◎超富裕層の時代の終わり
欧米は何世紀にもわたって超富裕層が時代のかじ取りを担ってきた。いまや共産主義国であったはずの中国までが超富裕層が国家のヘゲモニーを握るようになってしまった。
twitterは、世界の最新の思潮を即時に反映してくれているが、それを見ていると、『超富裕層に非ずんば人に非ず』というのが、世界の人々の根本概念の一つであることを否定することはなかなか難しい。
そして超富裕層がそのステータスを維持するためには、核兵器を自分の好きにできなければならないというのも、世界の常識である。それは、平和の根源である潜水艦発射核ミサイルによる恫喝を日夜相手国に継続し続けていることに現れている。
『核保有国に非ずんば、国に非ず』というのは、北東アジアの最貧国だけの現実感覚ではないのだ。
超富裕層の隆盛の下で、貧富の差がますます拡大していることは、世界的な現象である。
そうした一方で、奥山の渓流の如き細々とした流れだが、冥想に取り組み続けている人々がいる。
アメリカの試行錯誤ぶりは、ZENやmeditationと称しているが、必ずしも只管打坐でもマントラ禅でもないが、パラマンサ・ヨガナンダなど多数のインド人グルや、多数のチベット密教僧が長年アメリカで活動してきたせいか、いろいろな坐法を試してみようという姿勢はよいと思う。
悟りあるいは神仏のとらえ方も、固定した先入観念は持たず、未悟のレベルでもポジティブに捉え、まるでアメリカの覚者ケン・ウィルバーの宗派別の覚醒へのステップの幅広な考え方が根付いたかのように思えるほどである。現代人の求道の9割方は、先入観念を落としていくことにあるから、このアプローチはフランクであり、よいと思う。
この時代に普通に生活していても、特に五公五民の日本では、貧困、生活苦にあえぎがち。さらに冥想修行していく場合には、貧困、生活苦の圧迫もあり、カルト、ネットワークビジネス、特殊詐欺、違法薬物などの不断の攻勢をしのぎつつ、正気を保ちつつ日々冥想修行を継続して行かねばならない。
さはさりながら、アメリカでは、坐ること、冥想修行、求道に対する偏見は少ないが、かえって貧困、生活苦の圧力と薬物(フェンタニル、大麻、コカインなど)の誘惑が強烈。
アメリカでZENという言葉が冥想シーンやスピリチュアル・シーンのみならず、カルチャー全体や、IT、製造業、飲食に至るまで生活全体での、素晴らしいこと、ステキなことの代名詞になったのは、ヒッピー以来の自由な精神文化の一つの大きな流れの結果の一つだろう。この点でも日本に比べアメリカは誠に先進国だと思う。
鈴木大拙、鈴木俊隆だけが、ZENの父ではなく、スワミ・ラーマなどのインド渡来僧やチョギャム・トゥルンパなどのチベット密教僧、そしてソーマ・ヨーガを示したドン・ファン・マトゥスとカルロス・カスタネダ、リチャード・バック、こうした人物がすべてZENの父なのではないか。
アメリカでは、率直に悟っているかどうかを必ず問題にしてくるところがよい。日本ではそれは、しばしばタブーだったり、忖度の対象だったりする。日本では、教祖や教団のトップが悟っていないことはままあるし、それを表面化させないのが大人の智恵とされてきた部分がある。
組織宗教や教団内のそのような作法はともかく、個人が人として神仏に向き合うのであれば、師匠、マスター、グルが神仏を知っている(見神見仏)というのは最低限の条件と考えるものではないだろうか。
そこは最初に誠実に取り組むべきポイントなのだと思う。
神聖な教祖が出て何百年何千年たった巨大宗教でも、爛熟しすぎて金を持ちすぎてかえってアルバニア人の女性を広告塔として様々な悪事をやらせていた事例が、ネコノミクス宣言にも出ていたが、最初は正しくても何百年何千年経てば悪の組織を持つことはあるものだ。
そんな逆境だが、今日も坐る。