◎脚なしに歩みを進めようとする者に等しい
西洋錬金術書、逃げるアタランタXXVIIから。
『賢者の薔薇園に鍵も持たずに入ろうとする者は、
脚なしに歩みを進めようとする者に等しい。
【寸鉄詩】
賢者の薔薇園にはさまざまな花が咲き乱れている。 しかしその扉は堅牢な錠前で閉じられたまま。
その唯一の鍵はこの世では蔑されるもの、
これを持たぬ者は脚なしに道を行こうとするようなもの。
パルナソスの高みを前に、
やっとのことで立ちつくすばかり。
【論議】
エリクトニウスはヴルカヌスが叡知の女神パラスを襲った折に大地に播いたその種子から生まれたとい い、その足は人のものではなく蛇のようだったという。パラスの援けなしに、ただヴルカヌスだけを恃みとして生じたもの、脚がなく、自ら糧を探すことができない無用なものとして堕胎された子らはこれに似ている。四足獣のように手と足で這う者をみるのは辛いが、さらにまったく脚なしに腕でにじり寄る者をみるのはさらに哀れを催す。蛆や蛇が進むような状態に戻されたように見えるから。実際、脚なしに歩むことができないのは、目なしに見ることができず、手なしに触れることができないのと同じ。医術にも、実践にかかわる諸他の業同様にそれを支える両脚があり、それが体験と道理づけである。どちらか一方が 欠けると業は不完全で不安定となり、その規定(処方)も伝統も完全とはならず、目的を遂げることもできない。
変成術はなにより二つのもの(それにとっての脚に相当する)を歓ぶ。一つは鍵、もう一つは錠前。これらによってすべての壁面を塞がれた賢者の薔薇園は開き、そこに入る者に入庭を保証する。これらのいずれ か一方が欠けるなら、そこに入ろうとする者は兎を追い越そうとして足を痛める者のようなもの。生け垣と囲いで完全に閉じられた庭に鍵なしに忍び入ろうとする者は、夜陰に紛れて薔薇園に入りこみ、何が芽吹いているかも識別できず、盗もうと思う善財を悦ぶことのできぬ盗人のようなものである。
じつのところ、鍵はたいへん卑しいもので、諸章で石と称されてきたものであるが、これはロードスの根であり、これなしにはなにも芽吹くこともなく、若枝も膨らまず、薔薇も花咲かず、数知れぬ花弁を拡げることもない。
しかしこの鍵はどこで見つかるのかと問う者もあろう。これには託言をもって答えておこう。それはオ レステスの骨が見つかるところで見つかるだろう、と。それは、「毀ち、衝撃を撥ね返し、人々を破壊する風とともに見つかるだろう」。あるいは、ルカが解説するところによれば、鋳掛屋の工房内に。託言の語法では、風は鞴をあらわしており、毀つものは金槌、衝撃を撥ね返すのは鉄床、また人々を破壊するとは鉄を意図している。
探索者は、慎重に星座を識別しつつ算えるなら、この鍵を獣帯の北半球に、錠前を南半球に見つけるだろう。これを手に入れることができれば、扉を開け、中に入ることは容易い。』
(逃げるアタランタ/M・マイアー/八坂書房P244-247から引用)
賢者の薔薇園とは、大悟覚醒のこと。西洋錬金術には、さる冥想法がある。冥想技法を行うには、その技法が何を狙って何を意味するかを理解した上で、師の教えるとおりの冥想を行わねばならない。
これにおいて冥想法だけでは足なしと表現され、これが文中の『体験』である。また、知的理解が『道理づけ』である。
足なしは、しばしば起こることは起こったがそれが何を意味するか本人にはわからなかったというもったいない事例として出てくる場合がある。
『鍵』は知的理解、『錠前』は冥想法。『鍵』はそれまでの一切の固定観念、世界観を全く逆転するものであるから、『「毀ち、衝撃を撥ね返し、人々を破壊する風とともに見つかるだろう」』という表現になる。タロットの吊るされた男。
鍵は、賢者の石であって卑しいと言うのは、価値観の逆転後での表現。精神的なものにこそ価値があると見る世界観にあって、初めて賢者の石の価値が高いものとわかる。このカネ至上の人々の多い時代には、賢者の石は卑しく見える無用の長物。無用の用。
北半球は、世俗の部分。南半球は、精神的部分。