◎となふれば仏もわれもなかりけり
兵庫の宝満寺で一遍は、紀州由良の法燈国師に参禅していた。国師が、「念仏して覚醒」を公案として提示されたので、一遍は、次のように詠んだ。
となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして
法燈国師は、この歌を聞いて「未だ徹していない。」とおっしゃったので、一遍は、また詠じ直したところ、国師は、その歌を覚醒と認めて、手巾・薬籠を与え印可された。
となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏
世界の宗教統一から宗教忘詮という流れがあるように一見思われるのだが、仏教は末法時代で法滅尽経というものまである。世界の宗教統一とは、一宗一派が他の組織宗教を壊滅せしめて世界制覇するという修羅の道筋のことではあるまい。カルトは別として、真正の神仏を最終目標としている宗教ならば、宗派の如何を問わず、もともと世界の宗教に違いはなく、統一されているのだと見るのではないか。
プロセスとテクニックは異なっても、あらゆるまともな宗教はニルヴァーナを目指している。
そこでことさらに、「世界の宗教統一から宗教忘詮」ということを考えて見ると、宗教統一は既に成っているのだから、「宗教忘詮」にどうやって進むかということだけが問題となる。
「宗教忘詮」とは、「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏」のこと。南無阿弥陀仏の声を聞いている自分が残っていては印可されなかった経緯を見れば、それを忘れなければならないとわかる。
それが、全組織宗教の滅亡なのか、個人の中で「宗教を忘れ去る」ことが起こるのかは知らないが、そういうことが起きねば、次のユートピアがないだろうということはわかる。