アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

自分自身に出会う恐怖とは

2023-04-21 05:52:43 | 覚醒のアーキテクチャー

◎恐怖にかられても思考にしがみつかない

 

毎晩、眠りに落ちる時、エゴという私性はいつしかなくなり、朝起きるとすっきり爽やかになって生気が回復している。

深い眠りでは、自分の名前、肉体の美醜、太っているか痩せているか、自分がどこの誰か、学歴、職歴、貧乏か金持ちか、悪党か善人かもわからなくなる。これは、深い眠りでは無意識のうちに、エゴを忘れ、真理にタッチしているから、エネルギーが回復するメカニズムである。

 

ところが、夢を見る場合エゴが残っている。夢を見ている限り、真理にはタッチできない。だから一晩中夢を見ているような場合は、疲れ果てリフレッシュしない。

 

そこでこの現象を見て取ったウパニシャッドの哲人などが、熟眠中の夢を見ない状態を重視する。エゴがないからである。

 

冥想修行では、自分自身に直面せよ、本来の自己に直面せよなどという場合がある。エゴすなわち自分自身の不在が悟りにつながるメカニズムがあるが、そう一筋縄にはいかない。

 

以下引用文では、OSHOバグワンが、エゴに出会う恐怖から悟りへのプロセスについてさらりと説明している。

 

『ブッダが「私」と言うとき、それはけっして「私」を意味しているのではない、なぜなら、そこには誰もいないからだ。

 

この私性は、直面することによって消え失せる。その瞬間、恐怖に捉われるかもしれない。怖気づくかもしれない。こういう技法を深く実践する人の中には、恐怖にかられてこの技法から逃げだす人もたくさんいる。そもそも、自分の私性を感じ、それに直面するという状況、それは自分の死を迎えるのと同じだ。

 

つまり、「私」が消え去っていく、そして自分に死が起こりつつあるように感じる。 何か沈んでいくような感覚がある―――自分が下へ下へと沈んでいくような・・・・・・。それで、恐ろしくなり、そこから逃げ出し、思考にしがみついてしまう。思考は助けになる。思考の雲はそこにあり、それにしがみつけば恐怖は消え去る。

 

しかし、この恐怖はたいへん良いものだ。たいへん良い兆候だ。それはあなたが深くまで進んでいるということだ。そしてもっとも深い地点は、死だ。もし死の中に入ることができたら、あなたは不死となる。死の中に入った人間は、死ぬことがない。そのときには、死もまた周辺的なものとなる。中心ではなく、表層上の存在となる。私性が消え去ると、あなたは死と等しくなる。 古いものはもはやなく、新しいものが現れる。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)OSHO P272-273から引用)

ここでいう死は、肉体の死のことではなく、エゴの死のこと。

 

深い眠りに入る際に、その切り替わりを意識できれば、それはそのまま悟りだが、そう簡単なことではない。ケン・ウィルバーも何年もかかった。

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強い衝動の受け容れの問題

2023-04-16 06:24:32 | 覚醒のアーキテクチャー

◎自分が完全に無力になる方法

 

たとえば悲しみという強い衝動に明け渡し、怒りという強い衝動に明け渡し、最後は自分のすべてを明け渡す。

 

強い衝動あるいは「強い感情の始まり」をストップすれば、確かに強力なエネルギーは内に向かう。だが、そのエネルギーを受け取るには、明け渡す準備ができているかどうかが問題となる。 surrender あるいはopen。

 

一般に明け渡すとかオープンマインドとは、自分が完全に無力になれば達成できるものと思われている。

 

ところが、毎日のハタ・ヨーガで屍体のポーズをやっていれば、それが自分が無力だという感じの練習であって、いつもそれには慣れているから、完全に無力になるのは、いつでもできると思い込んでいるかもしれない。

ほとんどの場合、自分はやろうと思えばできる、やろうと思わないからできないだけだと思っている。

 

およそ冥想修行、宗教修行は自分をなくす方向に向けての努力である。ところが真に完全に無力だという実感が起こるのは、あらゆる不断の努力を傾注してそれでもだめだった場合だけである。あらゆる不断の努力なくして、いつでも完全に無力になれると思い込んでいるのは、怠惰なだけ。

 

自分は完全に無力であるという実感があって、縁があればその時正しい師と出会う。あるいは、そのオープンマインドで、強力なエネルギーが初めて受け取れ、体験とは言えない体験が起こるのだろう。

 

また、自分に準備ができたら正しい師に出会うことができ、大悟覚醒も起こると言えば、何の努力もせずとも、待っていれば起こると思いがちだが、そうではないだろう。

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強い衝動を意識してストップ

2023-04-15 06:47:10 | 覚醒のアーキテクチャー

◎やさしい衝動からストップする練習を行う

 

強い衝動あるいは「強い感情の始まり」にそれをストップさせれば、そのエネルギーは内に向かい大悟覚醒のきっかけになることは、知られている。その実例は、禅語録に多数載っている。香厳が竹に瓦礫が当たった音で悟るなどである。

 

さてOSHOバグワンに対して弟子から、その強い衝動が本物である場合は、ストップするのは容易ではないので、どうすればよいかという質問が出された。

 

OSHOバグワンは、これは重要な質問だとし、衝動にもいろいろあるが、やさしいものからその衝動をストップする練習をしなさいとする。つまり最初はやさしい衝動から始めて、だんだん強い衝動をストップする練習に入っていく。

 

最初は、歩くとか風呂を使うとか、のどの渇きを感じるとか、そうしたものが起こった時にストップをかけてみる。このようなやさしい衝動を止める練習を繰り返すうちに、段々『覚醒とともに止まる』感覚がつかめて来る。

 

『覚醒とともに止ま』れば、そこで発生したエネルギーは内に向かうが、何が起こったかを自覚していなければ、取り逃がしてしまう。意識的でなければ、折角発生したそのエネルギーは、行動をやめ元の自己意識にもどろうとしたり、その衝動の行動を最後までやろうとしてしまうのが普通。意識的であってこそ、内に向かい覚醒に進む。

 

つまりOSHOバグワンは、最初から強い衝動あるいは「強い感情の始まり」をストップさせようとしてもできるものではないと見ている。

(参照:ヴィギャンバイラブタントラ(3第三の眼)OSHO P86-89)

 

思考停止と意識と無意識』では、「強い感情の始まり」を列挙しているが、それらのストップは簡単ではないのだ。事と次第によっては、発狂や自殺などの思いもよらぬ方向に進むこともある。

 

冥想では、すぐ悟る頓悟、徐々に悟る漸悟と分けるが、誰もがすぐ頓悟できるわけではない。一週間で悟るエピソードがいくつかあるが、そういうのは珍しかったから記録されている側面があるのだろう。

 

そこで問題になるのは、準備ができているかどうか、悟りという体験とはいえない体験に耐えられるようになっているかであると思う。

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思考停止と意識と無意識

2023-04-08 07:15:02 | 覚醒のアーキテクチャー

◎強い感情の始まりの転用

 

一般に思考が停止すれば、一瞥は起こる。だが、一瞥すなわち見神、見仏、見性は、起こってもそれが意識されたのか、無意識のうちに起こったのかという違いがある。

無意識のうちに起こった場合、起こることは起こったが、本人は何が起こったのか認識がなかったということになる。

 

思考停止がどのような時に起こるかと言えば、

1.くしゃみの出始め

2.恐怖の極み

3.苦悩の極点

4.断崖絶壁の上にいる時

5.戦場で全力疾走している時

6.空腹の始め

7.空腹の終わり

8.射精

9.突然肉親を奪われるというような不条理

10.両親早世

11最愛の人の死やペットロス

12.突然の災害ですべてを失う場合

13.霊能力の開顕、心霊体験

14.アストラル・トリップ(ヘミシンク)

15.統合失調症における変化した世界観

16.ドラッグ

17.失神

18.恋の最初のときめき

19.発情の最初

20.極度の好奇心

 

これらをまとめると、「強い感情の始まり」ということになる。「強い感情」が始まれば、一般にくしゃみなら出切るし、セックスなら放出するし、その無思考のオープンマインドに居られないと思えば、元の自己意識にもどろうとしたり、発狂したり自殺したり、人によっては悟りに向かったりする。

 

古来、どういった瞬間に「強い感情の始まり」が起きるかを網羅してみようなどと思うのは求道者だけだった。だが最近は特殊詐欺やマインド・コントロールにまで応用されているのは遺憾なことである。

 

閑話休題、「強い感情の始まり」でのパワー、モウメンタムを悟りに利用しようというのが、宗教。だが、それが起こる際に意識的でなければならない。そこで意識的であれば、見神、見仏を自覚できる。

 

だが睡眠時にはまた事情が異なる。睡眠時には論理的思考はないが、自分の無意識が夢を見る。夢は思考ではないが、見仏、見神ではない。だから睡眠時は、思考が停止するからといってそれが、大悟覚醒だなどとは言えない。

 

だからインドでは、熟眠中の夢をみない状態を高く評価し、アメリカの覚者ケン・ウィルバーも見性後、そこに至るまでは時間を要した。

 

つまり最後は、熟眠中でも意識的でいること、絶えず醒めていることが求められる水準なのだ.

 

不思量底(道元の正法眼蔵)は、奥深い。

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真に人を愛している徴候

2023-04-04 05:17:29 | 覚醒のアーキテクチャー

◎愛により大悟覚醒に至る

 

真に人を愛しているという気持になることはあるものだ。だが、自分の想像上の相手を愛しているという空想に浸っているだけだったり、深い自己催眠で愛していると繰り返し自分に思い込ませていたりすることが大半である。

 

それでも中には、本当に愛しているケースもある。それをOSHOバグワンは、見分ける。以下は、愛によって大悟覚醒できるかという基準である。

 

質問者は、私は真に愛していると主張している。

『疑うわけではない。あなたは愛していると信じているかもしれない。あなたの確信は本当だ―――誰もだましてはいない。あなたは自分が愛していると思っている。だが種々の徴候を見ると、どうもそうではないらしい。

 

愛していることの徴候とはなにか。三つある。

第一に、絶対的な満足。ほかにはなにもいらない。神さえもいらない。

 

第二に、未来がない。この愛の瞬間こそが永遠だ。次の瞬間はない、未来はない、明日はない。愛は現在の出来事だ。

 

そして第三に、あなたは消える、あなたはいなくなる。まだあなたがいたとしたら、 まだ愛の寺院に入っていないということだ。

 

もしこの三つが起こったら、あなたがいなくなったら、そのときいったい誰が瞑想するだろう。もし未来がなかったら、あらゆる方法は無意味になる。方法とは未来のためにある、結果のためにある。今この瞬間に満足していたら、絶対的に満足していたら、どうしてなにかをする気になるだろう。

(』(ヴィギャンバイラブタントラ(2源泉への道)OSHO P244から引用)

 

真の愛は、肉欲でもなく、セックスでもなく、所有欲でもなく、閑つぶしでもなく、孤独の癒しでもなく、さみしさを紛らわせる材料でもない。

 

真の愛があれば、冥想法はいらない。

 

Vaundyの「踊り子」の歌詞のように、一度だけしか会ったことがなくても、真の愛が起こることもある。

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OSHOバグワンのヨーニ・ムドラー

2023-04-01 07:20:58 | 覚醒のアーキテクチャー

◎呼吸停止と第三の目

 

ヨーニ・ムドラーは、重要中の重要な技法であって、饒舌なOSHOバグワンですら簡単にしか触れていない。ヨーニ・ムドラーは、シヴァ・サンヒターに登場し、古事記海幸彦山幸彦の段に無間勝間(めなしかたま)の神船として登場し、荘子に七つの穴をふさぐと混沌になった話として記載がある。荘子の元の話は、穴のない混沌に七つの穴をあけたら混沌は死んでしまったという話だが、逆順に話を構成するとそう読める。

 

OSHOバグワンの説明の概要は以下。

  1. 経文本文『両手で頭部の七つの孔を塞ぐ、

そのとき、両目の間の空間はすべてを包含する。』

(参照:ヴィギャンバイラブタントラ(2源泉への道)OSHO P102から引用)

 

  1. 両目、両耳、鼻、口の七つを全部塞げば、呼吸が止まり意識の動きは止まる。思考、想念は、息ともに動くからである。

 

  1. 意識が内に止まることで、意識は両目の間にある第三の目に焦点を定める。

ただし、第三の目は肉体の一部ではない。

 

  1. 第三の目にすべて、何もかもが包含されている。両目は有限すなわち物質を見るが第三の目は、無限を見る。

 

  1. これを実現すると、全宇宙が私の中にあることを体感し、「私は神である」と実感する。

(参照:上掲書P102-108)

 

OSHOバグワンは、イスラム教のホセイン・マンスール・ハッラージが、「私は神である」と公言して、その結果惨殺された例で警告するが、キリスト教のエックハルトもそういう実感はあったようだが、異端認定されないように苦労したようだ。

 

いわんやこのSNSの世界で、「私は神である」とつぶやけば、精神異常者扱いされることになるのではないか。宗教組織に守られていれば「私は神である」と唱えても教祖など本人に実害は及ばないかもしれないが、一市井人がそれを言うのは21世紀の現代でも憚られる。

 

なぜだかSNS上に私は悟ったと書いている人が少なからずいるが、大丈夫なのだろうか。

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冥想法をそもそも用いないやり方

2023-03-26 06:51:04 | 覚醒のアーキテクチャー

◎冥想法の区分

 

冥想法の区分で知られているのは、すぐ悟る頓悟と徐々に悟る漸悟。頓悟と言えば、黙照枯坐の只管打坐と看話禅の区分が有名だが、現代においては、すぐに悟る只管打坐と徐々に悟るクンダリーニ・ヨーガということになろう。クンダリーニ・ヨーガには、密教、道教内丹、古神道、西洋錬金術などを含む。

 

この区分のやり方の他に、そもそも冥想法を行わないという区分もある。それを唱えたのがクリシュナムルティであり、OSHOバグワンによればサーンキヤ哲学もそうなのだという。

 

OSHOバグワンの説明では、行、あるいは冥想法は、すべて頭(マインド、思考、想念)を用いる。頭を用いる極みにまでいって、頭のなくなる無心、ノーマインドという悟りの発生を求めるやり方が冥想である。(思考は言葉で行われる。言葉とは音である。)

つまり目的である無心とは逆方向に頭の作用を冥想により極限まで強化して、頭をジャンプ台として使って、最後は無心に到達しようとするやり方である。

だが、このやり方には、頭の作用を冥想により強化していく中で失敗する可能性もある。

 

そこで、これに対して、クリシュナムルティとサーンキヤは、冥想とは頭を必ず用いて冥想するものであって、頭を使わないところを究極の目標にするのであれば、最初から冥想しないのがよいと考える。

サーンキヤ学派は、自己(プルシャ)と原質(プラクリティ)の二元論であって、その極めた果ての知識が悟り。

 

サーンキヤ・カーリカー第64頌

『六四

以上のように真理に習熟して<私はしかじかではない、しかじかは私のものではない、しかじかは私ではない>というように完璧に誤謬がなくなれば、清浄で純然な知識が生ずる』

(インドの「二元論哲学」を読む イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 シリーズ・インド哲学への招待 宮元 啓一/著 春秋社P179-180から引用)

 

要するに「清浄で純然な知識」が悟りであり、「完璧に誤謬がなくなること」が悟りが起こる前提条件なのだと思うが、どうすれば、「完璧に誤謬がなくなる」のかはわからない。

 

冥想法がないあるいは冥想を否定しているのはこの点であって、クリシュナムルティもあらゆる瞑想を認めなかった。

 

だが、ダンテス・ダイジは、そのやり方には限界があることを見てとって、自ら「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」を出版するに至った。

 

このように頭を使わないこと、すなわち無心の先に悟りがあることは間違いないが、冥想法を用いない方法で悟った人もいることも承知しておくべきだろう。

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聞き守ることと沈黙

2023-03-25 06:58:56 | 覚醒のアーキテクチャー

◎音の入って来ない一点

 

電車に乗ると結構な人が耳にイアホンを刺して音を聞いている。日常生活では、スマホの音でなければ、テレビやタブレットの音を聞いている人が多い。

 

クンダリーニ・ヨーガでは、音を聞き守るという冥想法がある。放っておけば、あらゆる音がやってきて、自分を貫き、自分を取り囲む。

 

そうしているうちに、どんな音も入って来ない一点があることに気がつく。この一点をOSHOバグワンは、無音性と云い、これが生の中心だと指摘する。

 

OSHOバグワンは、あらゆる音が自分に向かって飛んでくるが、その音とともに進めば中心に到達するとする。(ヴィギャンバイラブタントラ4巻沈黙の音P40)

 

音は、自分から外へ、外から自分へと双方向の方向性を持つ。この音の双方向性によって、人間は社会性を保持している。

 

そこで悟りの技法として外から内に向かう技法を用いるのは理にかなっている。

どんな音も入って来ない一点に向かうのだ。

 

音には、外から入ってくる音と、外に向かう自分が発声する音がある。聞き守るという行では、音は外から自分への一方通行であって、その音とともに、音も入って来ない一点に進む冥想法となる。

 

これとは逆に、できる限り外からの音を遮断して、無音あるいは沈黙にいることで、音のない中心を感じようとする冥想法がある。

 

沈黙は、自分から外への発声をしないことだが、発声しないことを続けることにより、最終的には、どこから発声の音が出ているかに気づかせる技法と考えられる。

 

掌や指で耳をふさいでも音は聞こえる。完全に無音になるには、聴覚テスト用の無音室に入ったり、宇宙飛行士のように宇宙空間に出なければならない。無音室に入った直後は、無音に慣れていないので、ちょっと気分がくらくらする。

宇宙飛行士は、無音環境での生活を強いられる上に、予期せぬ生命を脅かす突然のインシデント対応が必要になる苛酷な職業だと思う。

 

完全に無音になっても、音は聞こえる。呼吸の音、鼓動、胃腸のごぼごぼ。そして無音に切り替わった直後は、直前の音の残響や脳が作り出す音もある。

 

つまり物理的に無音にできるかどうかが課題なのではなく、沈黙という音声を発しない状態を継続して、他人とのコミュニケーションを断ち、音のない中心を感得できるかどうかが問題となる。

なお、長期間の沈黙には弊害があって、OSHOバグワンは、以下を挙げる。

1.三年以上沈黙すると、再度音の世界に戻れなくなる。

2.三年以上沈黙すると、他人とのコミュニケーションが非常に苦痛となる。

(出所:上掲書p49-50)

 

インドのメヘル・ババは40年以上沈黙し、その期間中何度も発言しようとしたが、ついに言いたいことを言わずに死んだ。キリスト教の聖女の中には、修道院の中の個室に籠って、半生を沈黙に過ごした話が時々あるものだ。

 

また冥想修行者が沈黙しているからといって、誰もが高級神霊とコンタクトを行っているわけでもなく、本当に沈黙に打ち込む者たちもいる。

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文字と音

2023-03-24 06:19:59 | 覚醒のアーキテクチャー

◎マントラの前後

 

思考は言葉で行われる。

言葉とは音である。

思考で宗教、哲学、文明が構築されるが、その根底には音がある。

 

音をさらに探れば、奥底に感覚がある。人の言葉には意味があり言語となる。一方、鳥獣の発する声には言語としての意味はないが、感覚としての意味がある。母を呼ぶ、求愛など。

 

アオウエイなど特定の音には特定の感覚が結びついている。これは、出口王仁三郎の75声の一覧表や彼の〇〇言霊解などを読めばおおよそのイメージはつかめる。

 

それら各音の特定の感覚を組み合わせて世界各地でマントラが研究され創出された。

 

アーメン、カミ、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、無(禅の無字の公案)、隻手(禅の隻手の公案)等々いくらでもある。

 

マントラによってその効果は異なり、ネガティブな効果のものもあり、その辺は、覚者たちは知っているが公開するということはないことが多い。

 

出口王仁三郎はス字本義を唱え、空海は阿字本義を唱えるが、それは世界の構成原理なのだろうが、あくまで「特定の感覚」であるにとどまる。

 

言葉から、音、そして感覚に進むということは、六根(眼耳鼻舌身意)で言えば、目(視覚)から、耳(聴覚)、そして身に進むのだが、その身は触覚だけではなく、微細身の感覚まで想定している。感覚にとどまっているのでは、すべてを振り捨てて大悟覚醒には進めない。

 

よって、あくまで本来の自己、一円相、神仏を目指すプロセスにおいては、言霊、マントラすら棄てねばならないことになる。

 

新約聖書ヨハネによる福音書には、「初めに、言葉があった。言葉は神とともにあった。」などと書いてあるが、最後は言葉をも棄てないと神には行けない。

 

それを前提に、ダンテス・ダイジは、この粗雑な言葉の飛び交う現代において、マントラの精妙なニュアンスは有効とは見えないというようなことを言っている。だからマントラ禅で用いるマントラは何でもよいということまで言っているが、それは、マントラの精妙なる効果に期待しても悟るのはなかなか大変であって、むしろ最後はマントラをも棄てることで悟りに到達することを意図していたのかもしれないとも思う。

 

言葉を冥想して、その音の意味を感得し、言葉自体の不毛なところを見抜いてこだわらなければ、言葉、音、その奥にある特定の感覚からも自由になることができる。

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体外の一点への集中について

2023-03-21 06:54:55 | 覚醒のアーキテクチャー

◎内的中心に投げ返される

 

合気道も達人クラスになると指先から○センチ先の一点に力を集中してなどと身体外のワンポイントを集中点とすることがある由。

古神道でも鎮魂法では、鎮魂石という体外の一物に一心不乱に意念を集中するという技法がある。

 

このメカニズムについて、OSHOバグワンが説明している部分がある。(112ある冥想法中第13番目の技法)

『13 ひとつの対象にトータルに集中する

 

あるいは、孔雀の尾の五色の円を、

自分の五感として無辺の空間に想像する。

それから、その美を内側で溶かす。

同様に、空間や壁面の点についても、その点が溶け去るまで・・・・・。

そのとき別なるものへの、あなたの願いは実現される。

 

 

これらのスートラすべての主題は、どのように内的中心を成就するかだ。そこに使われる基本的メカニズム、基本的技法は、次のとおりだ。もし、外側にセンターを創り出すことができれば――それはどこでもいい、マインドの中でも、ハートの中でも、あるいは外部の壁面であっても、

もしその上に集中しきって全世界を括弧外に出したら、もし全世界を忘れ一点だけが意識の中に 残ったら、突然あなたは内的中心に投げられる。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(2源泉への道)OSHO/市民出版社 P26-27から引用)

 

この最初は、五色の孔雀の尾を対象として行う観想法。対象が観想用ビジョンであっても空間や壁の点でもよいが、それにトータルに集中することによって、集中しきった瞬間に、頭(マインド)から内的中心に投げ出されると言う技。

 

この技法について、OSHOバグワンは、色彩の感性がとても優れている人に向いている。つまり、夢は100人中99人が白黒で見るが、夢をカラーで見る残りのたった一人の人がこの冥想技法に向いている。色彩感覚に優れた人向けの観想法であることをも注釈している。

そして特に色彩感覚に優れてない人は壁面の点や空間を使う。まばたきをせず、その点が溶け去るまでやる。まばたきをすると一瞬の隙間が生まれるからである。人は頭(マインド)で点を見ているが、一点を見続けることで頭は止まり点が溶ける、内なる中心アートマンにつながる瞬間があり得る。

この技法で内的中心に投げ出されたら、外もなく内もなく純粋な意識としてそこにある。内的中心と言いながら、外もなく内もなくと表現されている。

 

キリスト教でもイエスの一生の出来事を観想してイエスに成りきるという技法は多用される。

 

七つの身体だから身体以外のポイントを用いるには抵抗のある人もいるのかもしれないが、冥想技法の実情はこのとおり。

組織宗教で、よく教祖を崇拝するわけだが、自分の身体外の他人である教祖を崇拝するとか成りきるというのも、身体外のポイントと言う点では、同じ流れと見ることもできる。

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二重の夢で成る人生-3

2023-03-20 07:38:10 | 覚醒のアーキテクチャー

◎悟りに耐えられるかどうかということと冥想法

 

肉体死で、誰でも必ず出会う神に相当する原初の光。あるいは臨死体験が起きても誰もが神に出会うわけではない。

 

神に出会うことを悟りと呼ぶが、そうしたシチュエイションにおいて、誰もが神に出会っていたとしても、誰もがそのことを認識するわけではなく、むしろ認識する人の方が少ない。

 

こういうものを「起こることは、起きたが、何が起きたかはわからなかった」などと評価することがある。

また私の知る限り、悟りは個人から宇宙全体へのジャンプの瞬間であり、個人から宇宙全体へのジャンプの間に段階などはない。

 

このような実情を踏まえ、冥想には悟りに至る冥想法と、悟りに耐えるための準備の冥想法しかないことがわかる。

その伝で行けば、今日只今の人間については、悟りに耐えられる人間と悟りに耐えられない人間がいる。そこで悟りに耐えられる人間には、悟りに至る冥想法が与えられるべきであり、また悟りに耐えられない人間には、悟りに耐えるための準備の冥想法が与えられるべきである。

 

ちなみにOSHOバグワンは、10巻本のヴィギャンバイラブタントラ第一巻の中で、直ちに悟りに至る冥想法は7つあると述べている(ちなみにこの本には112の冥想手法が紹介されている)が、悟りに耐えられない人間には実際のところ使えないことを明らかにしている。

 

誰でも「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」(深い方の夢)という悟りを持って生きているが、それに気づかないだけ。それに気づかずほとんどの人が、「起きて活動している時間帯の自分という夢」(浅い方の夢)に生きている。これぞ、酔生夢死であって、浅き夢みし酔いもせず。これを前提に、覚者たちは、誰でも今ここで悟りを開くことができるし、万人が神性を有していると胸を張って唱えているだけのこと。

 

世間では、只管打坐が急速に悟れる冥想法(頓悟)として有名で、クンダリーニ・ヨーガ系(古神道、内丹、密教を含む)は、徐々に悟れる冥想法(漸進的)として知られる。

 

しかしながら以上のような議論を踏まえれば、徐々に悟る冥想法などはない。悟りはワンステップで起こるからである。

実際のところ徐々に悟る冥想法はなく、悟りに耐える冥想法があるだけである。

 

新約聖書のパウロ(サウロ)は、悟る際に死にはしなかったが、何日か盲目になった。悟りに耐えられない例というのはそういうこと。

 

万人が一斉に悟りに気づくことのできるタイミングがあるであろうことは、古来から知られている。最後の審判、凡夫の耳も菊の年など。

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二重の夢で成る人生-2

2023-03-19 06:38:23 | 覚醒のアーキテクチャー

◎肉体の死と深い方の夢

 

人間は肉体が死んでもほとんどの人は悟りを開かない。それは、肉体が死んだとしても「起きて活動している時間帯の自分という夢」が続いていて、相変わらず「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」(深い方の夢)には気づかないまま死後の世界にいるということ。

 

チベット死者の書は、人間を悟りに導くプロセスの説明ということで一貫しているので、そういう実もふたもない説明の仕方はとらないが、実際はそういうことである。

 

死のプロセスにおいて、肉体機能停止直後に、すべての人が悟りである「原初の光」に出会うが、誰もがそれと認知できるわけではない。ごく一部の人だけが、「原初の光」を見る。

 

肉体機能停止後数時間で、エーテル体は崩壊。アストラル体は残るわけだが、Aさんが死んで、アストラル体がAさんのままかといえば、そうでなくA´さんになるらしい。アストラル体A´さんになったとしても大概の人は、「起きて活動している時間帯の自分という夢」だけを自分と思い込んで悟らないままで、あの世に生きる。

 

だが、その意識感とかあの世における見方、感じ方は、どこにいても中心太陽が見える(あの世探訪譚では、大概いつでも中心太陽(central sun)が見えると書いてあるものだ)ことからすると、肉体人間が、神を知らないという見方、感じ方とはまた異なるものかもしれない。

 

それにしても大悟覚醒する側は、七転生で大悟したとか、何百回も転生した後に大悟したということからすれば、大半の人が肉体の死後においても、悟りすなわち「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」に気づかないまま生まれ変わってくるのだと思う。深い方の夢には気づかないのだ。

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二重の夢で成る人生-1

2023-03-18 06:45:21 | 覚醒のアーキテクチャー

◎人生は浅い夢、深い夢

 

人間の脳は、映画のスクリーンであって、そこに自分を主人公とする映画が映し出される。

 

映画館を出た後、しばらくは映画の世界にまだいるような気分がするものだが、そのように自分は、自分を主人公とする夢の世界に没頭して生きている。

 

ところが、自分が演じる夢の世界は二重構造になっていて、「起きて活動している時間帯の自分という夢」と、「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」に実は分かれている。

 

最初の「起きて活動している時間帯の自分という夢」の中では、自分が主人公として活躍しているが、その夢を見ている者は完全に忘れ去られている。

 

悟っていない普通の人は、「起きて活動している時間帯の自分という夢」こそが人生だと思い込んでいて、それこそが喜びも悲しみもある人生だと思い込んで、何回でも生まれ変わりを繰り返す。

 

一方、「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」においては、その夢を見ている者は意識されている。

 

さて、「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」は、意識の隙間と呼ばれて知られている。

まるで映画という動画にはアナログでもデジタルでも隙間があるが、その隙間にこそ真実が隠されているかのように。

 

さてこのように人生は二重の夢見だ。浅い方の夢が停止した時に、深い方の夢に気づくことがある。それが悟りと呼ばれる。

 

人間に突然の悟り、急速な目覚めをもたらす手法はあるものだ。代表的なものが只管打坐だが、実際には、人生が嫌になって石を投げたら竹に当たった音で悟ったとか、石に蹴つまづいて悟ったとか、重い鍵束をガチャリと置いたら悟ったとか、黙って坐る黙照枯坐だけのワンパターンで悟るわけでもない。

 

また、突然の悟り、急速な目覚めをもたらす手法が強烈過ぎたり、起きるのが早すぎる場合がある。その結果、それに耐えられなかったり、精神障害になったり、自殺したり、脳がこわれたり、死んでしまうこともある。人はあまりにも長く「起きて活動している時間帯の自分という夢」だけを現実として生きてきたせいで、その夢がなくなると自分が誰だかわからなくなりさえする。

 

人は、「起きて活動している時間帯の自分という夢」なしで生きるのはむずかしい。だから突然の悟り、急速な目覚めをもたらす手法は、あまり一般的に用いられることはなく、むしろクンダリーニ・ヨーガ型の漸進的な段階的な徐々に進む手法が用いられることがある。

 

覚者たちは、突然の悟り、急速な目覚めをもたらす手法のことを、乾いた道、近道などと呼んで、ちゃんと承知はしているものだ。

 

人生を二重の夢、浅い夢と深い夢と見れば、深い夢が悟りであって、その意味では、誰もがいつでもどこでも悟りを生きている。ところが、自分が悟りを生きていることに気がつかないだけなのだ。真の現実とは深い夢の方だが、深い夢である「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」に気づくのは、なかなか容易ではないのも現実。

 

このような意味で、人は今ここで悟っている。自分が悟っていることに気がつくか、つかないかだけの差である。だから悟りに時間はいらないとも言える。

 

だからと言って、突然の悟り、急速な目覚めをもたらす手法が万人に有効とはいえない。

 

そうすると漸進的な段階的な手法一択かと考えがちだが、さにあらず。ダンテス・ダイジは、この時代、人類が存続するようなら禅が流行し、人類が滅亡するようならクンダリーニ・ヨーガが流行すると予言している。この禅は、只管打坐のことであり、突然の悟り頓悟の手法。冥想手法もあざなえる縄の如し。

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二種類の人工地震

2023-03-14 03:16:37 | 覚醒のアーキテクチャー

◎地震兵器とみんなが悟る時代

 

二種類の人工地震について、出口王仁三郎が予言している。

 

一つは巨大地震が起こると時々噂になる地震兵器による人工地震。これは、とある国が地震兵器のスイッチを押しさえすれば地震が起こるわけではなく、神様が認めないと起きはしない。

 

関東大震災後まもなく詠んだ歌。

関東の地震に勝る人造の

    地震治むる神の権力

〈霊界物語第37巻十章/出口王仁三郎〉

地震兵器で関東大震災以上の地震を起こそうとする勢力もあるが、神様が止める。

 

なお人工地震と言えば、核実験等の原因による人工地震も学会では知られている。

 

もう一つは、世の中に段々と神を知る悟った人が増えて来て、既成宗教に批判が猛烈に強まる時期がある。その既成宗教側の動揺を人工地震と呼んでいる。

これは、大正時代にそんなことを言ってもまずわかる人はいないので、とてもあっさりと記述されている。

 

悟った人が増えて、既成宗教に今まで馬鹿にされていたということで、宗教反対論を大勢で繰り広げるなど、どんどん風当たりが強くなって、まるで地震のようだということ。既成宗教のシンボルである聖なる壺も、人工地震が起きると割れてしまう。

そんなことは、今は夢想だにできないが。

 

出口王仁三郎の裁判記録。問が裁判長、答が出口王仁三郎。

『●争点 霊界物語の第三十八巻の歌「千歳経し…」

 

問 昭和八年四月十日、霊界物語の三十八巻の第四版を発行するに当つて、其の九十四頁に、

  千歳経し聖の壷も地震の

  荒ひに逢はゞもろく破れむ

  つがの木の弥つぎつぎに伝はりて

  宝の壷もひゞぞ入りぬる

 是はどうぢや。

 

答 是は、前にも申上げてあるから、或は二重になるかも知れませぬが、又申上げますが、仏教が渡来してから千年以上になります。「千歳経し聖」と云ふことは基督教にもあります、聖徒と書いてひじりと読まして居る。総て仏教では坊さんを皆な聖と云ふのです、此の問言ひましたやうに、

  初雪や高野聖の笈の色

 詰り、坊主のこと、兼好法師の徒然草には、京都の「しんせい」院に坊主が居つて、其の和尚が木餌上人やと言うて居つたのに、それはおかしいと思うて、木の葉ばかり食つて居るのに不思議やと思うて、小坊主が床下を見たら、さうしたら、米の糞があつたから、是は「こくむそう」聖やと云ふことが書いてありますが、それで聖と云ふことは予審や何かで陛下のことのやうに言はれ、さう云ふ意味に取られましたけれども、是は決してさうでない、仏教の坊さん或は基督教の宣教師などを皆聖と云ふのでありまして、「聖の壷」と云ふことから、……壷は総ての局部です、仏教を統一する所ならば──真言宗なら真言宗は高野山とか、或は天台宗は叡山とか、其処の房は総て局と云ふ、局は都房とも言ひ、漢字で本当の壷を書いたので……。

 

問 地震は何だ。

答 地震と云ふことで、是は本当の……。

問 房と云ふのは局と云ふのか。

答 詰り教務所みたいのものです、宗教を本当に統括する所……。

問 教務所がどうしたと云ふのか──。

 

答 ……のやうなものです、総括するやうな意味です。

 それが、「壷も地震」と云ふたらば、地震の意味ですが、信者が目覚めて来て、今日迄の所は、坊主が巧いことを言うて善男善女を弄らかして、甘い汁を吸ふたりして居るけれども、段々文明の世の中が進んで来て、若い者──今日の若い者が進歩して真理を悟つて来ると、今迄馬鹿にして居つたと云ふので、皆一緒くたになつて宗教反対論を唱へて来ることは、是は人造地震です。

 其の地震が揺れば、直ぐに破れてしまふと云ふ、皆が悟つて来たら直ぐに駄目になると云ふことを言うたのであります。

 其の意味を書いたのであります。

 

問 其の次は「つがの木の云々」は。

答 それも同じやうな意味で、是は、私が丸山貫長と云ふ人に依つて──「つがの木」は「つぎつぎ」と云ふことの枕言葉で、「つがの木の弥つぎつぎに」と云ふのは、是は真言宗の坊さんの丸山貫長と云ふ人に聴いたのですが、「千年余りも高野山は伝つて来たが、併し、其の当時には高野山にも仏法僧と云ふ鳥が居つて、仏と法と僧と鳴いて、三宝鳥と言つて三つの宝の鳥が居つて仏法僧と鳴いた。処が今日は坊主が女を置いたり、高野山の女禁制の山に向つて上げたり色々なことをして穢れ切つて居るので、それで仏法は動かないが僧──一つの宝、それに罅が入つてしまつた」と云ふのです。

 それで、千年も続いて来たのが、今日は斯う云ふ具合に仏教にも罅が入つて来たと云ふ意味です。

 

問 仏教のことを言ふのか、高野山のか──。

答 高野山の……丸山貫長が高野山の話をして、「仏教がさう云ふやうになつて居る」と云ふのです。

 それは丸山貫長の話に依つて作つた歌です。』

(大本史料集成 3 第2部 第二次事件関係 第2章 裁判所資料 第2節 地裁公判速記録(出口王仁三郎)P458-459から引用)

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第三の目の技法

2023-03-12 06:54:37 | 覚醒のアーキテクチャー

◎何かまずいことが起こりそうだと感じたら中止する

 

冥想では、閉眼と開眼と半眼がある。半眼ではエネルギーが体内で還流するが、閉眼と開眼では、エネルギーは流出あるいは体外と交換する。

 

第三の目と言えば、1ドル札だったり、石屋のシンボルを思い浮かべることが多いが、インドや西洋だけの特許ではない。第三の目は誰にでもあるからである。

 

OSHOバグワンは、第三の目について重要な言及をしている。

曰く、

  1. 両目は、肉体にある。第三の目は、アストラル体(sookshm shareerスクシュマ・シャリール)にある。

 

  1. エネルギーが肉体にある時、両目は物質ばかり見るが、第三の目で見る時は、相手の見え方は肉体でなく、アストラル体、魂、霊性になる。

 

  1. 第三の目が機能して初めて、別次元に入れる。

 

  1. 見ることには、エネルギーが要る。そのエネルギーが両目で働けば、肉体の両目が見えるが、第三の目は見えない。そのエネルギーが第三の目で働けば、第三の目は見えるが、両目は見えない。

よって、そのエネルギーを第三の目に転移させれば、「第三の目」は開く。

一点を見つめて両目を静止させれば、そのエネルギーは両目に流れず、どこかへ行こうとする。第三の目の位置は、両目の間で深さ半インチほどのところだが、両目に近いがゆえにそのエネルギーはひとりでに第三の目に流れる。

 

  1. 第三の目が開けば、他人の死期が見える。怒りなどのオーラが見える。

 

  1. 両目が停止した場合で、そのエネルギーが噴出して頭蓋骨の第三の目部分に穴があくという事故もある。チベットでは、そのエネルギーを通りやすくする外科手術もあった。

 

  1. アストラル体が見えれば、それだけでよいということではなく、アストラル体が死ななければ、輪廻転生というカルマから抜け出せない。これは、誰でも肉体が死ねば悟れるということではないのと同じ。

 

(参照:ヴィギャンバイラブタントラ 第三巻/OSHOP231-244)

 

だが、本当に両目を静止させただけで、第三の目が開くような代物でないことは皆もよくご承知のとおり。また、素人がそういうことを見よう見まねでやった場合、頭蓋骨に穴が開くなど死の危険もある。だから弟子の行動にあまり興味がないようなOSHOバグワンですら、『何かまずいことが起こりそうだと感じたら中止する』と警告を発している。

 

第三の目とは、霊能力者の目つきは、恐ろしげでこわばっている程度の軽いものではないのだろう。また第三の目が開きさえすればよいとも言ってはいない。悟りとは、第三の目の位置するアストラル体の死の先でもある。アストラル体には天国も地獄もある。

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