◎かもめの事上磨錬
(2014-09-28)
30年位前にかもめのジョナサンを読んだ。問題のエンディングは、尻切れとんぼだったが、十分に後の展開を予想し得るものだった。その尻切れぶりは、きちんと描写されたエンド・シーンがあった場合よりも、その後のダイナミズムを生むための十分なエネルギーを与えるものだった。
ここにきて、最終章である第四章が追加されたわけだが、かもめたちの飛ぶ世界に新たな地平が発見されたわけではない。カモメのジョナサンは、陽明学流の言い方では、かもめ版事上磨錬物語だった。
別世界、別次元は、万人から真に希求されるものではないが、「人間の日常に真に向き合えば、それまでに見えていたものと異なる全く違う世界に生きていることに気がつく」と、老子、道元など只管打坐系の覚者は口を揃える。
別世界、別次元というオカルティックなものが最重要ファクターなのではなく、「退屈な日常」という起爆剤にどの程度エネルギーが詰まっているかが、結果のバリエーションを生み出しているようだ。
一旦かもめのジョナサンの世界に入ってしまえば退屈な世界などはない。しかし覚醒の瞬間は一瞬であり、悟りとは、その覚醒の瞬間であるという体験至上主義では、二度目三度目の体験を追い求めるばかりとなる。
禅僧趙州は「十二時の歌」で素寒貧な生活を描写してみせるが、これこそ体験至上主義でなく、「悟りとは態度だ」を地で行っているのだと思い当った。「悟り」は入り口から覗けば理解することは簡単そうだが、多くのファクターがあり過ぎて、理解するのすら難しい。簡単ではない。
悟りとは、態度でも、体験ですらもないが、それでも「悟りとは態度だ」と言わざるを得ないシーンはある。