アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ディヤン・スートラの七つの段階-1

2025-01-11 07:29:54 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎サマーディとは神になること

(2021-11-04)

 

サマーディへの七段階などというと、あたかも三昧というものが、個人的体験の一つであって世間でも共通認識のあるテクニカル・タームであるように誤解されがちである。ところが、サマーディとは、神になること、仏になること、宇宙意識になることであり、七つの身体論でいえば、第六身体と第七身体。つまりサマーディ以前とサマーディ以後には連続性はないのだ。

 

『ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO』は、三日間の瞑想初心者向けの冥想合宿での講話。OSHOにしては、飽きないで体系だって説明しているところは珍しい。こういう真面目な語り口の講話は、1970年代や世界逃亡開始以後のウルグアイ以後に多い印象がある。

 

さて『ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO』に出てくるOSHOバグワンの説くサマーディへの七段階とは、

1.身体の浄化

2.思考(マインド)の浄化

3.感情の浄化

4.無身体

5.無思考

6.感情からの自由

7.サマーディ

 

ここでは、テクニック・技法が6までであって、6までと7のサマーディには、体験としての連続性はない。体験する者がいないからである。

 

7のサマーディは、二度生まれた者とか、エックハルトは自分自身に出会っていたからさみしくないなど、連続性があるかのような説明をしているが、実際はそんなことはない。

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神人合一の実感を語る-5

2025-01-11 07:02:45 | 現代冥想の到達点neo

◎死:もともとありもしない手と足とを未知の虚空に放ち去ろう

(2021-11-27)

 

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『私達はこの世では狐独であり続ける

私達の眼は

私達の故郷を見知らぬものとして眺め

私達の家族を初めて見る

これは私達の眼がかすんだゆえではない

私達の眼がより透明になったせいだ

 

何もかもが常に未知なものとしてあり

何もかもが常に新しい

 

何もかもが未知な新しさであれば

私達の脳髄は

尽虚空中に砕破する

 

死は何と私達の身近かにあったことだろう

最も身近かな死だけが

人類の唯一最大の教師だ

 

手足を放ち去ろう未知の虚空に

もともとありもしない手と足とを』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP119から引用)

※尽虚空:顕れない宇宙全体。

 

神人合一の実感を人間の側から語るとこのようになるだろうという叙述。

 

ここで言う死は、勿論肉体死のことでなく自我の死の方。だから自殺礼賛のことではない。最近世の中には、非二元、ノンデュアリティ体験者を広言する人もいるらしいが、彼らは、自分の家族や社会や故郷の街ですら、常に未知であり、見慣れぬという実感に生きている人物なのだろうか。

 

もしその実感を得ているならば、何もかもが未知の新しさであり、その場合、脳髄が隠された宇宙全体に砕破するとは、転じて天意のみに生きるということだと思う。ディヤン・スートラでoshoバグワンが最後には思考が死ぬことを言っているが、その辺の消息を指しているのではないか。達磨も同様のことを言っている

 

そして社会的人間として、これら実感の他に、『善いことをする、悪いことはしない。(諸悪莫作、衆善奉行)』という行動スタイルも、 未悟の者が覚者を見分けるクリテリアとしてはずせない。たとえ、未悟の者は絶対にその人物が本当の大悟者かどうか見分けられぬという法則はあるにしても。

 

極悪カルトの教祖の行動が、信者にとって大聖人に見えても、実は悪人のそれそのものだったということは、最近でも古来でも枚挙に暇はない。それを見分ける目を一隻眼とも言うが(アジナー・チャクラ)、人はそうやって目を凝らすしかないのだ。

この詩に顕れた基準は基準だが、それだけのものではあるまい。見る側の透明さが問われる。

 

上掲『手足を放ち去ろう未知の虚空に もともとありもしない手と足とを』では、大燈国師の逸話が思い起こされる。行方不明の大燈国師を捜そうと鴨川の河原で役人がまくわ瓜を乞食に無料配布した。その際、役人が「手を出さずに受け取れ」と言ったので、皆困惑していたところ、そこで何年も乞食をやっていた大燈国師が「それでは、手を使わずに渡してくれ」と言ったので大燈国師であることが身バレした。

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神人合一の実感を語る-4

2025-01-11 06:47:09 | 現代冥想の到達点neo

◎一刹那を神の御意のままに生き死ぬ、神人合一

(2021-11-26)

 

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『一刹那の生涯でよい

神の御意のままに生き

神の御意のままに死にたい

 

一刹那の神の御意は

すべての生命達の生涯と

すべての生命達のそれぞれの宇宙であった

 

神のみが終対無の中に

久遠の安住を続け

あくび一つも神には無縁だ

 

私は私という心身の

異郷の客であり

何一つとして

私のかつて見知った事柄はない

 

この悲しみが

人間に理解できるだろうか』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP118から引用)

 

『一刹那の神の御意』こそが神人合一の瞬間。この時、神には久遠の安住なる至福、実在・智慧・歓喜(サット・チット・アーナンダ)

の充溢だけがあり、あくびのような個なる弛緩はない。

 

だが、ここに我が身に還えれば、

『私は私という心身の

異郷の客であり

何一つとして

私のかつて見知った事柄はない』

と透徹した孤独感がある。これが、無常、不条理、もののあはれの行きつく先。

 

この悲しみは、神のものなのか。

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冬の日や馬上に凍る影法師

2025-01-11 06:37:18 | 達磨の片方の草履

◎孤舟蓑笠の翁、透徹した孤独感を生きる

 

豊橋から渥美湾に沿って田の中に細い道があったが、これを天津繩手と言い、不遇な友人を思う芭蕉の句

 

二人見し 雪は今年も 降けるか

芭蕉

(大意:去年は配所にあって不遇の君と二人で見たあの天津繩手の雪はまた今年も降っているだろうか? )

 

そんな感慨も漂泊の旅人として、やや力んで暮らす自分がある。

月雪(つきゆき)とのさばりけらし年の暮

芭蕉

(大意:花鳥風月と一年中突っ張って生きたことよ、年の暮れ)

(1686年作、『あつめ句』所収)

 

さらに冬の天津繩手でもう一句。

あまつ縄手は、田の中に細道があって、海から吹上がる風がとても寒い所。

 

冬の日や馬上に凍る影法師

芭蕉

 

これは、山水画の孤舟蓑笠の翁の姿であって、透徹した孤独感を生きる覚者の姿であって、『さび』の極み。雪国の今度の冬は雪が多い。

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