◎天を恐れよ、神を畏れよ
出口王仁三郎は、悲しみと憎悪の心が地上に地獄を現出させるものであるが、人間が冥想により悔い改めと禊の業を行なわず、邪気がどんどん天地に充満してきた際には、暴風豪雨など自然災害が起こって、結果的に邪気を払うことになるものと述べる。ところが特に日本においては、神国であるがゆえにその自然災害の発生が国難の前ぶれとなるとする。
SNSの発達により、前触れとなる事象は毎日毎時あまた起こっていることがわかる。そうすると前触れとなる事象が起こることそのものが問題なのではなく、前触れと感じ取る自分の敬虔さと感性の方がクリティカル・ポイントになるわけだとわかる。
防災用品の備蓄も重要かもしれないが、事前に災害を起こさぬようにする方法とは、微力ながら自分は善を行い悪を行わない、自分は正直にして嘘を言わないなどの積善陰徳である。そんなのは論理的ではないとか思う人も多いのかもしれないが、積善陰徳は、カルマ・ヨーガやバクティ・ヨーガの専売特許ではなく、神仏を知る人たちの基本的な行動原理である。
「天を恐れよ、神を畏れよ」というのは、最後の審判で地獄行きになると脅すカルトの定番のセリフではなく、神仏を知る人たちの基本姿勢である。
出口王仁三郎は、つまずく石にも神の警告を感得せよと人間本来の気持ちの持ちように立ち返れと次のように述べる。
『また人の心が乱れ、悲しみと憎悪に満ちているとき、すなわち愛悪の精神がみなぎつているときには、その五体から暗赤の色を放射するものである。これはつねに破壊性、殺害性の力を有するものであつて、そのために刺激をうけると、精神的にも物質的にも、生長力を阻害されるものである。人によつてなんとなく衣類器具などを汚し損する人がある。これも右のごとき破壊的色素の一つの働きである。
しかしてかかる愛悪の霊的色素がだんだんと天地に充満してくると、その結果、肉体的には病を発生し、精神的には不安懊悩を誘発するにいたるものである。この悪気をはらい清める行事が禊祓である。しかして禊祓にもいろいろあつて、斎戒沐浴もその一種であり、神籬による祓戸、祝詞奏上、鎮魂などすべて禊祓の一方法である。
しかしてもし人間が悔い改めと禊の業を修めずして、邪気いよいよ天地に充満しきたるときには、祓戸の神のご発動となつて、暴風豪雨などによつて邪気が清められるのである。神の恩寵もつとも豊かなるわが国において、とくにしかりである。ゆえにわが国においては、古来国難の当来する前においては、ことに自然界の変災が多いのであつて、これは神がとくに日本を愛したまう象徴なのである。
余は、最近のわが国における天災地変について議論をすることを避けたい。科学万能主義者や、過去の聖賢の言葉を否定する説に同ずる人々を、一々論難してもしかたがない。だが余は、つまずく石にも神の警告を感得する謙虚敬虔な心を持つ人は幸いである、というものである。
天の具象を見、地の変兆を知らされても、神を知らざる者の目は節穴同然、耳は木耳同様、まことに悲しむべき世相である。かかる世相をだれがまねいたのであろうか。余は過去の聖賢とともに「天を恐れよ、神を畏れよ」と、今の世に叫ぶものである。
(専ら天を畏れ其の啓示に心せよ、「人類愛善新聞」 昭和10年8月)』
(出口王仁三郎著作集 第3巻 愛と美といのち 自然といのち 生活と自然のリズム 天を恐れよ、神を畏れよ から引用)