アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

神人合一の実感を語る-3

2025-01-10 18:44:13 | 現代冥想の到達点neo

◎快楽は苦痛の種となり、老衰と病のない健康もない

(2021-11-25)

  

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『ソロモン王の英知が

ソロモンの栄華と幸福を実現し

そして又ソロモンの英知が

その英知ゆえに

愚迷のうちに滅亡したように

 

死のないどのような生もあり得ない

愚かさを持たぬどのような智慧もなく

安心のある所に不安があり

愛のある所に憎悪が

勇気のある所に恐怖が

 

幸福のある所に不幸があり

快楽は苦痛の種となる

老衰と病のない

どのような健康もあり得ぬように

 

善は悪とともにいつもあり

宿善の功徳は

天人の天国を実現するが

その天人にも

五つの衰亡を避ける手だてはない』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP117-118から引用)

 

夢の宇宙はあのように戯れ続け、人は人である以上、この世を天国的に生きようと希求し努力もする。地上天国、天人の天国は、時にこの世にあるいはあの世に実現もしたりするが、栄耀栄華の時代は衰亡を免れることはできず、折角積み上げた善行の果報も王侯を一代やったりすることで使い果たしたりもする。

 

戯れには人をとろかす夢幻の魅力もあるが、寝覚めぬ人の目を覚ます幻滅の顔もある。

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神人合一の実感を語る-2

2025-01-10 13:10:01 | 現代冥想の到達点neo

◎夢の宇宙はあのようにも戯れる

(2021-11-18 )

 

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『無限の中には

時間も空間も因果律も存在していない

無限の中に

宇宙の果ては

私の小指の長さにあり

 

千億光年の天体生命の光茫が

私の肉体の心臓の一鼓動とともに

生まれ来たり滅び去る

 

熟したリンゴの樹の果実が

地面から枝へと昇る

 

神の絶対無の中に

夢見続ける宇宙

 

夢の宇宙はこのように戯れ

夢の宇宙はあのようにも戯れる』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP116から引用)

 

無限という言葉は日常感覚で問題にする人は少ない。その実感が『時間も空間も因果律も存在していない』であって、それを敷衍したのが、宇宙の果ての長さが小指だったり、遠距離の辰星が鼓動とともに生滅するということ。

世界樹は、根を上にして、枝葉、樹冠を下にする。林檎の実が熟していく姿は、根源から生へと進み、やがて根源なる死の世界へと帰って行く様。この辺は集合的無意識におけるビジョンなのだろう。

絶対無という言葉は、哲学者西田幾多郎が多用した。元は無であって、ニルヴァーナ。そこで有は夢であり、夢の夢なる戯れを繰り返す宇宙。

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神人合一の実感を語る-1

2025-01-10 13:05:39 | 現代冥想の到達点neo

◎ダンテス・ダイジ-今でない今、ここでないここで

(2021-11-17)

 

神人合一した人物がその境地を語ることは、時に沈黙だったり、片言隻句だったり、短歌だったりするのだが、ダンテス・ダイジは、韻文で残してくれている。

 

『今でない今、ここでないここで

 

一刹那 の 生 涯 で も よ い

クリシュナと し て 生き

クリシュナ と し て 死に た い

 

あらゆる演戯を越えた―つの戯れ

根本無明の演戯がなければ

神は神自体を観照することができぬ

 

根本無明のこの移し世が

神自身の唯一の演戯道場

神は人間の作り出した

どんな思想の中にも

宗教の中にもいない

 

人間自体の死の虚無性が

人間からすべてを奪い

人間をも奪う』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP115-116から引用)

 

ダンテス・ダイジの前世の一つはインドの神人クリシュナとして知られるが、戯れる者、マーヤの演技者としてクリシュナを出して来ている。

 

光明、善、真理などはポジティブであって、人はそのように生きねばならないので、ニルヴァーナに居さえすればよいなどと考えがちなのだが、さに非ず。

根本無明、マーヤ、迷いがなければ、神は神を観照できない。つまり迷いがあって初めて悟りであると、世間の先入観とは逆の真実を表明している。

 

この世は霊界が時至って現実化する移し世なのだが、あらゆる人間の作り出したものを捜し回ったとて、どこにも永遠不壊なる神は見つかるものでない。人間の作り出した思想にも宗教にも神はない。死がそれをことごとく奪い去るからである。

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Dream Truth

2025-01-10 06:55:27 | 覚醒のアーキテクチャー

◎あらゆる個生命達の、夢と真実と愛のストーリー

 

ダンテス・ダイジの未公刊の詩集老子狂言から。

 

『Dream Truth

 

この世のあらゆることには、

完成ということがない。

それは、時計が回るように回帰する。

人生それは、また時計のように成熟し得る。

時計には、個生命としての生老病死がある。

あらゆる個生命達の、

夢と真実と愛のストーリー。

 

THIS IS DREAM-TRUTH. 』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

私が18歳で東京に出てきた時、初めて三重複線の電車を見て、その壮観に驚いたものだ。回帰と言えば、人は何回かの輪廻転生を経て、ニルヴァーナへの突入あるいは神人合一をイメージする人が多いかもしれない。

 

上掲『時計が回るように回帰する。』について、今の私が見る限り回帰には、三重の回帰がある。

 

一つは、始まりはダンテス・ダイジ自身が示したように、未悟の愛妾ナツノやほとんど未悟の人生だった初期アトランティスのダンテス・ダイジの迷いと求道の人生。そして13番目の覚者ダンテス・ケンタウロス・アメンティの人生。そして、以後のヘルメスとしての人生、クリシュナとしての人生、雨宮第慈などの人生、そしてネオ・アトランティスの次の人生など7、8回の地上転生をへて、地球の転生コースを終えるというような複数転生で、大悟覚醒に至るというような回帰。事実インドのヨーガでは大悟覚醒後の再転生はない。

 

またダンテス・ダイジの韻文では『一瞬間を梅毒病みの娼婦として生きた』という一節や釈迦の後世が新宿のトルコ嬢(ソープランド)であったことを示唆するものもあり、聖者の前世が風俗嬢であっても何の抵抗もあるまい。覚者とは人類全体の実感、宇宙の実感を生きるものだから。またこの一説があることは、彼のやさしさそのものである。※

 

もう一つの回帰は、チベット密教で言うものであって、肉体死の瞬間に人は神(母の光明、原初の光)に出会っているが、実はその時神人合一(回帰)しているのであって、気がつかない人が大半なだけ。

 

いま一つの回帰は、隙間理論であって、現象の一刹那は、人間は、『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れている。『隙間』がニルヴァーナであって君自身の側、『現象』が有であって君の頭の側。ここに君の頭と君自身が並立して、個人と全体(神)の二重性が見える。

 

このように三重の回帰の説明が可能だが、実際のダンテス・ダイジの説明は、“今ここ”(過去現在未来と時間空間物質が一緒)に終始している印象があり、ひどくわかりにくいが、禅問答よりはましか。

 

※関係する謎の部分。

『二度とこの世に生まれることはないと

解脱涅槃を成就した仏陀が

新宿のホステスの私生児として生まれ

酒と麻薬の中に

トルコ風呂の女として死んだ

蟻達を殺して面白がっている子供は

蟻の時を持ち

蟻は人間の子供としての時を持つ時

昆虫を殺すことを楽しむ』

(【絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジ】の詩『ただいのちだけが』の一部、P128-129から引用。)

 

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