アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

太乙金華宗旨の光について-5

2025-02-06 03:43:40 | 覚醒のアーキテクチャー

いっさいの思考が消えることを思考の集中という

 

このあたりから光の話が出て来る。

 

ポイントは、以下。

  1. 中心に向かって動いてゆけば、思考は消えはじめ、その中核においては、いっさいの思考が消え、ただ覚醒のみがある。これを思考の集中という。
  2. 生命と空虚さは内なる神が持つ二つの顔だ。それをただ見守りつづけていたら、人は、完全無欠な顔と無の顔を持つ神になる。

 

開眼は光の外向、閉眼は光の内向とあるが、ここでは、閉眼を勧めている。だが、半眼の冥想もある(ヴィギャンバイラブタントラとは別のことを言っている)。

※『光があなた自身の実存に降り注ぐ』とは、中心太陽への突入だろうか。

※一寸四方:人間一人が周天すれば、天地万物すべてのものが、自分一人とともに周天する。そしてこれは、一寸四方のところで生起する。

(一寸四方に入る大きさの身体は、コーザル体だけである。コーザル体は、小さな種なしぶどうの大きさと言われ、生きている時は、心臓内部の位置にある(魂の科学/スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ))

さらに、太乙金華宗旨の第二章では、人が胎内に入る時、目と目の間の方寸に元神があり、下方の心臓?に識神があるとする。

目と目の間の方寸(一寸四方)は、経穴マップや人相学では印堂と呼ばれ最重要とされる。

眉間(印堂)と心臓は区別され、ここではまず印堂の話しか出ていない。

チベットでは、器具で眉間の奥に穴を開ける話がある。でも天光は、肉体レベルの話ではない。

また一寸四方のことは、神秘生理学の記述に時々出て来るが、ダンテス・ダイジは言及なく、謎である。

 

『そして光を巡らせる瞑想は、ひとえに逆流の動きにかかっている。それにより思考の集中が起こる。天上のこころは太陽と月のあいだに位置している。

 

人間は中心であると同時に周辺でもある。周辺に向かって動いてゆくと、たくさんの思考が湧き起こってくる。周辺は”多"から成っている。中心はひとつだ。中心に向かって動いてゆけば、思考は消えはじめる。まさにその中核においては、いっさいの思考が消え、ただ覚醒のみがある。この秘法の書が 述べているのはそのことだ――それにより思考の集中が起こる。

 

光は内側に向かって動いてゆかなければならない。

樹を見ているとき、あなたの目は、その光を樹に向かって放出している――光は外に向かって動いている。目を閉じると、光は内側に向きを変えはじめる――メタノイア、悔い改め、回帰が起こる。そして光があなた自身の実存に降り注ぐとき、自己認識、自己知が生まれる。その自己知はあなたに自由をもたらす――いっさいのしがらみからの自由、いっさいの執着からの自由、死からの自由、肉体からの自由を。それはあなたの内部に魂をつくりだす。

 

グルジェフがよく弟子たちに言っていたのはそのことだ。あなたがたは魂をもって生まれてきたのではない、あなたは"メタノイア"によってそれをつくりださねばならない、と。

 

 

「黄庭経』にはこう記されている。「一尺四方の家の一寸四方の場所で、生命を統制することができる」

 

あなたの肉体のこの小さな寺院のなかで、生命を統制することができる。

 

一寸四方の只なかには、光輝く者が住んでいる。碧玉の都の紫の広間には、最も空虚で生命力のある神が住んでいる。

 

いかにも矛盾した言明だ――空虚さと生命。生命は男性的であり、空虚さは女性的だ。

生命と空虚さ――両者は内なる神がもつ二つの顔だ。そのどちらかを選り好みしなければ、まったく選ぶことをせず、ただ見守りつづけていたら、人は一方には死の顔を、もう一方には生の顔をもつ神に――一方には完全無欠な顔を、もう一方には無の顔をもつ神になる。

 

ゆえに、光が巡ると、全身の気が玉座の前に現れる。

 

そして光が内側に向かって動き、あなたの実存のなかを巡るとき・・・・・・というのも、出口が残されていないからだ。瞑想とはまさにそれだ。仏陀が菩提樹のもとでやっていたのはまさにそれだ。

あなたは静かに坐り、すべての扉を閉める。すると光が内側で巡る。そのときあなたは肉体と肉体のなかにあるすべてのものに、そのすべての神秘にはじめて気づくようになる。この小さな肉体のなかに宇宙のいっさいの神秘が含まれている。肉体は小宇宙だ。

 

ゆえに、光が巡ると、全身の気が玉座の前に現れる。それはあたかも聖王が都を建設し、支配の基本原則を定めると、すべての国が貢物を携えて来るようなものである。あるいは主人が寡黙で穏やかであれば、男女の召使が進んで主人の命令に従い、各自の仕事につくようなものである。

 

 

そしてこの光がそこにあり、あなたの内側を巡っているとき、肉体は召使になる。五感は従順な召使になる。それらをコントロールしようとする必要はない――それらはひとりでにあなたに従う。

 

これがタオの美しさだ。けっして何も強要することがなく、品性を磨きたいという欲求もない。タオは言う。ただ光に満ちあふれればいい、そうすれば他のことはすべてついてくる、と。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP35-38から引用)

 

この後、本文は、『ゆえに、汝の為すべきことは光を巡らせることのみ』と続く。

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