、以下のような理由から、ドン・ファン・マトゥスは、神霊と人間が協力し合って生きることについては、ほとんど無理であると結論づけている。一歩進んで、神霊から来るエネルギーには意味がないとまで断言している。
1.人間も神霊も、それぞれに病的なほど自己中心的であり、気むずかしくて、些細なことで腹を立てる。
2.人間は彼らを無意識のレベルで知っているが、神霊は人間をはっきりと知覚し、認識している。こうした人間と神霊の意志交換は始終行なわれているが、無意識においてのみである。
3.人間は神霊を助けることはできないし、神霊は人間を助けることはできない。
(参考:無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房)
この理屈は、古代メキシコの霊的世界だけに通用するものではなく、世界の八百万の神々にも通用すると思う。またこの見方は、出口王仁三郎の守護神霊の見方とレベル的に共通すると感じる。
霊がかり好きな人がいるが、霊との相互作用は、マントラ念唱や、向精神薬や過呼吸などと同様に、深い意識レベルにアプローチする方法なのかもしれないが、だからといって人間の絶望や孤独、不安を超越するための確かな方法であるなどと、安易な期待を持ってはいけないと思う。簡単ではないのだ。
秋深き 隣は何をする人ぞ (ばせを)
(となりとは、神霊の謂いなるか)