◎恐怖にかられても思考にしがみつかない
毎晩、眠りに落ちる時、エゴという私性はいつしかなくなり、朝起きるとすっきり爽やかになって生気が回復している。
深い眠りでは、自分の名前、肉体の美醜、太っているか痩せているか、自分がどこの誰か、学歴、職歴、貧乏か金持ちか、悪党か善人かもわからなくなる。これは、深い眠りでは無意識のうちに、エゴを忘れ、真理にタッチしているから、エネルギーが回復するメカニズムである。
ところが、夢を見る場合エゴが残っている。夢を見ている限り、真理にはタッチできない。だから一晩中夢を見ているような場合は、疲れ果てリフレッシュしない。
そこでこの現象を見て取ったウパニシャッドの哲人などが、熟眠中の夢を見ない状態を重視する。エゴがないからである。
冥想修行では、自分自身に直面せよ、本来の自己に直面せよなどという場合がある。エゴすなわち自分自身の不在が悟りにつながるメカニズムがあるが、そう一筋縄にはいかない。
以下引用文では、OSHOバグワンが、エゴに出会う恐怖から悟りへのプロセスについてさらりと説明している。
『ブッダが「私」と言うとき、それはけっして「私」を意味しているのではない、なぜなら、そこには誰もいないからだ。
この私性は、直面することによって消え失せる。その瞬間、恐怖に捉われるかもしれない。怖気づくかもしれない。こういう技法を深く実践する人の中には、恐怖にかられてこの技法から逃げだす人もたくさんいる。そもそも、自分の私性を感じ、それに直面するという状況、それは自分の死を迎えるのと同じだ。
つまり、「私」が消え去っていく、そして自分に死が起こりつつあるように感じる。 何か沈んでいくような感覚がある―――自分が下へ下へと沈んでいくような・・・・・・。それで、恐ろしくなり、そこから逃げ出し、思考にしがみついてしまう。思考は助けになる。思考の雲はそこにあり、それにしがみつけば恐怖は消え去る。
しかし、この恐怖はたいへん良いものだ。たいへん良い兆候だ。それはあなたが深くまで進んでいるということだ。そしてもっとも深い地点は、死だ。もし死の中に入ることができたら、あなたは不死となる。死の中に入った人間は、死ぬことがない。そのときには、死もまた周辺的なものとなる。中心ではなく、表層上の存在となる。私性が消え去ると、あなたは死と等しくなる。 古いものはもはやなく、新しいものが現れる。』
(ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)OSHO P272-273から引用)
ここでいう死は、肉体の死のことではなく、エゴの死のこと。
深い眠りに入る際に、その切り替わりを意識できれば、それはそのまま悟りだが、そう簡単なことではない。ケン・ウィルバーも何年もかかった。