アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

アリマタヤのヨセフ

2023-05-20 07:05:25 | キリスト者の秘蹟neo

◎金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりむづかしいが

(2022-09-02)

 

イエスの磔刑前夜、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。そうした中で、イエスの弟子の中に逃げずに済んで、かつ磔刑後にピラトとイエスの遺体の引き渡し交渉を行いえた人物がいる。それが、アリマタヤのヨセフという、善良で正しく、身分の高い議員で、金持ち。ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となった。彼は誰も葬られたことのない新たな墓を用意し、そこにイエスの遺体を運び入れた。

 

古代でも近世でも死刑において、遺体の埋葬場所、埋葬方法、墓を作ることを認めるかどうかまで、しばしば刑罰の一部として規定されることがある。

 

イエスの側から見れば、アリマタヤのヨセフは、弟子たちが彼の復活を「見て信じる」舞台をセッティングした人物である。一方ユダヤ人の側から見れば、ユダヤ人はイエスを刑死に追い込んだとしてディアスポラ(世界流浪)になったが、その当のユダヤ人であるアリマタヤのヨセフがイエスの埋葬を主導した功徳がその過酷な運命をいささか緩和したと見れるようにも思う。

 

さてその岩の洞窟の墓では、遺体が既になくて、イエスの遺体を包んだ亜麻布だけが残っていた。これはチベット密教などで屍解をよく知っている者にとっては、遺体は空中に煙のように分解し、跡に服や毛髪だけが残るという屍解の定番の進行に似ていると思い当たる。

 

そういう目で見れば、イエスは死後三日間で屍解を行ったのではないかと思われる。そうであれば、イエスは、クンダリーニ・ヨーギだったのだろう。槍を刺され釘を打たれ体液が相当に流出した中での屍解は相当に困難だったのではないか。

 

イエスの悲劇については、洗礼のヨハネ、愛人であるマグダラのマリア、密告したイスカリオテのユダが全貌を承知していたとみているが、最後の最後のイエスの屍解の場所まで提供したアリマタヤのヨセフも全貌を知る者のひとりだったのではないか。

 

そこで西洋では、アリマタヤのヨセフは、イエスから流れ出た水と血を聖杯に受け、フランス、スペイン、イギリス、ポルトガルで布教したという伝説(聖杯伝説)までできたのは、アリマタヤのヨセフの事績の重さをわかった人物が少なくなかったからだろう。

 

イエスに「金持ちが天国に入るのは、駱駝(らくだ)が針の穴を通るよりむづかしい。」などと批判されても、アリマタヤのヨセフは為すべきことをしたのである。

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救われるリッチな者は誰か

2023-05-20 06:50:28 | イエスと救世主たち

◎アレクサンドリアのクレメンス

 

スーパーリッチであることが、尊敬や賞賛を呼ぶ微妙な時代。政府にとっては、スーパーリッチな者は必ずしも多額納税者ではないので、昔と違ってスーパーリッチだから歓迎するということはない。

 

しかし、不思議なことにキリスト教の支配する西洋世界では過去二千年、リッチな者は天国に入りにくいと言われてきた。

 

アレクサンドリアのクレメンスは、2世紀の教父の一人。彼もリッチな者は天国に入りにくいとする。

 

ただし、彼の言う悟りとは、永遠の生命を得ること。イエスが持ち物をすべて売り払えと言っているのは、外形的な財産をすべて放棄せよといっているのではなく、霊魂が情念から解放されることを言っている。リッチになると倨傲、虚偽、虚栄、他の人を軽蔑することに陥りやすいのだ。

 

また以下のマルコによる福音書は、リッチな者は天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しいと言っている有名な部分だが、字義どおりなら、人間の求める究極はあの世で天国に入ることだが、アレクサンドリアのクレメンスは、そうではなく、神を知り、永遠の生命をこの世で得ること。つまり悟ることが究極とする。

 

マルコによる福音書10-17-31による「富める若者の物語」

『(4)「イエスが旅に出ようとすると、

ある人が走り寄って、跪いて尋ねた。〈善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか〉。

イエスは言った。〈なぜ私を「善い」というのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ〉。

 

(6)すると彼は〈先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました〉と言った。

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。 〈あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい〉。

 

(7)その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産をもっていたからである。

 

(8)イエスは弟子たちを見回して言われた。 〈財産のある者が神の国に入るのは、なんとむずかしいことか〉。

 

(9)弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスはさらに言葉を続けられた。〈子たちよ、神の国に入るのは、なんとむずかしいことか。金持ちが神の国に入るよりも、駱駝が針の穴を通るほうがまだやさしい〉。

 

弟子たちはますます驚いて、〈それでは、誰が救われるのだろうか〉と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。〈人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。

 

(10)ペトロがイエスに、〈この通り、私たちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました〉と言い始めた。

イエスは言われた。〈はっきり言っておく。私のためまた福音のために、家、両親、兄弟、財産を捨てた者は誰でも、それを百倍受けることであろう。今この世で迫害を受けながら、畑、財産、家、兄弟を有したところで何になろうか。来たるべき世での生命は永遠のものである。しかし先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になるであろう〉」〔マコ一〇:一七:三一〕。』

(中世思想原典集成  1  上智大学中世思想研究所/編訳・監修/平凡社P424-425から引用)

 

山上の垂訓で、「幸いなるかな心の貧しき者、天国は彼らの者である。」の心の貧しき者とは、「霊魂が情念から解放された人」のことであって、OSHOバグワンの言い方では、マインド(頭)がない人、ノーマインドの人のことである。

 

誠に21世紀になっても、心の貧しいということは、人間の生き方の重要なテーマではある。

 

なおイエスのグループには、アリマタヤのヨセフというリッチな支援者もいたことも忘れられない。

 

また富、財産は、それ自体白でも黒でもないが、白として扱うことが極大化したゆえの反作用はある。

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