◎感じることを大事にし、思考を断ち、私性に直面
世界は、君のために存在しているわけでなく、君がいようといまいと何の変りもない。ところが君は自分のことを重要だと思っている。それがエゴ。
そんなわけで、エゴはこの世で最大の嘘であり、あり得ない。真実はエゴを決してサポートせず、直接コンタクトが起きれば、真実はエゴを常に破壊する。真実はその際ショックとして現れる。それは真実に出会う都度繰り返される。
それが嫌さに、君はだんだん真実を直視しなくなる。こうして君は真実とかかわらなくて済むように、自分の周りに自分でこしらえた偽りの世界を作り、そこに住む。その間、真実は常に恐ろしいものとしてあり続ける。
エゴは、君が起きている時と浅い眠りの時に存在し、深い眠りに入った時はエゴはない。それが、エゴが実在しない証拠。
エゴは、真実あるいは神に到達しようとするが、エゴは、真実あるいは神に到達することは不可能である。
「私は神を達成した」という発言は、エゴである私は神を達成したということだろうが、私というエゴが残っている限り、それはありえない。
OSHOバグワンによれば、チベットでは、まず沈黙する。次に私というエゴはどこにいるか探求する。探求が極まれば、ある単純な存在(私性)が起こる。
曰く、感じることを大事にし、思考を断ち、私性に直面することで、私性が存在しないとわかる。私性は、直面すれば消え失せる。
これは自分が死ぬことであり、大変な恐怖だ。
この私性が消え失せるシーンについて、OSHOバグワンは、『つまり「私」が消え去っていき、そして自分に死が起こりつつあるように感じる。何か沈んでいくような感覚がある――自分が下へ下へと沈んでいくような・・・・・。』
(ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)OSHO P273から引用)
彼は、私性が消えた後、死と等しくなり、新たなもの、若く、手つかずの最古の処女性、「我」が現れると言う。
既に思考もエゴもなく、隙間が現れ、この「我」は、あなたと私を含み、一切を包含したものであり、「私は神だ」とわかる由。
平常の活動時間帯は、人は視覚・聴覚・触覚・思考という外側の器官で、自分を確認できる。思考が止まった後は、それら感覚・思考は使えないので、意識・知性という内側の器官で自分を確認できる。
これは、死のプロセスで、自分が死んだことを自分が認識するまでは、やや時間がかかることで想像がつく(チベット死者の書)。肉体が死ねば、自分を確認するのに感覚は使えなくなるからだ。
以上参照:ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)OSHO P246-277
我とか、私性とか似たような言葉が並び、わかりにくいかもしれない。要するにエゴがなくなり、思考がなくなれば、第六身体アートマンなる神となるということ。
面白いと思ったのは、『自分に死が起こりつつあるように感じる。何か沈んでいくような感覚がある――自分が下へ下へと沈んでいくような・・・・・。』の部分。これが身心脱落なのだろうか。クンダリーニ上昇では、『上昇』なのに、ここでは落下が起きるという。