アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

シバの女王が南からやって来て最後の審判に臨む

2023-01-03 06:19:39 | キリスト者の秘蹟neo

◎女性忌避の最終シーン

 

ソロモンの知恵は、ベン・シラのそれに比べて当時のユダヤ教徒向けの戒めの色彩が強く、現代人にそのまま使えるかという点ではベン・シラの方が下世話ではあるように思う。

 

『神を知らず、目に見うる善き物から、存在者を知ることが出来ず

その業に目を向けてその作者を認めない、すべての人間は生まれつき空しい。』

(聖書外典偽典2旧約外典 日本聖書学研究所/編 教文館 ソロモンの知恵 第13章P47から引用)

 

これなどは、明らかに相当に真摯な求道者向けの言葉であり、一般受けはしないが、大体はこの調子である。

 

ところが、そんなソロモンの知恵をかつて聞いたことがあるシバの女王が南からやってきて、現代においてイエスと共に、最後の審判を行う。

 

マタイによる福音書12章42節『南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。』

 

ソロモンにまさる者とはイエスのこと。南の女王とは、伝説のシバの女王のこと。

 

最後の審判に臨むのは、閻魔大王など通例男神一柱なのだが、ここで唐突にシバの女王も臨席するというのは、どういうことなのだろうか。

 

キリスト教は三位一体の教義を持ち、実質二位一体であることは、識者の指摘するとおり。父なる神と人の子のペアには、女性がいない。聖母マリアは、外伝的な扱いである。

 

ここに、最終シーンで女神であるシバの女王を登場させ、男女揃うことで完全な三位一体を実現させて、キリスト教も最終的に、死を忌避するバイアスを脱却するという道具立てなのではないだろうか。

 

それにしても、完全なる女性としてのシバの女王の登場は、新約聖書で一行だけだし、まるで『黄金のろば』でのイシスの登場があまりにも短文すぎるのと似ている。

 

中東から西洋は、このように『完全なる女性』を何千年忌避し続け、戒め続けないと、最後の審判までもって行けなかったということなのだろう。あるものはあるという態度が最後までとれなかった近代西欧文明。だが、まぎれもなく日本もその一翼である。

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オリーブの栄光

2022-12-30 10:19:36 | キリスト者の秘蹟neo
◎誰もペトロ2世を名乗れない

オリーブの栄光とは、聖マラキの予言で、最後から2番目の教皇とされる人物のことである。

聖マラキは、12世紀に活躍した北アイルランドの司教で、歴代教皇を幻視して、最後の教皇のことまで予言している。

現代も活動するカトリック教会最古の修道会であるベネディクト会に伝わる言い伝えに、「世の終りの前にはベネディクト会から教皇が立つ」というのがある。ベネディクト会はまたの名をオリーブ会と呼ぶところから、これはマラキ予言の最後から2番目の教皇がオリーブの栄光と呼ばれることと符号する。

ベネディクト16世がベネディクト会出身かどうかは調べきれなかったが、ベネディクトを名乗る教皇が必ずしもベネディクト会出身ではないことはわかった。

予言というのはそのものズバリではなく、霊統がベネディクト会出身であることを見て、「オリーブ」の名をあてることもあるのだろうから、物理的にベネディクト会出身でなくともハズレと断定はできない。

前教皇没後に枢機卿たちの選挙で次の教皇を決めるが、これをコンクラーヴェという。コンクラーヴェで選出された教皇は、その法名を決めるが、「ペトロ」だけは選んではならないしきたりになっている。

というのは、「ペトロ」は、漁師出身の初代教皇聖ペトロであり、歴代教皇は、漁師の指輪をつけ、漁師の靴をはき、この世の舟を操る。聖ペトロを憚(はばか)るためである。

つまり今のしきたりでは、新教皇は絶対にペトロは名乗れないはずなのだが、聖マラキ予言では、最後の教皇の名はペトロ2世。

つまり、カトリック教会が存続を危ぶまれるほどに追い込まれて、その教会組織全体の最期が見えるような段階にならないと、新教皇がペトロ2世を名乗るようなシチュエーションにはならないだろうから、教会に対する迫害の終りにペトロ2世が出るという意味はよくよく考えてみなければならないと思う。
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最後の法王

2022-12-30 10:11:24 | キリスト者の秘蹟neo
◎我ら平民の覚醒と連動

ローマ法王ベネディクト16世(85)は2013年2月11日の声明で、高齢を理由に2月28日をもって退位すると表明した。
ローマ法王庁(バチカン)報道官によると、実質的に終身制の法王の退位は約600年ぶり。ローマとフランス・アビニョンに法王庁が分裂し、法王が3人乱立していた時代、分裂解消に伴って1415年にグレゴリオ12世が退位に同意して以来の引退である。

聖マラキの予言によれば、ベネディクト16世は、「オリーブの栄光」であり、次に選ばれる法王がペテロ2世という最後の法王となる。

このブログで過去にマラキーの予言に言及したものは、以下のとおり。しかし日本の天皇家の悠仁様のご誕生の件や、最後のダライラマの引退の件など、その予言がすんなりいくかどうかは、我々平民の多くが覚醒・悟りを開けるかどうかにかかっている。
次の法王が最後の法王になるかどうかは、他人事ではなくて、我々自身の動きにかかっている。

聖マラキの予言 (苦難のことは書かない)

オリーブの栄光(誰もペトロ2世を名乗れない)
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ペテロの逆十字

2022-11-19 18:38:05 | キリスト者の秘蹟neo
◎第一の人間は無用の用を生きる

北欧神話のオーディンは木から逆さに吊り下げられた。このモチーフは、北欧の異教だけではなく、メジャー宗教のキリスト教にもある。

聖ペテロはローマで、ネロ皇帝の時代に逆十字架に掛けられ、磔刑となった。これについての見方が聖書外典ペテロ行伝にある。

ペテロの云う第一の人間とは根源人であり、コーザル体であり、古神道なら両性具有の伊都能売のことであり、完全なる人間のことである。

なぜ逆さまかということは、人間を世界樹に喩えれば、根が頭に当たるからである。その世界樹は枝葉が下になり上に根がある。このように人間を上下逆にしてみせて、逆十字架の頭が下、足が上の姿こそ正統的なスタイルだと示したのだ。

そして、その倒立スタイルになるには一度死ななければならないともする。

倒立とは、この功利的な世界観価値観を棄て、神の御意思を生きる、あるいは、物質より精神を優先する、自分のことより他人のことを大事に思うということ。つまり無用の用である。

なお横木の説明はあるが、縦木の説明はない。


『さて、彼らがペテロの望み通りの仕方で(十字架に)かけた時、
彼はふたたび話し始めました、「皆さん、お聞きになることがお仕事の(皆さん)、わたしが(十字架に)かけられている間の、とりわけこの今、わたしが話すことに傾聴してください。

あなたがたは創造全体の奥義と総ての物事の始源――――それがあった通りの状態を知ってださい。第一の人間は、―――その人種をわたしは (この)姿の中に担っているのですが――――まっさかさまに墜落して、かつてあったのとは別の性質を示すことになったのです。なぜなら、それは動きを持たぬ、死んだものになったからです。そしてひっくり返されて、自分の元来(の状態)を地上に投げたその彼は、召された形姿で吊り下げられたままに、総ての秩序を打ち立て、そうして右のものを左、左のものを右と示したのです。

そして彼の性質の全標を変えてしまったのです。すなわち美しくないものを美しいとみなし、実際は悪しきものを善なるものとみなす、というように。

そのことについて主は奥義で語っておられます、『もしきみたちが右のものを左のようにし、左のものを右のもののようにし、あるいは上のものを下のもののように、あとのものを前のもののようになすのでなければ、きみたちは決して御国を知ることはない』と。

この認識をこそわたしはあなたたちにもたらしたのです。そしてあなたたちがご覧通りの、わたしが(十字架に)かけられている姿、これは、初めて誕生した人間の模写なのです。

そこでわたしの愛する人々よ、今聞いている人もまた将来聞くであろう人たちも、あなたたちは最初の過ちを振り切って帰って来なければなりません。なぜならキリストの十字架にのぼることは適切なことなのです。

このかたは唯一無比の広げられたことばであり、このかたについて霊は(次のように)語っています、『キリストはことば、神の響き(エコー)でなくて何であろうか』と。ことばとはわたしがかけられているこのまっすぐの木であり、響きというのは横木――――すなわち人間的性質のことなのです。そして中央あたりで横木を垂直の木に固定している釘というのは人間の回心であり、悔い改めです。』
(聖書外典偽典7 新約外典/教文館P85-86から引用)
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イザヤの召命

2022-11-18 21:21:40 | キリスト者の秘蹟neo
◎木の切り株だけ残っても

イザヤ書の第六章は、イザヤが神に召命されて、神のために働くことになった段。
神が誰か地上に行ってくれるかという問いを発し、これに対してイザヤが「私が行きます」と応じたところ、神から指示が出た。

その指示の内容は、「民を悟らせないで鈍いままで、愚民化しなさい。」というもの。
イザヤが、妙なことを言うものだと怪訝に思って、神に対して、いつまでですかと問うと、
国の荒れ果て、国民の9割がいなくなっても更に残った1割をも焼き滅ぼす(つまり全滅させてしまう)まで、と神は答えた。

神はすべての人々が亡くなって、木が切られて残った切り株のような状態から、聖なる種族を創造すると説明している、と読める。

イザヤ書は、ユダヤ教の聖典の一つでもある。このように、一旦人類を皆殺しして、あの世から人類復興、人間の再構築を図る考えが古来よりあるのは、日常生活を営む我々にとっては恐ろしい発想である。神から見れば当然の発想かもしれないが、人間に対する愛、悟ってないその他大勢への憐憫はないのだろうか。

『主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、
『あなたがたはくりかえし聞くがよい、
しかし悟ってはならない。
あなたがたはくりかえし見るがよい、
しかしわかってはならない』と。

あなたはこの民の心を鈍くし、
その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。
これは彼らがその目で見、その耳で聞き、
その心で悟り、
悔い改めていやされることのないためである」。

そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。
主は言われた、
「町々は荒れすたれて、住む者もなく、
家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、

人々は主によって遠くへ移され、
荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、
こうなっている。

その中に十分の一の残る者があっても、
これもまた焼き滅ぼされる。
テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、
その切り株が残るように」。
聖なる種族はその切り株である。』
(イザヤ書第六章から)
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霊操のメソッド

2022-11-13 19:44:46 | キリスト者の秘蹟neo

◎来たるものあり

 

イグナティウス・ロヨラの霊操では、天国の有り様を観想し、地獄の有り様を観想し、イエスの一生を時系列的に観想でたどり、イエスの御受難と復活までを四週間にわたって観想したならば、ここで「愛に達するための観想」が求められる。

 

まず愛は相互に譲与し合うことであり、行いによって示すという心得が示される。

 

そして天使、諸聖人の前に自分が立っているのを見て、神から受けた数々の恵みを深く悟ることを祈願する。続いて神が自分に与えてくれたあらゆる賜物を想起すると同時に次のとおり祈る。

 

『主よすべてを取ってお受取りください。

私の自由、私の記憶、私の知性、私の意志をすべてお取りください。

私の持てるもの、私の所有すべてをお取り下さい。

これらのものを御身は私に与えてくださいましたから、主よ御身にお返し致します。

 

すべては御身のものですから、どうぞ、御旨のままにお取り計らいください。

願わくは御身の愛と恩寵をお与え下さい。

 

私はそれだけで充分です。』

(霊操/イグナチオ・デ・ロヨラ/岩波文庫から引用)

 

自分の準備ができたのならば、自分に属するすべてのものを棄て去って、本物が向こうからやってくることを待つという基本線が、この祈りから窺える。向こうから来るのであって自分の中から来るものではない・・・如来・・というポイントから見てもこの祈りの正統的であることを感じさせられる。

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イースター復活祭

2022-10-30 15:29:46 | キリスト者の秘蹟neo

◎イエスはいつ大悟したか

 

イースターは、イエス・キリストの復活の祝い。肉体でなく、アストラル体での復活っぽいが、例によって現代科学で検証するすべはない。現代科学はそもそもアストラル体など認めていないので。

 

イースターと言えば、卵型のチョコがスーパーなど店先に並ぶのがキリスト教国の習いだが、日本ではまずあまりみかけない。

 

さてイエスはいつ悟ったかというのは問題である。超能力がばんばん使えたからといって、それは覚醒の証拠とはならない。

 

小学生の頃、旧約聖書を読んでいて、イエスが十字架上で、「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいしか」とつぶやくのを読んで、あれ、イエスは神の子なのに何を言っているのと不審に思ったものだ。

 

要するに、このつぶやきの時点で、人と神は別であり、神人合一は未だ成らなかったのだ。その後神と人との境目がなくなったと見るのが穏当な推理なのだと思う。

 

逆にイエスは、神の側の立場でなく、無力な一個の大工として、その愛のゆえに十字架にかかることから逃げなかった無私と勇気こそ、人として驚異的な生き様であったと思う。

 

釈迦成道では、最初四禅から入ったなどと実況中継よろしく解説する神秘家がいたが、イエスの場合は、西洋人向けには神秘主義からの解説は良しとされなかったのか、十字架上でのプロセスを解説するものは出ていない。

 

それにしても、イエスは、あれだけこの21世紀の危機の時代のことを「終わりの時代には・・・」とその生涯で語ったからには、その昇天による影響のターゲットは現代人に向けられていると考えるのが素直だろう。

 

彼は本当によくやったし、成功した。けれども一人の大工の影響力には限界があった。今一人ひとりが自分に向き合わないと。

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ヨブへの答え

2022-10-21 19:58:16 | キリスト者の秘蹟neo

◎先進国と発展途上国

 

旧約聖書のヨブ記では、神がサタンの悪意の行使を認めたばっかりに、行ないの正しいヨブが、子供を殺され、財産を失い、不治の病に苦しむことになる。

 

さてこの世には2種類あって、神とサタンがいてその振幅の間を揺れ動く世の中と、神とサタンが結婚(天国と地獄の結婚)した世の中である。

 

大雑把にいえば、発展途上国の人の大半は、神とサタンがいてその振幅の間を揺れ動く世界に生きている。

一方先進国の人の多くは、神とサタンの結婚を主要テーマとして生きている。

 

それはなぜかといえば、発展途上国の人々の多くは社会的成功、西洋流に言えば自己実現という、火星、マニピュラ・チャクラにシンボライズされた人生を生きているからであり、先進国の人の多くは、その先にある、金星でシンボライズされるアナハタ・チャクラ、「愛」、換言すれば、神とサタンの結婚の姿であるアートマン、この「ひとつながりのもの」を目指す人生を生きているからである。

 

ヨブは、先進国に生きる人がモデルである。見神をしたとしても、その人生は傍目には悲惨極まりないものであるかもしれない。

 

唐代の禅僧普化は佛を知る僧であったが、町の人に食を乞う姿はロバみたいだと馬鹿にされると、「ヒヒーン」とロバの鳴き声をして見せ、高僧臨済と一緒に招かれた街の篤信家の設けた御馳走のテーブルを蹴り倒して顰蹙をかうほど、社会性のない人生を生きて見せた。

 

社会性は、火星、マニピュラ・チャクラの側。金星、アナハタ・チャクラは非社会性ではなく、社会性も非社会性も分け隔てなく愛に取り込む。

 

覚者はとてつもなく孤独なものだから、時に孤独と裏腹である非社会性を現ずる。ヨブは、十分に社会性を尽くした人生だから、サタンのいたづらで一時はあるいは一生はひどいめに遭っても、遠からずあらゆるものは整うだろう。

 

だが、人間である以上結局救いはない。不幸と苦悩と不条理のどん底に生きる人生であっても何の問題もない。ヨブ記はそこを確認できるかどうか試しているのだと思う。

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アヴィラのテレサの語り得ない体験

2022-10-17 05:59:21 | キリスト者の秘蹟neo

◎一瞬の飛翔

 

『私は度々次のように考えました。

空にある太陽は、その光線がひじょうに強いため、太陽は空にとどまっているままで、光線は一瞬のうちに地上にとどいてしまいます。

 

太陽と光線が一つであると同様に、一つである霊魂と精神は自分のいる場所にとどまりながら、正義の真の太陽からくる熱の力で何らかの高貴な部分が自分自身から飛び出すのではなかろうかと。

 

結局私は自分の言っていることが分かっていません。ただ私にわかることは、火縄銃に火をつけたとき、弾丸の飛び出すあの速さで、霊魂の内部に一つの飛翔-私は他に何と呼んだらよいかわかりません。-が行われます。

 

それは音はしませんが、あまりにはっきりした動きなので決して錯覚ではありえません。

 

そして霊魂が自己超越の状態にあるとき、霊魂に分かる限りにおいて、偉大なことが示されます。

 

霊魂が我に帰ったとき、霊魂はこの上なく大きな益で満たされているので、自分の見たものと比べたら、塵にしか見えないこの世のあらゆるものをまったく空しく感じます。

 

それ以降は、この世に生きることは大きな苦しみとなり、前にはいつも楽しみを与えてくれたものを見ても、もはやそこに何の興味も見出せないのです。

 

(中略)

 

このような一瞬のうちに過ぎてしまうことは、大した益にはならないとあなたがたは思うかもしれませんが、それが霊魂に残す益はきわめて大きく、体験したことのある人でなければ、その価値を理解できないでしょう。』

(霊魂の城/アビラの聖女テレサ/聖母文庫P179-280から引用)

 

体験しなければ価値を理解できないものが、それである。しかしそれでは理解していない人々に伝えることは難しい。これもジレンマ。

 

まず霊魂は超高速で飛翔したみたいだ。それは一瞬に起こったが、何だかよくわからなく、起こったことの全部はわからないが偉大なことが起こった。

 

これが彼女の分析した体験のすべてである。これが体験することはしたが、充分に起こったことの全容を理解したとは言い難いという状態なのだろうと思う。窮極の花婿である神に出会ったが、それを分析し理解しきることはできなかったが、その短時間のイベントの与えた影響は大きく、もう戻れない神ジャンキーみたいな感じになってしまうことを言っている。

 

この内容でマスコミに載せても、そのことを知らない人に対して全然説得力などありはしない。

しかしそれでも瓦を磨いて仏にするような一見無駄な努力は要るのだと思う。

 

アヴィラのテレサは、連続的な観想法を用いて神を花婿と見るので、クンダリーニ・ヨーガ的なアプローチを取る。

 

そして飛翔は一瞬にして起こった。中心太陽に突入したのかしなかったのかはわからない。それは複数次元を飛び越えてあの世に行った人が、それを複数の次元を通過したとはわからず三途の川を渡ったと感じるのにも似ている。起こったことのすべてまでは理解できなかったということである。

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