◎只管打坐あるいは身心脱落の謎
ダンテス・ダイジの言行の中に、クンダリーニ・ヨーガと並んで、只管打坐こそ最高の冥想メソッドの一つだというものがある。
これは、只管打坐で身心脱落へと進むメソッドが、究極であるニルヴァーナに到達できる単純にして優れた冥想手法であることを言っている。
ところがいわゆる禅的悟りと言った場合、その悟りは、どんな坐法で起こるのかという点で只管打坐に関しては、怪しい議論となってしまう。
中国で禅は、看話禅と黙照禅に分かれ、おおまかに言えば看話禅が臨済禅の流れとなり黙照禅が曹洞禅の流れとなる。
ところが禅は達磨以来しばらくはそもそも看話禅と黙照禅に分かれていなかった。
また達磨、二祖慧可の頃は、多分公案はなくて、ただ坐るだけだったのではないか。
臨済宗では、数息観、公案、マントラ禅(無、隻手)などを行い、只管打坐はなかったことになっている。ところが坐法(ポスチャー)は、意識状態に対応して発生するの法則があり、臨済宗の修行者でもとある意識状態に立ち至れば、只管打坐から身心脱落は起こり得るのだろうと思う。
臨済系は、大応、大燈、関山、至道無難、正受、白隠と覚者がずらりと並び、ニルヴァーナ(モクシャ)に到達したことは紛れもない。曹洞宗系は、道元を一つのピークとしている。
禅的悟りだからと言って、臨済系の覚者たちが、最終シーン直前では、只管打坐の姿勢になり身心脱落したかといえば、そこまでは言えない。だからと言って、曹洞系の祖師たちが(只管打坐により)全員身心脱落したかと言えば、それもまた言えない。
冥想には、あらゆる可能性がある。そして坐らなくとも可能性があるかに見える。事上磨錬というのは、毎日仕事を一生懸命かつ精密にやることで悟る方法である。禅の六祖慧能は坐らず毎日米つきばかりやっていたが、それでも悟ったのは、その一例とも言える。
そのように人は、さまざまな冥想法で悟り得るが、坐る冥想でない場合もあり得ることを、冥想のあらゆる可能性という。
一方でダンテス・ダイジは、公案禅のジュニャーナ・ヨーガとしての可能性は認めている。また、それに併用される場合があるマントラ禅(隻手・無)などの可能性も認めている。特筆すべきは、身心脱落において、七つの身体を急速に突破しているとつぶやいていること。
七つの身体を突破するとは、クンダリーニ・ヨーガのプロセスであるが、身心脱落においては、そのプロセスがあまりに早すぎて途中の段階に気がつきにくいということも言っている。というのは、禅的悟りを開いた者が、釈迦と背比べしたら、釈迦の足は雲の遥か下の地獄の底まで届いているのに、自分のは短くて釈迦の背丈の上の方で足をばたばたさせているという話も出している。
これは、ダンテス・ダイジは、老子の悟境は禅的悟りだと見ており、急速に起こったがゆえに、高さは十分だが深さは今一歩であると見ていることを言っている。
この辺は、論証も追実験も容易ではないが、いつかやってくれる人も出てくるのではないかと思う。
釈迦臨終時に、四禅から出て最後涅槃に入ったなどというのは、おそらく事後にそれを見に行った人物が確認したからこそ言えることだと思う。そのように只管打坐あるいは身心脱落にまつわる謎を解明してくれる人が出ることを期待したい。