アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

寺を持たない枯禅の花亭と夾山和尚

2022-11-22 08:45:33 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎身を隠して跡をとどめず、跡のないところに身を隠し

唐代の破仏(仏教弾圧)の時代、花亭和尚は小舟で往来しながら、これぞと思う嗣法の大器を探していた。ある日少々見込みのある夾山(天門)を見かけ、夾山の方から質問が来た。

※まっすぐな釣針で魚を釣るのは、周の太公望の故事。

『「毎日、まっすぐな釣針で魚をつっていられる、先生のねらいは何なのです」

「わしが千丈の絲を垂れている、そのねらいは千丈の水底だ。水面の絲の動きと安定・有無など、そんな釣り道具のような、舌頭三寸のかけひきなしに、君はどうしてわたしに問わぬ」

そこで、天門が問いかけようとすると、花亭はオールで、かれを正面からつきたおす。しかし、天門は逆に進み出て言う。
「先生の言葉は深い道理を含んでいて、言葉の域を超えています。舌先で言ってみたところで、まったく答えになりません(話帯玄而無路、舌頭談而不談)」

「わたしは今まで、まっすぐな釣針で魚を釣って来たが、ようやく今日は、一匹かかりおったぞ(毎日直鈎釣魚、今日釣得一个)」

そこで、告げて言う。
「竿の端から垂れている絲は、あなたのあやつり方次第です、静かに澄んだ水面を乱さぬ、あなたの心はまったく見事です」

花亭が、天門にたずねる。
「学生よ、君はいったい、わたしを捨ててゆく気か」
「はい、わたしは参ります」
「行くことは勝手だが、いったいあの事実を、見とどけたか」
「見とどけました」

「どう見とどけたのだ」
「岸の草を、見とどけました」
花亭は再び、言いふくめて言う。
「君はこれから、くれぐれも身を隠して跡をとどめず、跡のないところに身を隠して、それらの何れにも、とどまってはならぬ(蔵身処没跡、没跡処蔵身、不住両処)、これがわしの教えだ」』
(純禅の時代 [正] 祖堂集 柳田聖山 禅文化研究所p39-40から引用)

夾山(天門)は、既にそれを得たが、ひらけらかしてもいけないし、それにこだわってもならないと戒められた。

今でも自宅の自室で坐るのなら。枯禅の時代である。
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