◎求道と逆方向の物質に非ざる肉体操作という逆説
そもそも広義のクンダリーニ・ヨーガの極みとは、人が神になること。一(個)が全となり、全が一となる神人合一。よって、屍解のような一見一対一だけの流れは窮極とは関係がないように見える。
ところが、パラマンサ・ヨガナンダは、大聖クリシュナのバガヴァッド・ギータの中の以下の言葉を引いてクンダリーニ・ヨーガ(クリヤ・ヨーガ)の本質と見ているようだ。
『至高の目標を求めつつ、視線を内なる眉間の一点に固定し、鼻孔と肺の内を流れるプラーナとアパーナの均衡した交互の流れを制止することによって外界の刺激を断ち、感覚と理知の働きを制し、我欲と恐怖と怒りを追放せる瞑想の熟練者(ムニ)は、永遠の解脱を得るに至る』
(あるヨーギの自叙伝/パラマンサ・ヨガナンダP244から引用)
※広義のクンダリーニ・ヨーガ:
クリヤ・ヨーガ、古神道、道教、日本密教、チベット密教、ユダヤ教、西洋錬金術など。
※プラーナ:生命力(気)
※アパーナ:体内の老廃物を排除する機能を営む生命力(気)
これは、プラーナとアパーナという気のコントロールで生命力を統御し解脱に至るとし、気のコントロールがニルヴァーナに至る中心テクニックであることを明かしている。最終目標は、ニルヴァーナへの到達だが、それが練達のクンダリーニ・ヨーガ行者が見せる臨終が屍解であることどのような関係があるのだろうか。
これは、尸解であることを周辺に知らせているのだから、明らかに後進の求道者に見せている。そしてその意図は、人間は肉体という物質すら意のままに操ることさえできるということを示すということではないか。
物質を意のままに操れるということを知れば、人は自分のために悪用しようとすぐ考えがちなものだから、聖者たちは、尸解のタイミングを臨終に置くことで、そうした邪な願望を未然に阻止する。
人は髪の毛一本白くも黒くもできない。さらに聖者たちはそうした超能力を駆使する時は、天意天命の命ずるままの場合のみであり、我欲に随って超能力を用いることはない。
さらに馬には鞭を見せただけで走る馬もいれば、実際に鞭で叩かれなければ走らない馬もいるように、人にとっても究極を直感するには、百聞は一見に如かずということがある。そこで、ことさらに尸解を見せることが、相当に冥想修行が進んだ者にとっても、そういうものを信じない者にとっても必要だと聖者たちは考えたのだろうと思う。
密教家、超能力者は、何のために霊能力、超能力を見せるかといえば、自分の欲得のためでなく、他の人間を利するためという千古不易の基本原則がある。
他の人間を利するということであれば、肉体や物質上の現実操作は避けて通れない部分がある。
悟りに向かう修行において、一般に肉体や物質上の願望実現は二の次に置かれるが、密教者あるいは、広義のクンダリーニ・ヨーギがその人生の最後において尸解を見せるのは、逆に肉体や物質も重要であることを示しているように思う。肉体がありながらの大悟覚醒というのも、生身の人間にとってはのっぴきならない現実なのだ。
人は物質・肉体でないニルヴァーナを志向するものだが、死に際して肉体を縮小したり消したりするという尸解という肉体操作を逆説的に行うことを、その道のメルクマールとして置いていることは不思議なことである。
なおパラマンサ・ヨガナンダは“あるヨーギの自叙伝”で、虚空からものを取り出すアフザル・カーンなど超能力悪用の事例も上げ、悟りと関係ない超能力が危険なものであることも説明を忘れていない。
人は超能力と言えば自分と関係のないことだと思う人も多いのだろうが、他人の視線を感じるというのも立派な超能力だし、ある願望を立てて努力し実現していくというのも無から有を成すと言う意味で立派な超能力と言えないこともないと思う。