アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

禅の究極と西方浄土・極楽

2023-01-04 03:59:23 | 覚醒のアーキテクチャー

◎目標の相違とプロセスもテクニックなぞもないこと

 

禅の究極は、一円相の涅槃。念仏の究極は、西方浄土・極楽。

 

禅の十牛図には、西方浄土・極楽はない。一方念仏側は、「死後に」最初に浄土の辺地に往生してそこで修行してよりよい浄土に移転を狙うという流れ。浄土が究極との位置づけとなろう。

 

禅の六祖恵能が、西方浄土と禅の究極について以下のように説明している。※長官とは韻州刺史のこと。

『長官はさらにたずねていう、「わたくしは、いつも出家在家の修行者が、阿弥陀仏の名をとなえて、西方浄土に生れようと祈っているのを知っています。どうか先生、本当にそこに生れることができるのかどうか、 わたくしの疑問をといていただきたいのです。」

 

先生はいう、「長官よ 、気をつけて聞きなさい、わたしは君にいってきかせよう。釈尊は、シュラーバスティの町においでになったとき、西方浄土の方便説法をなされたのである。『経典』ははっきりと『浄土はここから遠くない』といっている。その様相をとりあげ、距離を言うなら、十万八千という数がでるのである。つまり、われら自身の十種の悪業や八種の罪について、それを遠いと言うのである。

遠いと言うのは、そうした素質の劣ったもの のためであり、近い(遠くない)と言うのは、すぐれた智者のためである。

 

人間には二つの種類があるが、おしえは二通りあるわけでない。それを見失うかめざめるかに違いがあり、めざめ方に遅い早いの別があるのである。真理を見失ったものは、念仏してそこに生れようとするが、目ざめたものは、自分で心をきよめる。そういうわけで、仏陀は言われ る、『各自の心がきよらかになるとき、すぐに仏陀の国はきよらかになる』と。

 

長官よ、東の国の人も、もし心がきよらかであれば、そのままなんの罪もない。西の国の人だって、心がきよらかでないならば、やっ ぱりあやまちがあるのである。東の国の人は罪をつくれば念仏して西の国に生れようとねがうが、西の国の人が罪をつくったら、念仏してどんな国に生れようとねがうのか。

 

愚かなものは自己自身を完成せず、わが身の中なる浄土に気づかないで、東を望み西をもとめるけれども、目ざめた人はどこにいてもおなじことである。それで、仏陀はいわれる、 『自分のおる場所のままで、いつも安楽浄土である』と。』

(世界古典文学全集36A 禅家語録1 六祖壇経P99-100から引用)

 

つまり究極とは各自の心が清らかになって、自分が、自分のおる場所のままで、いつも安楽浄土になることである(所住の処に随って常に安楽なり)。だが、素質の劣った人向けには仮に西方浄土が究極だと説明しているだけのこと。つまり究極は、西方ではなく自分のいる場所、自性、本来の自己であるということである

 

禅では本来の自己と言えば、生きているうちのことであり、西方浄土が死後を指すこととの相違は気にしている風でもない。

 

七つの身体で言えば、天国極楽は、滅びるものだから、第五身体コーザル体以下のものと考えられる。地獄も第五身体コーザル体以下と考えられる。

なお究極とは第七身体のニルヴァーナ。

 

チベット死者の書では、最初のチカイ・バルド(中有)で、原初の光または第二のクリヤーライトに出会えるチャンスがあり、これに成功すればニルヴァーナに至ることができる。しかしこれを取り逃がすと、地獄と極楽が混在するチョエニ・バルドに入って行く。つまりチベット死者の書では、窮極とはニルヴァーナであり、地獄と極楽は二義的な位置づけなのだ。

またチベット死者の書では、死のプロセスを描写しているが、チベット密教の主要な瞑想修行が、原初の光である母の光明と修行で後天的に得られる子の光明の合体であるから、生存中における大悟覚醒を意識している。つまりチベット死者の書は、生者の修行のためのガイドブックであって、死後の極楽入りを目的とする部分は記載されてはいるが、最優先は、生者のニルヴァーナとなっていると見ることができる。

 

このように、冥想修行の究極の目的は、心の安定でも、気分を転換することでも、天国極楽を目指すことでもなく、神、仏、ニルヴァーナを目指すこと。

 

だからといって、念仏をしてニルヴァーナに到達できないのかと言えば、そんなことはなく、念仏でニルヴァーナに到達した人を妙好人に見ることができる。こういうのを手段と結果の不確実性という。

 

またそういう事象を指して、プロセスもテクニックなぞもないという。

 

『プロセスもテクニックなぞもないことを体現している

あらゆるあなたたちに捧げる』

(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジの巻頭言)

 

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雲門の関の公案

2022-12-26 03:58:46 | 覚醒のアーキテクチャー
◎碧巌録第八則 翠巌夏末示衆

【大意】
翠巌は、夏の冥想集中期間の最終日に衆僧に説法した。
「この夏は諸君のために説法してきた。
私の眉毛は残っているか?」
保福「泥棒野郎は心がやましい。」
長慶「(眉毛が)生えたぞ。」
雲門「関だ。」

※誤った法を説いた者は、罰が当たって、眉が抜け落ちるという。(臨済録示衆にもある)

保福は、そもそも言葉で語れないものを語るから翠巌はびくびくしている、とみる。
長慶は、真理を語ろうが語るまいが、眉毛は生えると見る。
雲門は、関は最後に残る人間臭さと見る。脳という人生ドラマのスクリーンが破壊されても、カルマが残っていれば人生ドラマは、その後も展開する。悟れば自分が死んで却って自分も含む宇宙全体となるが、生還シーンでは誰か知らない他人として生還するわけでなく、もとの自分として生還する不思議。その全体と個のつながりから「関」と名付けるべきか。

眉と眉の間の印堂の上方にアジナー・チャクラがある。本山博は、アジナー・チャクラは、カルマを越えた世界へと上に上がって行く門である(チャクラの覚醒と解脱/本山博P211)というが、これぞ「」である。

【訓読】
翠巌、夏末に衆に示して云く、
「一夏以来、兄弟のために説話す。
看よ、翠巌が眉毛ありや?」。
保福云く、「賊となる人、心虚す」。
長慶云く、「生ぜり」。
雲門云く、「関」。」

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小爆発と大爆発

2022-12-09 07:04:10 | 覚醒のアーキテクチャー
◎小悟何回、大悟何回

小悟は小爆発で、大悟は大爆発。悟りの事を爆発という表現をとるのはチベット密教とOSHOバグワン。
OSHOバグワンは、小爆発は、一瞥、見性、見仏、見神、見道のことだが、それを何回繰り返しても後戻りするので、大爆発でなければいけないと強調する。大爆発とはジャンプアウトであって、小爆発とは連続していない。

禅の十牛図で言えば、第三図の見牛を何回繰り返しても、自分が残っているので、大爆発である第八図の一円相には届かない。第七図忘牛存人と第八図の一円相=人牛倶忘は、図としては並んでいるが連続はしておらず、垂直ジャンプを求められるのだ。

顕在意識と顕在意識の隙間には、牛であるニルヴァーナを見ることができる。注意深い人ならくしゃみの際にも見れるし、意識レベルが低下すれば、想念と想念の間にも見ることができ、ヴィパッサナーなら呼気と吸気の間にも見ることできる。だが、それは小爆発にすぎない。見ている自分を残しているから。

世の中には、小爆発である見仏見神をしただけの人物が、来日したり、私は悟ったとして師匠をやっていたりするのだが、彼らは見ている自分を残しているので、後戻りする可能性がある。

ケン・ウィルバーは、目覚めている時間帯だけに起きる見性から、自己が完全に死んでしまって睡眠中でも窮極を意識する状態に進むのに20年かかった。要するに見牛から、人牛倶忘まで20年かかったのだ。小爆発から大爆発まで20年かかったのだ。

白隠が、小悟何回、大悟何回と言っているが、それは本当に大悟だったのだろうかと思う。
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日常覚醒時での想念停止と睡眠時などでの想念停止の違い-2

2022-12-08 07:45:45 | 覚醒のアーキテクチャー
◎想念の隙間とその深度のまとめ

以上の論議をまとめると、以下のようなものになる。

1.想念と想念の間には隙間がある
想念と想念の間には隙間があるとは、まずは日常の顕在意識での想念と想念の間を想定している。その隙間とは、次のようなものである。
(1)突然肉親を奪われるというような不条理。両親早世。
(2)最愛の人の死やペットロス
(3)突然の災害ですべてを失う
(4)霊能力の開顕、心霊体験
(5)アストラル・トリップ(ヘミシンク)
(6)統合失調症における変化した世界観
(7)ドラッグ
(8)くしゃみ、失神

2.隙間の深浅高低
ところが、想念と想念の隙間とは、顕在意識だけでなく、潜在意識での想念である夢と夢との間にも発生している。想念と想念の間である隙間を感知することは、見仏見神見道であって、それ自体悟りと評価されるものだが、それよりも奥がある。それが眠っている状態での夢と夢の間の隙間とでも言うべきものであって、それこそが本物の仏・神・道の深みなのである。
夢と夢の間の隙間は、深い冥想状態でも覚知できることがあり、これが世界の古伝承、各宗教で言及されている所以でもある。

3.想念の消し方の基本線
想念の消し方についてはチベット密教の「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」に参考となる記述がある。

湧き起こる思考(想念)の消し方は次のように三段階で進化する。(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライ・ラマ14世/春秋社P102)
(1)初めは、湧き起こる思考は、それが知覚されるとすぐに解脱する。旧友に出会ったときのように。
(2)中間は、思考は自ら解脱する。蛇が自らとぐろをほどくように。
(3)最後は、生じる思考は恩恵も害もないまま解脱する。廃墟に泥棒が侵入するように。
※思考の解脱とは、想念の消滅のこと。

そして、この思考の抹消作業に習熟すると、
『長い期間をかけて思考を道に統合することに慣れ親しんだとき、思考は瞑想として生じ、平静と活動の境目はなくなる。その結果、何が生じようとも、あなたは意識に留まり続けるのを害したり乱したりすることがなくなる。』
(上掲書P102から引用)

これにより、隙間である見仏見神見道の意識は、平常活動時にも維持されることとなると考えられる。

4.想念の消し方の冥想手法
想念の消し方の冥想手法としてOSHOバグワンの挙げている実例は以下のようなものである。
(1)息が出て、隙間、息が入る、という三段階を見つめる。これを繰り返す。ヴィパッサナー、呼吸覚醒。
(2)眠ろうとする時に、眠ろうとする自分に醒めている。眠ってもおらず醒めてもいない自分がある。
また眠りから目を覚ましていない状態にも同じチャンスがある。(心理学者のユングもこれをやっていた。)
(3)意識が無意識に変化する瞬間に気づいている。麻薬を投与して、意識をまさに失おうとする瞬間に気づいている。禅の師匠が弟子を殴って縁側の下に蹴り落とす瞬間(正受が白隠を蹴り落とすなど)に気づいている、など。
(参照:未知への扉/第六章 精神的な爆発/OSHOバグワン)

5.想念と隙間との間の移動
OSHOバグワンは、前後の想念から隙間に進むことには連続性がなく、爆発だと表現する。彼の口ぶりでは、爆発とは、「個なる想念・夢」から「隙間である全体に」、連続性なく一足飛びに進むことをいう。そして前後の想念の方が夢であって、隙間の方が現実。現実とは、永遠不壊であるという意味。

この爆発をチベット密教「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」では、patoという気合で表現しているが、実は気合でもpatoというマントラでもない爆発的不連続なのかもしれない。自分が死に自分の宇宙が死ぬ。そして宇宙すべてが自分であるという逆転を爆発と呼ぶ。「自分」にこだわった表現をすれば逆転あるいは倒立となる。タロットの吊るされた男。

6.想念と隙間との間の移動にかかる所要時間
想念と隙間との間の移動にかかる所要時間は数秒である。これを刹那という。
だが、同時ではない。想念と隙間は同時には存在し得ないのだ。『浮き世から何里あらうか山桜』でも見てとれる(葉隠)。

7.モクシャへ
想念は個であり、夢も個の側。そしてこの隙間が世界全体であり、仏、神、道の本体であり、七つの身体で言えば、第六身体アートマンに該当する。これは有の側であり、やがて無の側であるニルヴァーナに進む。
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日常覚醒時での想念停止と睡眠時などでの想念停止の違い-1

2022-12-07 07:24:19 | 覚醒のアーキテクチャー
◎意識の隙間とバックグラウンド

チベット密教の「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」(パトゥル・リンポチェ)において、いくらでも湧き起こる思考、想念の消し方の三段階を見た。

それを読めば、只管打坐では湧き上がる想念を相手にしないという応対を行うことを思い起こす人もいるのだろう。そのやり方でも想念が次第に起こらなくなっていけば、想念と想念の隙間であるバックグラウンドが露出していき、宝慶記に書かれているような不思議な前駆現象が起こった後に身心脱落が起こるのだろう。

想念と想念の隙間であるバックグラウンドとは、チベット密教では、母の光明であり、リクパであり、一義に限定している印象がある。ところが、そのバックグラウンドとは、インドならば熟眠中に夢を見ない状態なのだろう。

アメリカの覚者ケン・ウィルバーは、既に大悟しているのにもかかわらず、熟眠中に夢を見ない状態に至るには何年かかかったことを述べている。

禅の三祖僧さんも以下のように夢という想念も起きない状態を述べている。
『眼(まなこ)もし睡らずんば
諸夢 自ずから除く
心もし異ならずんば
万法一如なり』
(信心銘)

大意:眼が眠らなければ、様々な夢は自ずと見ない。
心がもし変わらず同じならば、すべての存在は一つである。

荘子にも『古の真人は、眠っても夢を見ず、起きていても憂いがなかった。』(大宗師篇)とあり、夢という無意識状態での想念不発生を展望している。

ソーマ・ヨーガのドンファンも自由に到達するとは、永遠に生き続けることを意味することでなく、「見る者」によれば、『人は、普通ならば死の瞬間に失う意識というものを保持することができる』(呪術と夢見/カルロス・カスタネダ/二見書房P206から引用)と述べ、隙間の意識の保持を述べる。

このように並べてみると、隙間のバックグラウンドの意識には日常覚醒時の意識の隙間と、睡眠時あるいは肉体死時での無意識になった状態での意識の隙間と二種類あることがわかる。

最初は日常覚醒時の顕在意識において想念をなくしていくことにより、隙間が露出していく。次に睡眠時などの潜在意識において隙間が露出していくという順序になるのだろう。

禅、あるいは只管打坐では顕在意識も潜在意識も一気に想念を停止させ、クンダリーニ・ヨーガ系では顕在意識でまず想念を停止させ次に潜在意識で想念停止させるという流れになるのだろうと思う。

※想念停止とか想念抹消とか表現しているが、「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」のとおり、想念そのものは消えないことは、留意すべきだろう。想念は色であって空だから。
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悟り後の修行・聖胎長養の狙い-6

2022-12-06 03:40:36 | 覚醒のアーキテクチャー
◎湧き起こる思考をすぐ消すプロセス

湧き起こる思考あるいは想念を、起こったらその都度消すという作業は、実際に始めてみると意外にくせものである。

思考が起こったら、その瞬間に消そうと思う。
いや、「その瞬間に消そうと思う思考」自体も起こった瞬間に消そうと思わねばならない。
いや、「「その瞬間に消そうと思う思考」自体も起こった瞬間に消そうと思う」という思考自体も消そうと思わねばならない。
という具合になかなか容易なことではない。

さて、「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」の作者パトゥル・リンポチェは、これの注釈において、湧き起こる思考の消し方の進化について説明している。

要約すると、見仏の状態にとどまっていれば、思考は生じたまさにその瞬間に消える(解脱する)ということであって、自分が消そうとするのではないということ。

このことが書かれているのは、以下の部分となる。『何からの思考が活動をはじめるとき、あなたは何かを受け入れたり拒んだりすることなく、ただその状態に留まりなさい。そうすれば、思考は生じたまさにその瞬間に解脱し、決して法身の流れからはずれることはない。』
(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライ・ラマ14世/春秋社P101から引用)

このこつを前提に、湧き起こる思考の消し方は次のように三段階で進化する。(上掲書P102)
1.初めは、湧き起こる思考は、それが知覚されるとすぐに解脱する。旧友に出会ったときのように。
2.中間は、思考は自ら解脱する。蛇が自らとぐろをほどくように。
3.最後は、生じる思考は恩恵も害もないまま解脱する。廃墟に泥棒が侵入するように。

そして、この思考の抹消作業に習熟すると、
『長い期間をかけて思考を道に統合することに慣れ親しんだとき、思考は瞑想として生じ、平静と活動の境目はなくなる。その結果、何が生じようとも、あなたは意識に留まり続けるのを害したり乱したりすることがなくなる。』
(上掲書P102から引用)

これにより、見仏の意識は、平常活動時にも維持されることとなり、聖胎長養はここに完成すると考える。

この本は、入門という表題になっているが、それが悪い冗談のように思えるような深遠な内容の本である。
ダライ・ラマにとっては、「このような認識はゾクチェンでは当たり前」みたいな認識なのだろうが、恐れ入るばかりである。


これの引用文全体は以下。
※[]内はダライ・ラマのコメント、【】内はパトゥル・リンポチェの注釈。
『[何らかの対象に対する強い執着や嫌悪を感じているとき、あるいは強い喜びや悲しみを感じているとき、そんなときにでも実践がうまくいくのは、リクパへの直接的な導き入れがなされているからです。このテキストでもいわれているように、どんなときでも「あなたのリクパの力が試されていると知りなさい。常に解脱の土台である智慧を認識し続けることが大切」です。 このときに重要なのは、解脱の土台である智慧ないし、あなた方が直接導かれた自発的に示現するリクパという智慧から逸れないでいる、ということです。]

【また、あなたの実践が、あらゆる思考は「生じたままで解脱している」という要点を欠いた ものであれば、あなたが気づかないうちに心に入り込んでくる、どんな僅かな思考でさえも、輪廻のカルマを積み上げる原因となる。
したがって重要なのは、粗大な思考であれ微細な思考であれ、それらがいっさい痕跡を残さないようにするために、生じてくるあらゆる思考を、それが出現すると同時に解脱している状態のままに保つということである。だから「一瞬のうちに生じる思考であれ、すべてのものは」と述べられた。
どんな思考が湧き起こっても、あなたは、それらの思考が微細で錯乱した混乱状態のなかに増殖してゆくのを許してはならない。また、心が作り上げた何らかの想念に心を傾けてもならない。あなたがすべきことは、ありのままで純粋な想念から決して離れることなく、湧き起こってくる思考の真の本性を認識することである。真の本性は、まるで水面に書かれた文字のように、「生じると同時に解脱している」のであり、後にはどんな痕跡も残さない。このようにして真の本性を保持するのである。それゆえ、「意識にいかなる痕跡も残さない」と述べられた。
このとき、もし湧き起こる思考を浄化することができず、こうした思考を自ら解脱するものとして融解することができなければ、それがどんな僅かなものであっても、迷乱を永続させるカルマの鎖を切断する際の妨げとなるだろう。だからあなたは、思考の真の本性を赤裸々に見て、思考が現れたまさにその瞬間に、以前に示された智慧とそれを同一化させなければならない。 こうした状態に留まるとき、思考は浄化され、消え去り、あとにいかなる痕跡も残さない。この融解こそが要点である。それゆえ、「なぜなら、あなたはそれを、自らが解き放たれている法身であると認識するからである」と述べられた。
水面に文字を書いたり絵を描いたりする場合を例にとってみよう。 水面に書かれた文字は、書かれたまさにその瞬間に消え去ってしまう。つまり文字を書くことと、それが消え去ってしまうのは同時である。これと同じように、思考は生じると同時に解脱する。 そして思考は「おのずから生じ、おのずから解脱する」という、壊れることのない流れとなる。それゆえ、「水面に書かれた文字がたちまち姿を消すように」と述べられた。】

[「水面に書かれた文字」のように思考を体験しつつ、一方では思考の本性であるリクパの状態から外れない。このような状態に留まることができれば、どんな思考が生じようとも、それは持続することはなく、ただ水面に書かれる文字のように生じているにすぎないものとなります。]

【思考の出現を押さえ込むことなく、生じるものを生じるままにする。そうすれば、いかなる 思考が湧き起ころうとも、それは真の本性へと浄化されるための道となる。これこそが、あなたが保持しなければならない実践の本質である。それゆえここに、「出現と解脱は、あるがままに持続する」と述べられた。】

[リクパの体験に留まっている限り、湧き起こるさまざまな思考―――これらは「自発的に生じている」-――はリクパの広がりの中で解脱するのです。もし実践がうまくいけば、どんな思考が生じても、それらはリクパのエネルギーであり、それはリクパと空性が裸のままに統合する体験に栄養を与え、さらにそうした体験を増大させるための食べ物としての役割を果たします。これが、「生じたものはすべて、裸のリクパと空性の食物であり」という言葉の意味です。]

【湧き起こる思考は法身の戯れであると訓練することによって、どんな思考が起きようとも、それらはすべてリクパの力の訓練として生じる。だから、思考がいかに五毒に汚されていても、それが多ければ多いほど、思考が清澄で鋭敏なままに解脱しているリクパの訓練として役立つことになろう。それゆえ、「生じたものはすべて、裸のリクパと空性の食物であり」と述べられた。

あらゆるものに浸透するリクパの真の本性から、その内的な力として、何からの思考が活動をはじめるとき、あなたは何かを受け入れたり拒んだりすることなく、ただその状態に留まりなさい。そうすれば、思考は生じたまさにその瞬間に解脱し、決して法身の流れからはずれることはない。それゆえ、「心の中で動き出したものはすべて、法身という王の内的な力である」と述べられた。】

[思考に支配されることなく、リクパの真の本性を認識し続けることができれば、どんな思考が 生じても、それらはすべて「法身という王」なるリクパのエネルギーとして生じるようになります。ここでは、リクパは「法身という王」と呼ばれ、思考はその王のエネルギー、ないし王の眷属として生じるとされています。またこうした思考は長引くことがありませんから、根本テキストには次に見るように、「痕跡を残すこともなく、本来から清浄である。ああ、なんと喜ばしい ことか!」と書かれているわけです。]

【心の中に生じる思考、また無明によって迷乱した知覚は、リクパの智慧である法身の広がりにおいて清浄である。それゆえ、どんな思考が動き出し、生じようとも、光明が途切れることがないこの広がりにおいては、まさにそれらの本性において空である。それゆえ、「痕跡を残すこともなく、本来から清浄である。ああ、なんと喜ばしいことか!」と述べられた。

長い期間をかけて思考を道に統合することに慣れ親しんだとき、思考は瞑想として生じ、平静と活動の境目はなくなる。その結果、何が生じようとも、あなたは意識に留まり続けるのを害したり乱したりすることがなくなる。 それゆえ、「事物の生じ方は以前と同じかもしれないが」と述べられた。】

[パトゥル・リンポチェは、あなた方がこうした体験をマスターしてしまっても、それまでと同 じように、思考は依然としてさまざまなかたちで現れるかもしれないが、しかし、そこには重大な違い――それらが解脱しているという点――があると述べています。]

【そのとき、リクパのエネルギーとしての思考が、喜びや悲しみ、希望や恐怖として生じると いう点は、凡夫のそれと同じかもしれない。しかし凡夫にとってこうした体験は、彼らがカルマという潜在形成力を蓄積し、執着や激しい怒りの餌食となっている結果として生じた、抑圧的で従属的な、固定した体験にすぎない。それに対し、ゾクチェンの行者にあっては、思考はそれが生じた瞬間に解脱しているのである。

――初めは、湧き起こる思考は、それが知覚されるとすぐに解脱する。旧友に出会ったときのように。
――中間は、思考は自ら解脱する。蛇が自らとぐろをほどくように。
――最後は、生じる思考は恩恵も害もないまま解脱する。廃墟に泥棒が侵入するように。】

[ここでパトゥル・リンポチェは解脱の三つのありようについて語っていますが、このうち三番 目の解脱が最良のものとされています。ここでは、自ら解脱する思考が、廃墟に侵入する泥棒に喩えられています。廃墟には失うものは何もないので、泥棒は何も得ることができません。つまりこれは、「リクパの本性」を保持し、その真の状態を失わないとき、思考はどんな害も及ぼすことはできない、ということを意味しています。
思考は生じるけれども、自ら解脱する。解脱をもたらすさまざまな方法のうち、パトゥル・リンポチェがここで最後に述べている方法は最も甚深なものです。
そして彼は次のように結論を述べます。]

【ゾクチェン行者は、こうした解脱の方法に関する要点を身につけている。それゆえ、「その解脱の仕方に違いがある。これが重要だ」と述べられた。
次のような言葉がある

解脱の方法を知るのではなく
ただ、瞑想の方法だけを知る―
これでは、神々の瞑想と、どう違うのか?

この詩句は、解脱の方法に関する要点を知らず、ただ精神に何らかの平穏をもたらすだけにすぎない瞑想に頼っている人々は、単に高い領域の瞑想状態に迷い込むだけである、ということを意味している。】』
(上掲書P98-103から引用)
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悟り後の修行・聖胎長養の狙い-5

2022-12-05 07:01:50 | 覚醒のアーキテクチャー
◎三つの要点により見仏は安定して不退転

本文。
『見には三つの要点があるが
智慧と慈悲の統合である修には
あらゆる菩薩に共通する行が伴っている
すべての仏陀たちに授けられれば
これより偉大な教えを見つけることはできないだろう

この教えは、リクパの内なる力である法身たる
テルトゥン(埋蔵経発掘者)により
超越的な洞察の深みからもたらされた
それは土や石でできた、どんな宝とも似ていない
なぜなら、それはガラップ・ドルジェの遺言であり
三つの伝達を介して伝承された、智慧の御心の心髄であるから
この教えは、私の真の弟子たちに託され、秘密として封印される それは意味深長にして、我が心髄なる言葉
それは私の心の言葉にして、きわめて重要な要点
この教えを、決して見くびってはならない!
決してあなたから逃してはならない!
これこそが、英邁にして光輝ある王の卓越した教え』
(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライ・ラマ14世/春秋社P69-70から引用)

ガラップ・ドルジェは、ゾクチェン(大いなる完成)の始祖。

改めて三つの要点を挙げる。
第一の要点は、リクパそのものに直接導かれる。
※リクパ:母の光明(原初の光)。
第二の要点は、唯一これだけであると決定する。
※これとは、母の光明(原初の光)と子の光明とが合体した意識。
第三の要点は、湧きおこる思考の解脱をはっきりと確信する。

ダライ・ラマは、三つの要点とは、見仏である『見』から流れ出るもので、見・修・行に共通する要点でもあるとしている。
すなわち、見仏した後に期待される修行のこつとは、この三つの要点のことなのだろう。これにより、見仏は安定して不退転なものとなっていくのだろう。

ダライ・ラマの説明では、ゾクチェンでは、あらゆる存在の土台は、本質、本性、エネルギーの三元だが、本質とは空性(根源的清浄性)、本性とは色(自発的示現性)。ゾクチェンでは、特に本質、本性を強調するとする。
そこで、この文の作者であるパトゥル・リンポチェは、リクパを目撃すれば(見仏)、洞察が起こり、智慧は溢れ出して広がり、空性なる本性は慈悲として立ち昇ると説明している。ここにおいて、智慧は慈悲であるという説明が出てくる。

「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」は、見仏もしていない未悟の修行者向けに書かれている体裁ではあるが、その内容は、見仏・見性・見神者の悟後の修行の内容とはこうしたものではないかと思われるデリケートな内容であると思う。
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悟り後の修行・聖胎長養の狙い-4

2022-12-04 06:59:09 | 覚醒のアーキテクチャー
◎思考が出現するのと同時に思考が消滅している状態に保つ

「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」の第三の要点は、行に関するもの。行とは行為のあり方。一度見仏した人は菩薩であり、菩薩の行為が菩薩行になる。菩薩行とは、善を行い悪を行わないことだが、見仏だけでは行為がふらつくことを前提にしている。

本文。
『そのとき、執着であれ嫌悪であれ、幸福であれ哀しみであれ
一瞬のうちに生じる思考であれ、すべてのものは
意識にいかなる痕跡も残さない
なぜなら、あなたはそれを
自らが解き放たれている法身であると認識するからである
水面に書かれた文字がたちまち姿を消すように
出現と解脱は、あるがままに持続する

生じたものはすべて、裸のリクパと空性の食物であり
心の中で動き出したものはすべて、法身という王の内的な力である
痕跡を残すこともなく、本来から清浄である。ああ、なんと喜ばしいことか!
事物の生じ方は以前と同じかもしれないが
その解脱の仕方に違いがある。これが重要だ
これを無くしては、瞑想はただの迷乱の道であり
これをもってすれば、瞑想などなくとも、法身の状態がある
三番目の要点は「湧き起こる思考の解脱をはっきりと確信する」 ということである』
(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライ・ラマ14世/春秋社P68-69から引用)

思考は湧き起こって解脱すると書いてあるが、これは、思考は湧き起こって消滅するということなのだろうと思う。これによりあらゆる思考は「生じたままで消滅している。」。

この根拠となっているのは、前の思考と後の思考の間(隙間)に、リクパ(法身、アートマンの純粋な意識)が存在している(上掲書P80)が、リクパは途切れることのない不断の智慧にして、すべてが透明にして澄み渡っているもののこと。

そこで思考が現れたなら、それを放置すれば迷乱に陥るため、それを防ぐために思考が現れたなら直ちに純粋意識であるリクパに立ち返って、思考が出現するのと同時に思考が消滅している状態に保つ。これを繰り返していく。これによりいくら思考が現れても、水面に書かれた文字がすぐ消えるように、意識にいかなる痕跡も残さない。

そしていわば思考の集合体がカルマなのだろうから、こうした訓練を繰り返すうちにやがてカルマが消えていくという事は理解できる。これなら自分だけでなく九族昇天す。

菩薩行とは、世間的には、自我を極小化し、利他に生きることだが、その根源は湧きあがり続ける思考にあるとまで見て、それを都度都度抹消するというか、思考は発生すれば同時に消えるものと見ることを繰り返すことが、実は菩薩行という行為なのだろう。

三番目の要点は「湧き起こる思考の解脱をはっきりと確信する」とは、誠に大いなる技であって、聖胎長養とはここに極まるのだろう。これができれば瞑想などいらないと言っているが、思考が発生する都度リクパ純粋意識に立ち返り思考が消滅している状態に保つという技も相当に瞑想だと思う。
そういう技は、修道院や僧院や瞑想専門小屋にいればできるのだろうが、勤労や家事、学業、介護などの平常時でも維持できるかどうかが問題なのであって、それを可能にするのが聖胎長養なのだろうと思う。
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悟り後の修行・聖胎長養の狙い-3

2022-12-03 07:08:59 | 覚醒のアーキテクチャー
◎悟り後によくある問題点と対策

「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」の第二の要点は、瞑想である修に関するもの。

前段で『修はケンツェ・ウーセル、すなわち智慧と慈悲の光明』とあるが、ケンツェ・ウーセルは、ゾクチェンの祖師の一人。

『そして、活発な状態であれ、平静な状態であれ
怒りや執着、幸福や哀しみが生じるときであれ いつ、いかなるときも
あなたがすでに認識したその法身を認識しなさい
既知の母の光明と、子の光明を再統合し
あらゆる言葉による叙述を超えた、意識のもとに休息しなさい
平静と至福、清澄さと思考、これらを繰り返し崩し去りなさい
突如、 智慧と方便の音節をもってうち砕きなさい

三昧と後得に区別はなく
最中であっても、中断していても、そこに区別を設けないまま
つねに、この区別のない状態に留まりなさい
しかし、安定が得られるまでは
実践を、適当な瞑想の実施に分け
多忙や心の散漫を離れて、瞑想を行なうことが重要である
いつ、いかなる場合も
ただ、法身そのものの流れに従い
これ以上のものはないと、はっきりとした確信をもって心を定めなさい
二番目の要点は「唯一、これだけであると決定する」
ということである』
(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライラマ14世/春秋社P67-68から引用)

法身は、第六身体アートマン。既知の母の光明と、子の光明を再統合して、広大無辺にしてすべてを含むアートマンなる法身に憩う。

平静と至福、清澄さと思考ですら再統合の障害となるので、これら平静と至福、清澄さと思考を繰り返し崩すことで、ある日突然智慧と方便の音節パトをもってうち砕くということが起こるのだろう。これで、見仏に習熟し、安定化させる。これも聖胎長養の一要素。

悟り後の修行である聖胎長養におけるよくある課題の一つが『三昧と後得に区別があると見る』ことの克服と、『法身以上のものがある』と思い込むことの克服なのだろう。

後得とは、子の光明のことだから、三昧と後得とはそれぞれ母の光明と子の光明であって、「三昧と後得に区別があると見ない」とは、母の光明と子の光明の統合を疑わないということなのだろう。

二番目の要点は「唯一、これだけであると決定する」のこれとは、法身であるとわかる。

この引用文には、慈悲という言葉は出てこない。だが、ダライ・ラマは、智慧により見(見仏)の本質を理解し、慈悲を伴う止(シャマタ)という手段と結びついた空性に安らぐこと、すなわち智慧と慈悲の光明が瞑想であるというニュアンスの説明を出して来ている。よって『修はケンツェ・ウーセル、すなわち智慧と慈悲の光明』である、と。

さらにダライ・ラマは、見(見仏)の本質を理解すると、それに気づいていない人への慈悲の心が自ずから湧くが、智慧と慈悲との光明とはそういうことなのだろうと補足している。

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悟り後の修行・聖胎長養の狙い-2

2022-12-02 03:29:02 | 覚醒のアーキテクチャー
◎見:「リクパそのものに直接導かれること」

『英邁にして光輝ある王の卓越した教え』はパトゥル・リンポチェ作。

『「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」、およびその注釈

導師に帰依いたします
見はロンチェン・ラプジャム、すなわち無限にして広大な広がり
修はケンツェ・ウーセル、すなわち智慧と慈悲の光明
行はギェルウェー・ニュグ、すなわち菩薩行
こうした実践を行なうことができるものは
まさにこの生において悟りを得ることになろう
それに、たとえそれが叶わなくとも、なんと幸福なことか
なんと喜ばしいことか!
見については、ロンチェン・ラプジャム
三つの言葉は要点を突く
まず、あなたの心を緩やかに解放しなさい
思考を離れ、心が散漫になることも、集中することもないまま
くつろいで、この穏やかな状態に安らいでいる最中に
突如、心をうち砕くように「パト!」と発声しなさい
激しく、力強く、そして不意に。ああ、なんとしたことか!
そこには何もない。 驚きのなかで立ちすくみ
驚きにうち負かされる。 しかし、すべては透明に澄み渡っている
新鮮にして純粋、かつ唐突。それゆえ言説を超えたもの
これこそが、法身の純粋な意識であると知りなさい
第一の要点は「リクパそのものに直接導かれること」である』
(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライラマ14世/春秋社P66-67から引用)

第一の要点は、見に関するもの。見とは、見方。見の極みは、仏を見ること。(見仏未体験の人も含めて想定している)
第二の要点は、修に関するもの。修とは瞑想。
第三の要点は、行に関するもの。行とは行為のあり方。

『見はロンチェン・ラプジャム、すなわち無限にして広大な広がり』のロンチェン・ラプジャムとは、ゾクチェンの祖師の一人。『無限にして広大な広がり』とは、すべてを包含する広大無辺の広がり。

パト!という気合の発声で、リクパという仏性そのものに直接導かれたのだ。見仏が起こったのだ。
ダライ・ラマは、この見仏の理屈がわかっても実際に見仏する人は多くはないというニュアンスの解説を加えている。

パト!という気合は唐突だが、くしゃみなど仏性が露見する裂け目を意図的に作り出すことを狙ったものなのだろう。その裂け目から仏性を目撃するのだ。

古神道の禊に雄詰(をころび)の禊というのがあって、これは気合を鍛錬するもの。

また笹目秀和が崑崙山の500歳の仙人と数日過ごした際に、洞窟外でその仙人が気合を出すのを聞いている。気合も重視されるべきテクニックの一つなのだろう。

西洋ではあまり気合的なものは重視されない。また最近の冥想法で気合を鍛錬するものはまず聞かないが、チベット密教に気合を用いるテクニックがあるのは想定外だった。見仏の呼び水として気合を用いるとはね。

「リクパそのものに直接導かれること」とは、まず見仏することが、最低条件であって、見仏体験が起これば、その体験に導かれることがあるということなのだろう。また見仏体験の後に、自動的に悟り後の修行も始まるものだとも読める。そして見仏を安定させる。
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悟り後の修行・聖胎長養の狙い-1

2022-12-01 05:56:44 | 覚醒のアーキテクチャー
◎英邁にして光輝ある王の卓越した教え

悟り後の修行というのは、禅で言われるのだが、チベット密教の『英邁にして光輝ある王の卓越した教え』という文章を読んで、悟り後の修行・聖胎長養の狙いについて、気づかされるところがあった。

禅の十牛図では、第三図見性(見仏、見神)が最初の悟りにあたり、これから悟後の修行が始まる。第八図の一円相(ニルヴァーナ)で悟り後の修行が完成する。

一方チベット密教では、母の光明(原初の光)を見て後に、子の光明と合体させるという修行を行うのだが、これについて説明したのが、『英邁にして光輝ある王の卓越した教え』。母の光明(原初の光)を見て後に、子の光明と合体させる修行は、悟り後の修行と言えるように思う。

禅の十牛図で言えば、母の光明(原初の光)は牛にあたる。子の光明は牧童にあたる。牧童はやがて牛と合体し、その際に牛だけが残るのでなく、牛は消えて牧童だけが残るが、それは大悟ではない。大悟(一円相)では牧童すらも消える。

見性に該当するのは、チベット密教では母の光明(原初の光)の目撃。これは、肉体死のプロセスでも見られ、くしゃみでも見られ、深い冥想でのトランスでも見られる。目撃した後が悟り後の修行であるが、『英邁にして光輝ある王の卓越した教え』では、その三つの要点を説いている。

第一の要点は、リクパそのものに直接導かれる。
※リクパ:母の光明(原初の光)。
第二の要点は、唯一これだけであると決定する。
※これとは、母の光明(原初の光)と子の光明とが合体した意識。
第三の要点は、湧きおこる思考の解脱をはっきりと確信する。
※湧きおこる思考の解脱:浮かび上がる執着・嫌悪、幸福・哀しみ、思考など湧きおこるすべてのものは、意識にいかなる痕跡も残さず消える(解脱する)。

この三つが、悟り後の修行の心構えなのだろうと気がつかされるところがあった。
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見ている自分と見られている宇宙全体との間の時差

2022-11-29 07:32:19 | 覚醒のアーキテクチャー
◎悟りのメカニズムと悟りの所要時間

クリシュナムルティのエネルギーと時間に関するする言及。この中で、見ている個なる自分と見られている宇宙全体(アートマン、第六身体)との間には時差があると重要な指摘をしている。
見ている個なる自分と見られている宇宙全体(アートマン)は、“普通は”つまり悟る前は同時には存在しないのだ。

『われわれがエネルギーを必要とするのは、自分自身の中で全的革命を成就するためだけではなく、何かを探求し見つめ行動するためである。 夫と妻、人間と人間、社会と社会、国と国、イデオロギーとイデオロギーといったすべての関係に何らかの摩擦が存するかぎり、―――何らかの内的摩擦や何らかの形の外的不一致があるかぎり(それがいかに微細なものであっても)それはエネルギーの浪費をもたらすものである。

観察するものと観察されるものとのあいだに時間的間隙が存在するかぎり、それは摩擦を生み、エネルギーの浪費をもたらすのである。そのエネルギーは、観察するものが観察されるものとなる、時間的間隙がまったく存在しない瞬間に結集される。そして、エネルギーは動機をもたないエネルギーとなり、「私」がそのときには存在しないのであるから、エネルギーはそれ自体の行動の道すじを発見するのである。

今日われわれが生きている混乱を理解するには相当量のエネルギーが必要であり、「私は理解しなければならないのだ」という感情は発見しようとする活力を生みだしてくれる。だが、発見とか探求は時間に関係したことであり、これまで見てきたように、心を束縛する条件を徐々に解いてゆくのは適切な方法ではないのである。時間は適切な方法にはならない。年をとっていようと若かろうと、人生のすべての過程がいまや異なった次元をもつことになったのである。あるがままのわれわれの姿と反対のものを求めるのも適切な方法ではないし、方式や教導者、哲学者または教師によって課された人為的な規律もまた適切な方法ではない。こうしたやり方はすべて、まったく子供っぽいものである。そのことを悟るとき、何世紀にもわたって存続してきたこの過重な条件を直ちに克服し、他の条件を受けつけずに自由を確保し、それによって心をまったく新しい感受性にとんだ、生き生きした、自覚と強さにみちた、力あるものとすることが可能かどうか、ということが問題となるのである。』
(自己変革の方法/クリシュナムーティ/霞ヶ関書房P252-254から引用)

この引用文の主旨は、何らかの冥想手法で、第六身体アートマンと個なる我との合体を果たせば、もともとあるエネルギーは、それ自体の行動の道すじどおり動き、天意、神意を履み、悪事をせず善行ばかりする(諸悪莫作衆善奉行)という覚者としての生き方に変わるということであると思う。
クリシュナムルティなので、何らかの冥想手法とは只管打坐を指す。

むしろ注目すべきなのは、見ている個なる自分と見られている宇宙全体(アートマン、第六身体)とのあいだには時差があるという点。さらにこの時差を埋めるには、『そのエネルギーは、観察するものが観察されるものとなる、時間的間隙がまったく存在しない瞬間に結集される。』とあり、相当量のエネルギーが必要とされるとしている点。

そのために、ほとんどのまともな宗教では禁欲してオージャスなるエネルギーを蓄積して、見ている自分とみられている宇宙との合体を目ざす。

見ている自分とみられている宇宙には、時差がある。この時差のことを仏教では刹那と名付け、偶発的な世界の隙間とも呼び、あくびやくしゃみでも感得できるチャンスがあるなどと説明している。

またこの隙間の往復にかかる時間は、おそらく数秒であることをいくつかの伝承や文献が示している。それが、悟りの所要時間。

この秘密を解明すれば、文明は大きく進展すると思う。多くの人が次々に自分で解明する。

2022年11月27日支那では、学生によるうねりが始まった。
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解脱:輪廻転生からの解放とは何か

2022-11-04 19:16:58 | 覚醒のアーキテクチャー

◎OSHOバグワンの回答

 

OSHOバグワンが、輪廻転生からの解放について回答している。

『では次はこの質問だ。 「生死流転からの解放とは何を意味しているのですか?」

 

生死流転からの解放とは、あなたが二度とここに生まれてこないということではない。それは、もはや "来ること"も"行くこと"もないということだ-どこにも、どの次元にも。そのとき、あなたはあなたのいるところに根を下ろしている。

 

これが起こった日、周囲から喜びの泉がにわかに噴き出す。想像上の場にいては、喜びを体験することはできない。自分がほんとうにいる場所にいてはじめて、喜びを見出すことができるのだ。本来の自分であってはじめて、幸福になれるのだ。自分でないものでいて幸せになることなどできはしない。つまり、輪廻のなかをとおってゆくということは、幻想の場をさまよってゆくということだ。われわれは一度も行ったことのない場所で道に迷っている。間違っても行くはずのないどこかをさまよっている。

 

いっぽう実際にいる場所にあっては、その場を見失っている。すなわち、生と死からの自由とは、自分のいるところに帰ってくること、わが家にもどってくることだ。

 

神への参入とは、まさしく真の自分になるということ。ある日どこかにたたずんでいる神に出くわし、あなたは彼に挨拶をして、「やあ、ありがたい。やっと会えましたね!」というのとはわけが違う。そのような神はいない。もしこういう神に出会ったとしたら、それはまったくの催眠だ。そのような神はあなたの創作だ。そして神に対面するということは、神を失うことと同じくらい欺瞞なのだ。こんな形であなたが神を見出すことはない。

 

われわれの言語はしばしば誤解をまねく。「神を見出す」とか、「神にいたる」とかいった表現は、人間が面と向かって神を見ることができるかのような印象を与える。このような言葉はひどく間違ったものだ。それを耳にして人は、誰かが神としての本性をあらわすのだろうとか、自分は神と目と目を見交わすだろうとか、神を抱擁できるだろうといった思いを持つ。これはすべて間違っている。もしそんな神に出くわしてしまったなら、気をつけなさい!そんな神はあなたの心(マインド)の産物以外の何ものでもない。――それは催眠だ。

 

われわれはあらゆる催眠から抜け出さねばならない。そして眠りなき、催眠なき地点へと、―完全に目覚め、みずからの存在に根ざしている地点へと、歩みをもどしてゆかねばならない。そのときの体験は生の統合の体験となるだろう。〈一〉なるもの、不可分なるものとしての存在の体験となるだろう。この体験の名、それが神なのだ。』

(死・終わりなき生   オショー・ラジニーシ/著  講談社P193-194から引用)

 

この文は、本当のことをあまりに率直に書いているものだから、既成宗教のいろいろな表現を文字通り信じ込んでいる人にはショッキングだ。それほどまでに強烈な内容なので、これではアメリカで毒を飲まされるかもしれないと思う。

 

だが、前向きに読み取ろうとする人にとっては、第六身体、一なるものが神であるとわかることだろう。

モーゼの燃える芝のことである。

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刹那時間で悟る

2022-10-24 07:44:55 | 覚醒のアーキテクチャー

◎Quick and dead

 

OSHOバグワンは、くしゃみをするような短時間でも人は悟りに出会っているとする。

最近、『今ここ』が流行していて、時間などない、現在過去未来は一体でこの世は一枚の動画を見ているというような考え方も流行っている。

 

だが、落ち着いて考えてみれば、悟った際に、こういう言い方は適当かどうかわからないが、究極と肉体の往復に数秒を要していることにちょっとしたひっかかりを感じるものだ。つまりくしゃみをする世界と『今ここ』の世界の往復は理屈の上では時間がかからないと想像されるのだが、実は時間がかかっている。

 

この数秒のことを刹那とも言うが、実は百年に一度天女が巨石を何回も撫でてすり減らす劫とも言うのではないか。

 

コリン・ウィルソンが参考になることを書いている。

『頭蓋骨の中の「超高速世界」

 

「だが、心の動きが普通の時間の流れとはまったく離れたところで働いていると思われる場合がある。それはかなり定期的に起こり、漠然としたものであるが、われわれの生活の中で重要な部分を占めている。

 

この不思議な事象をジーグムント・フロイトは、「無意識下の精神作用は非時間的なものである。時間に規制されることはなく、時間の経過によって修正されることもない。つまり、時間とはまったく何の関係ももっていない」と言っている。言うまでもなく、これは夢のことで ある。

 

夢の内容で思い出すことができるのは、普通一パーセントそこそこであろうと思われる。夢の中の時間は、死者が自分の葬式に出席していたり、原因より結果が先になっていたり、一人の人間が二つの場所に同時に現われたりして、まったく無秩序になっていることがしばしばあるばかりか、丸一日とか一週間とかいう時間をほんの一瞬ありありとした現実に凝縮するかのように思われる。

 

被験者に、臭化アセチルコリンのような薬品を与えて数秒間無意識状態にすると、目ざめた時に長い夢をありありと覚えている。では、われわれは夢の中で、意識のある肉体とともにあった時間から遊離し、恐ろしく速度を速めた時間を経験するのだろうか?

 

同じような現象が、突然避けがたい死に直面した人間の心の中にも起こり得る。「死にかけた人の目の前にその人の全人生がぱっと浮かんだ」という話をよく耳にする。ウソではないことが証明されている例もいくつかあるようだ。

 

スイスの地質学者アルバート・ハイムが登山中に落下した時のことを語った次のような話はその典型的なものであろう。

「落ちていく間に、思い出が洪水のように私を襲った。その五秒か一〇秒の間に思ったり、感じたりしたことは、その何十倍の時間をかけても語りつくせない。私の死亡通知が愛するものたちに届くのをみて、私は心の中で彼らを慰めた。それから、まるで遠い舞台で、私の過去の人生すべてが次々とはてしなく演じられているのをみているような気がした」。 「これは、頭蓋骨の中に収められた「超高速世界」のようなものの一例なのだろうか。』

(時間の発見/コリン・ウィルソン/三笠書房P129-130から引用)

 

この文章では、フロイトは夢と言っているが、潜在意識あるいは霊界では時間の感覚は同じようなことになる。恐ろしく速度を速めた時間を認識できるということは、刹那のような極超短時間も正確に認識できるということ。

 

つまり平時もさることながら、天変地異や戦争などで、突然避けがたい死に直面するような、本気の意識が露出した時に、極超短時間をも認識できる状態になる。たまねぎの皮を一気にむく。恐怖の恵み。

 

さらに認識された極超短時間には、時間のない現在過去未来の混合した「今ここ」しかないのだろう。だが、刹那である極超短時間と「今ここ」の移動には数秒かかるらしい。

 

この秘密を説明したものはあるのだろうか。

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真の幸福とは何か-6

2022-10-20 06:27:22 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ニルヴァーナと幸福感

 

ダンテス・ダイジは、人間が悟りを得るルートは、禅の無字や隻手などの公案で入る知のルート、情から入る「弥陀の本願に救い摂らせ参らせる」などという念仏などの情のルートがあるという説明をしているシーンがある。

 

人間が感じる幸福感というもので比較すると、情動の行動に与える影響は圧倒的であるから、情のルートが知のルートよりもまさる。だが、ニルヴァーナでの幸福感は、そうしたものの何兆倍とでもいうべきものだと、未体験者にとっては非常に説得力の薄い話を敢えてしている。

 

このニルヴァーナでの幸福感は、まことに名状しがたく、筆舌尽くしがたいものであることをアヴィラのテレサも述べているので、そういうものだが、追体験しない限り、是認しがたいものであるとわきまえるしかないのだろうと思う。

 

翻って、快感、あるいは幸福感のためにニルヴァーナを求めるのは、体験至上主義であって危ういところがある。なぜならばニルヴァーナは、体験ではない体験であるから。修行者の立場で言えば至高の体験を求めて道に入るが、最終段階では結局体験する者がいなくなるからである。

 

シャーマニズム、神下ろしで言えば、主神が降臨したとしても、シャーマン自身は、その時何が起こったかはわからないままであるという現象があることは参考にすべきだろうと思う。彼ら彼女らは、最後まで見ている自分を棄てられなかったと言われる。

 

出口ナオは、主神を降ろせる優秀なシャーマンだったが、何が起こったかをわかるようになったのは晩年近くだった。

 

その快感、幸福感は、言葉ではとても表現できるものではないが、それを体験した者からは、その感動、そのバイブレーションが伝わってくるものだ。

 

そしてニルヴァーナ体験者は、見たり感じたりしただけの人(禅の十牛図でいえば第三図)と神人合一した人の二種に分かれるが、見たり感じたりしただけの人は、まだ見ている自分が残っている。

 

冥想修行者の立ち位置としては、ニルヴァーナには、幸福感、絶頂感というものが伴うが、体験とは言えない体験であるがゆえに、そこだけを求めるわけには参りますまい。

 

また世間的には、無駄なもの、効果のないもの、メリットのないものの一つが、ニルヴァーナ、神、仏なのである。

世界宗教にあっては、それでは信者が集まらないので、うまいことを言って信者を集めるものなのだが、真相を見る目のある人は少ないが、いるものなのだろうと思う。

 

真の幸福とは、社会的な自己実現ではなく、感覚的満足感でもなく、人が神と共に生きることにまちがいないと思う。

 

ダンテス・ダイジは、布教した約10年の最初のうちは、ニルヴァーナを目指さなくてもよく各人が各人らしいライフ・スタイルを発見することでも十分だということを主張している時期もあった。だがやがて、そんな悠長なことは言っていられないと気づき全員がニルヴァーナを求めるべきだという主張に変わった。

 

さて、今まさに世界は一斉に全面核戦争の準備を始めた。今日も冥想を。

 

それを伺える相の数々。世界は一斉に熱核戦争に向かっていると見える。

○ CIA: Central Intelligence Agencyの公式instagram(10月14日)に東京はエリアに38百万人以上が集積する大都市だという思わせぶりかつ意図が怪しい記事が出た。

○ロシアはウクライナで核を使う可能性を言及しているが、2022年10月後半NATO14か国はSteadfast Noon作戦という核即応演習を実施する。米国から核爆弾シェアを受けている国が数か国あってそれが演習に参加するらしい。

○英国トラス首相は、2022年8月24日まだ外相だったが、Times Radioのイベントで「地球滅亡を引き起こす可能性があっても核兵器による報復を命じる覚悟がある」と示唆した。

○2022年10月16日、習近平国家主席は共産党大会冒頭の演説で、台湾を統一するためには武力行使も排除しないと表明した。

○アメリカのアントニー・ブリンケン国務長官は、同17日、中国が以前の予想より「はるかに速いスケジュールで」台湾の統一を目指していると述べた。

ブリンケン氏は、中国政府が現状をもう受け入れられないと判断したとした。

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