◎無意識から意識へ、冥想の道
人間の覚醒のためには、未だに先入観と抑圧が必要な時代。不条理・理不尽で人を追い込むと、意識と無意識のせめぎ合いが起こる。苦しいけれどそこで飽くまで意識を持ち続けると意識が全体に広がる瞬間がある。それが大悟覚醒。
痛みや苦しみを忘れようとすることは、一種の無意識だ。人は一日二十四時間、痛みや苦しみを忘れる方法を探している。内側に多くの痛みや苦しみを抱えていることを忘れるために、人と話したり、音楽を聴いたり、酒を飲んだり、トランプをしたり、かけ事をしたり、モバゲーをしたり、自分を忘れられるような何らかの悪さに熱中したりしている。
人は一日二十四時間、自分を忘れる方法を探している。見れば怖いから、あなたは痛みも苦しみも見たがらない。だから、ありとあらゆることをして痛みを忘れ、苦しみを隠す。だがこの痛みも苦しみも、忘れたら消え去っていくものではない。傷を隠すことで傷が癒えることはないのと同様に、痛みも苦しみも忘れることで消え去りはしない。美しいファッションや外聞で覆っても、何も変わらない。それどころか美しいファッションや外聞で取り繕うと、それらは毒となり致命的になる。
だから、傷を隠してはいけない。カバーを払い、痛みや苦しみに直面するのだ。忘れようとしてはせず―――カバーを取り払い、それを知り打ち破る方法を、冥想(瞑想)により見つけなさい。積極的に痛みを打ち破ろう、超越しようとチャレンジし、それを忘れない人だけが、生の神秘を知ることができる。
痛みや苦しみに直面し、それを打ち破る方法を探している人は、宗教的な人。痛みや苦しみを忘れる方法を探している人は、非宗教的な人。
いつも自分のしていることを見つめてみよう。すると、自分が痛みや苦しみを忘れる方法を探している人かどうかわかる。そして、いつかそんな気を紛らす方法がすべて奪われたら、自分はいっそう惨めになるだけだ。
痛みや苦しみを忘れようとすることは、無意識方向に退行すること。一方痛みや苦しみに直面し、打ち破ろうとすることは、意識方向に進むことであり、意識的であろうとすること。その方向性は、大悟覚醒、神人合一、身心脱落、神のなかへの消滅(ファナー・フィーアッラー)までの道程においても変わらない。