◎死:もともとありもしない手と足とを未知の虚空に放ち去ろう
(2021-11-27)
ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。
『私達はこの世では狐独であり続ける
私達の眼は
私達の故郷を見知らぬものとして眺め
私達の家族を初めて見る
これは私達の眼がかすんだゆえではない
私達の眼がより透明になったせいだ
何もかもが常に未知なものとしてあり
何もかもが常に新しい
何もかもが未知な新しさであれば
私達の脳髄は
尽虚空中に砕破する
死は何と私達の身近かにあったことだろう
最も身近かな死だけが
人類の唯一最大の教師だ
手足を放ち去ろう未知の虚空に
もともとありもしない手と足とを』
(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP119から引用)
※尽虚空:顕れない宇宙全体。
神人合一の実感を人間の側から語るとこのようになるだろうという叙述。
ここで言う死は、勿論肉体死のことでなく自我の死の方。だから自殺礼賛のことではない。最近世の中には、非二元、ノンデュアリティ体験者を広言する人もいるらしいが、彼らは、自分の家族や社会や故郷の街ですら、常に未知であり、見慣れぬという実感に生きている人物なのだろうか。
もしその実感を得ているならば、何もかもが未知の新しさであり、その場合、脳髄が隠された宇宙全体に砕破するとは、転じて天意のみに生きるということだと思う。ディヤン・スートラでoshoバグワンが最後には思考が死ぬことを言っているが、その辺の消息を指しているのではないか。達磨も同様のことを言っている
そして社会的人間として、これら実感の他に、『善いことをする、悪いことはしない。(諸悪莫作、衆善奉行)』という行動スタイルも、 未悟の者が覚者を見分けるクリテリアとしてはずせない。たとえ、未悟の者は絶対にその人物が本当の大悟者かどうか見分けられぬという法則はあるにしても。
極悪カルトの教祖の行動が、信者にとって大聖人に見えても、実は悪人のそれそのものだったということは、最近でも古来でも枚挙に暇はない。それを見分ける目を一隻眼とも言うが(アジナー・チャクラ)、人はそうやって目を凝らすしかないのだ。
この詩に顕れた基準は基準だが、それだけのものではあるまい。見る側の透明さが問われる。
上掲『手足を放ち去ろう未知の虚空に もともとありもしない手と足とを』では、大燈国師の逸話が思い起こされる。行方不明の大燈国師を捜そうと鴨川の河原で役人がまくわ瓜を乞食に無料配布した。その際、役人が「手を出さずに受け取れ」と言ったので、皆困惑していたところ、そこで何年も乞食をやっていた大燈国師が「それでは、手を使わずに渡してくれ」と言ったので大燈国師であることが身バレした。