アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

逍遥訣解読-1

2025-01-12 06:29:42 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎日月合体のプロセス

(2018-07-23)

 

昨夜は、戸外の気温が遂に30度を下回らずに終わった。25度以上は熱帯夜というが、

来るところまで来ている感がある。

 

火力文明の末路は、風水火の威力を目の当たりにするのだろうと思う。海水面の上昇は、埋め立て地や海浜都市の放棄につながっていくことは、科学者が予想していることであり、似非オカルティストの大予言などではない。

 

太乙金華宗旨は、気を回していく初めはこうなって、その次はこうなってなどという初歩や中間段階の説明はほとんどない。

 

いい線を行っているケースに関してのメタファーと、最終段階についての解説ばかりであり、ちょっとかじりたいアマチュアに呈示できる情報とすれば、これが限度と思える。

 

OSHOバグワンの「黄金の華の秘密」は、英訳で読んでいるようなので、(易経・八卦の素養のない人が訳したみたいで)変な英訳の部分もあるようだが、彼の実地の経験に即した解説であり、参考になる部分も多い。

 

『逍遥訣

 

第一句

天心(タオ/玉清)は、魂の逍遥する秘訣を留め下ろしてきた。

 

第二句

「無為にして為す」の教えとは、精神の働きを集中させて、サハスラーラ・チャクラ(気の穴・金華)に入ることである。』

 

呂洞賓の解説では、この第一句、二句については、金華の作用の全容である、と。

 

『第三句

六月に、にわかに白い雪が飛ぶのを見る。

 

第四句

真夜中に、日輪が輝くのを見る。』

 

呂洞賓の解説では、この句は日月が相互に交差することを示している、と。

 

太乙金華宗旨では、目光と耳光を言う。目光は外部であり離火、耳光は内部であり坎水とみれば、離火は、乾陽が純陽に変化し、坎水は、坎陽も上騰すれば純陽に変化するということか。

 

この火水が合体して、最初はもやもやもくもくと浮いたり沈んだり、恍惚として太虚が無量であるようであって、いわゆる雲千山に満つる状態。

 

火水の合体の次の段階は、行ったり来たりする痕跡もないままに浮いたり沈んだりしても自覚はなく、脈拍停止し、気も止まる。これが合体の本番である。これをいわゆる月が満水を涵(ひた)すという。

これは肉体死の様態である。

 

更に呂洞賓は、この冥々の時に突然天心が一たび動き出すとする。これが死からの復活。

 

『六月に、にわかに白い雪』とは、離卦中の陰がまさに陰の極限である坤に帰っていこうとする動き。

一方『真夜中に、日輪が輝く』とは、坎卦中の陽がまさに陽の極限である乾に帰っていこうとする動き。

ここで『坎を取り去って離を填(うず)める』とは、坎陽も乾陽に転じて純陽・金華となることをいうか。

 

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神人合一の実感を語る-7

2025-01-12 06:23:13 | 現代冥想の到達点neo

◎一瞬間を梅毒病みの娼婦として生き

(2021-11-29)

 

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『私は一瞬間を聖クリシュナとして生き

一瞬間を梅毒病みの娼婦として生きた

梅毒の苦痛が陣痛と出産の苦痛であり

性愛の享楽が聖者の清らかな解脱である

そしてすべては去ることもなく去り

また来ることもなく

新しい生涯が来る

 

止まることのない生々流転よ

私は生々流転のあったためしのないここで

ゴーヴィンダ・クリシュナの

美しい横笛の音を奏でる

 

今でない今、ここでないここで

私はクリシュナとして生き

クリシュナとして死んだ』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP120-121から引用)

※ゴーヴィンダ・クリシュナ:牛飼いのクリシュナ

 

この詩の劈頭は、クリシュナとして生き、クリシュナとして死にたいから始まっているので、それを受けた形。クリシュナと言っても日本ではあまりなじみがない。聖者には、組織宗教のトップ型の聖者と単独での遊戯者タイプの聖者が存在するが、クリシュナは、遊戯者タイプの代表格。ダンテス・ダイジは、釈迦を遊戯者タイプと分類しているが、王子として生まれ、妻をもらい子までなしながら一切を棄てて出家遊行したのは、遊戯者なのだろう。たとえその後の釈迦教が、東洋全体を席巻したにせよ。

 

インドでのクリシュナは、村の既婚女性も未婚女性も一箇所に集めてその魅力で説法遊戯したことが知られるが、聖人は存在するだけでポジティブな影響を与えるが、社会性という点では、その社会に物議を醸しだしがちである。

 

『一瞬間を梅毒病みの娼婦として生きた』という一節には違和感を抱かれるかもしれない。彼の韻文には、別に釈迦の後世の一つが新宿のトルコ嬢(ソープランド)であったことを示唆するものもあり、聖者の前世が風俗嬢であっても何の抵抗もあるまい。覚者とは人類全体の実感、宇宙の実感を生きるものだから。

 

また彼の地球上の最初の前世は、高級娼婦ナツノだったということもある。

 

性病から苦痛が起こり、セックスから解脱が発する如く、『すべては去ることもなく去り、また来ることもなく』新たな人生を繰り返す。

 

解脱とは、一般に輪廻転生の責め苦から脱出することだと思われているのだが、真相はそうではなく、迷いも不条理も理不尽も含めて『すべては去ることもなく去り、また来ることもなく』転生が無際限に行われることを示す。

 

そこで改めて、クリシュナは、生々流転を否定する。

『止まることのない生々流転よ

私は生々流転のあったためしのないここで

ゴーヴィンダ・クリシュナの

美しい横笛の音を奏でる』

 

そして『今でない今、ここでないここで

私はクリシュナとして生き

クリシュナとして死んだ』

と時間も空間もない世界の表現を繰り返す。

 

神人合一とは、このようなダブルの世界を同時に生きることであって、手近には、その実感は知的に想像し、感情的に共感することしかできないが、同じ体験とはいえない体験をすることによってまさに実感できよう。

 

そのためには、意識の絶対的な極限状態を通過せねばならないと、彼は言う。

(完)

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神人合一の実感を語る-6

2025-01-12 06:07:56 | 現代冥想の到達点neo

◎私は私自身の中を旅し続けている

(2021-11-28)

 

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『精神の広大さも

物質宇宙の戯曲も

私には何のかかわりもない

 

私は私の冥想の旅を続ける

旅は方向をもって続けられるが

その旅は私に理由のない確信を与えても

決してどこかに行き着くことはない

 

私は私自身の中を旅し続けている』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP120から引用)

 

未知の虚空にもともとありもしない手と足とを放ち去ったので、精神の広大さも物質宇宙の精妙にも全く関わりなく生きている。

 

生と死をフル・コートとした冥想の旅は、『今でない今、ここでないここ』であるが故に、いつまでも終わることはない。その全体を確信してはいるが、今でない今、ここでないここであるから、終着駅にたどり着くことはない。

 

今でない今、ここでないここは、太乙金華宗旨の逍遥訣の第八句

どこにもない場所こそ真の家である。

無何有郷は是れ真宅なり)

に通ずる。

 

単純に個生命であれば、個の死を以って終着点と見そうなものだが、チベット死者の書で示唆されるような、生のある瞬間に、神なる全体、今ここ、或いは『今でない今、ここでないここ』なる死の側の故郷に戻って、その後再び個として別の人生を歩むというようなサイクルを想像する。

 

『私自身の中を旅している』という時、その私は神なる全体であり、みじめで情けない個人でもある二重性、二重のリアリティ。

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痛みや苦しみを忘れようとする人、打ち破ろうとする人

2025-01-12 05:59:10 | 人と神の「実際のところ」

◎無意識から意識へ、冥想の道

 

人間の覚醒のためには、未だに先入観と抑圧が必要な時代。不条理・理不尽で人を追い込むと、意識と無意識のせめぎ合いが起こる。苦しいけれどそこで飽くまで意識を持ち続けると意識が全体に広がる瞬間がある。それが大悟覚醒。

 

痛みや苦しみを忘れようとすることは、一種の無意識だ。人は一日二十四時間、痛みや苦しみを忘れる方法を探している。内側に多くの痛みや苦しみを抱えていることを忘れるために、人と話したり、音楽を聴いたり、酒を飲んだり、トランプをしたり、かけ事をしたり、モバゲーをしたり、自分を忘れられるような何らかの悪さに熱中したりしている。

 

人は一日二十四時間、自分を忘れる方法を探している。見れば怖いから、あなたは痛みも苦しみも見たがらない。だから、ありとあらゆることをして痛みを忘れ、苦しみを隠す。だがこの痛みも苦しみも、忘れたら消え去っていくものではない。傷を隠すことで傷が癒えることはないのと同様に、痛みも苦しみも忘れることで消え去りはしない。美しいファッションや外聞で覆っても、何も変わらない。それどころか美しいファッションや外聞で取り繕うと、それらは毒となり致命的になる。

 

だから、傷を隠してはいけない。カバーを払い、痛みや苦しみに直面するのだ。忘れようとしてはせず―――カバーを取り払い、それを知り打ち破る方法を、冥想(瞑想)により見つけなさい。積極的に痛みを打ち破ろう、超越しようとチャレンジし、それを忘れない人だけが、生の神秘を知ることができる。

 

痛みや苦しみに直面し、それを打ち破る方法を探している人は、宗教的な人。痛みや苦しみを忘れる方法を探している人は、非宗教的な人。

 

いつも自分のしていることを見つめてみよう。すると、自分が痛みや苦しみを忘れる方法を探している人かどうかわかる。そして、いつかそんな気を紛らす方法がすべて奪われたら、自分はいっそう惨めになるだけだ。

 

痛みや苦しみを忘れようとすることは、無意識方向に退行すること。一方痛みや苦しみに直面し、打ち破ろうとすることは、意識方向に進むことであり、意識的であろうとすること。その方向性は、大悟覚醒、神人合一、身心脱落神のなかへの消滅(ファナー・フィーアッラー)までの道程においても変わらない。

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