◎道元の正法眼蔵の現成公案から
道元の正法眼蔵の現成公案から。
【原文】
『仏道をならふといふは、自己をならふ也
自己をならふといふは、自己をわするるな り。自己をわするるといふは、万法に証せ らるるなり。万法に証せらるるといふは、
自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹(ごしゃく)の休歇(きゅうけつ)なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。』
【大意】
『仏道修行するというのは自己をならうことである。自己をならうというのは、自己を忘れることである。そういう自己を忘れるということは、あらゆる存在から実証されることである。あらゆる存在から実証されるということは、自己の身心および他人の身心が脱落させられるということである。
その悟りの痕跡は、まったく休みきっているものであり、まったく休みきっている悟りの痕跡を永久にそのままにさせるのである。』
この中で、『あらゆる存在から実証されるということは、自己の身心および他人の身心が脱落させられるということである。』において疑問なのは、『自己の身心および他人の身心が脱落させられる』という部分。これは、身心脱落の結果、いきなり“なにもかもなし”であるニルヴァーナに至ることを言っているのだろうと思う。第七身体ニルヴァーナに到達すれば、世界全体・あらゆる存在である第六身体アートマンは認識可能なのだろう。
よってそのことを『あらゆる存在から実証される』と表現しているように思う。
また『自己の身心および他人の身心が脱落させられる』とは、自己を忘れることでもある。
『悟りの痕跡は、まったく休みきっている』とは、悟りが時間のない世界にあるから永久のものであり、それを『休みきっている』と称しているのだろう。
道元にとって、悟りは体験とは言えない体験だが、その感動は永久に消えない痕跡として、思い出として残っているのだろう。