アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

一休、霊照女の画像に賛す

2024-07-19 11:09:39 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎阿ホウ居士の娘

(2016-12-25)

 

南宋の画人牧渓の描いた霊照女の画像を大切に持っている人がいて、一休に賛を入れてもらおうと持ってきた。

 

霊照は、ホウ居士の娘であって、ホウ居士が坐脱しようと時をうかがっていたら、先に坐脱したという並々ならぬ冥想修行者。ホウ居士は富裕層だったが、家財珍宝すべてを舟に積み洞庭湖に沈めてから、竹細工を売りながら清貧な生活を送り修行に打ち込んだという。ホウ居士は馬祖の弟子。

 

さて一休はすらすらと賛を入れた。

 

汝の親の笊(いかき)作り 馬祖にだまされて

宝を海に捨つる 阿ホウ居士の娘

 

これを見た周りの一同あっけにとられた。

 

 

釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはするかなという

という一休の歌があるが、馬祖といういたづらものに騙されて、あたらホウ居士も財産を失った。私財を持つ持たないは悟りとは別であって白でも黒でもない。

 

狂雲集にも一休が股に錐を刺して眠気を覚ましながら修行した慈明禅師を嗤う漢詩がある。篤く三宝を敬う生真面目な人から見たらとんでもないが、「何も問題がない」という立場からこういうのを語る分には咎めはなく、こういうのを風狂と呼ぶ。

 

だが悟っていない人間が同じことを語っても、単に意地を張っているだけのことになる。

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終わりの印と時を選ぶこと

2024-07-19 07:35:51 | 究極というものの可能性neo

◎霊照女からモンゴル

(2017-10-27)

 

10月後半になってからの超大型台風など終わりの印には事欠かない。

 

唐代の禅僧ホウ居士の娘霊照は、臨終間近のホウ居士に「日の高さを見ていてくれ。正午になったら、知らせてくれ」と言いつけられた。

 

さて正午に霊照は、「正午になりました。しかも日蝕です。」と父ホウ居士に知らせてきた。

 

ホウ居士が、入り口を出て空を見ている隙に、霊照は、父の座に坐り込んで合掌し坐亡した。

 

父は、彼女の遺骸を見るや「すばしこい奴だ」と云い、自分の命日を7日後と決めた。

 

7日間で、月は90度動く。死は時を選ぶタイプの技なのだろう。

 

兆しを見て時を知れば、心得た者は、そこで覚醒に動く。

 

第二次大本事件前夜、笹目秀和が大本教のご神体を崑崙山中に奉還する旅の出発に際して、日本が、将来モンゴルに移ることが大本幹部から暗示されている。

 

時を感じた人は、坐り始める。

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ホウ居士が働きながらでの修行を選ぶ

2024-07-19 07:31:05 | 達磨の片方の草履

◎働きながら修行できる環境と覚悟

 

今の時代は、よほど稀な境遇でない限り、禅道場やキリスト教修道院のような専門道場で何年も過ごすことはむずかしい。そこで現代は、勢い働きながら修行するというのが主流となる。

 

修行の進み具合によっては、全然働けなくなるシーンがあるもので、衣食住の面倒を見てくれる支援者(細君、愛人、友人、近親など)が、本当に真剣に取り組もうとする冥想修行者には必要なものである。

冥想の進み具合によって、そうした環境も自ずと整ってくるということはあるが、そこは考えなくてはいけない部分ではある。

 

ホウ居士は、師匠の石頭希遷に「出家するのか在家で修行するのか。」と問われ、在家を選んだ。その時のホウ居士の偈。

 

『【大意】

日常の仕事は特別なことはない。ただこれ自ずからうまく運んでいくだけのこと

何一つ選びもせねば捨てもしない。どこで何をしようとまが事は起きない。

(出家して)朱や紫の衣を着る位階にも関わり無く、ここは塵一つない山中である。

わたしの神通と妙用とは、水をくみ薪を運ぶことである。

 

【訓読】

日用の事は、別なし 唯だ是れ自ずから偶またま諧(かな)うのみ

頭々取捨にあらず 処々張乖(ちょうかい)を没(な)し

朱紫 誰か号を為す 丘山 点埃(てんない)を絶す

神通並びに妙用 水を運びまた柴を搬(はこ)ぶ』

 

ホウ居士は、箕造りで一生を終えたが、臨終時に娘に先を越された消息には鬼気迫るものがある。

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牛の児を買う

2024-07-18 06:17:55 | 達磨の片方の草履

◎杜鵑(ホトトギス)の一声が、孤雲を切り裂く

 

道元の正法眼蔵第43巻諸法実相から、天童如浄がある夜、弟子たちを方丈に集めて言った。

 

『【訓読】

天童今夜牛児あり

黄面の瞿曇(ゴータマ)実相を拈ず

買わんと要するに、那(なん)ぞ定価無かるべき

一声の杜宇、孤雲の上

 

【大意】

わしのところに今夜牛の児がいる

黄金の釈迦は、あらゆる真理を手でひねっている

それを買おうとするが、定価がないはずはない。

(その定価は、)杜鵑(ホトトギス)の一声が、一片の雲の上を行く』

 

牛の児は、十牛図の牛のイメージであり、あらゆる真理。最後にホトトギスの一声が世界を切り裂くが、これは、チベット密教のpatoの一声と同じ。これで目覚めるのだ。

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盤山宝積

2024-07-17 06:47:17 | 達磨の片方の草履

◎亡くなった人はどこに行く

 

唐の時代に中国禅で余りにも多くの悟った弟子を出したのは馬祖。その馬祖の孫弟子に当たる普化は、飛びぬけた聖者だった。その普化の師が盤山宝積。盤山宝積は馬祖にその悟りを認められている。

 

『ある時盤山が、托鉢して肉屋の前に立った。その時、一人の客が「精底(生きのいい肉) 一斤をくれ」と言うと、主人は庖丁を置いて「俺の店に腐った肉はないぞ」と怒鳴った。盤山は、かたわらにあってこの会話を聞いて、豁然として悟った。

 

また、一日門を出たら、葬式に出会った。坊さんが鈴を振って、「夕日(紅輪)は行く先を決めて西に沈んだが、まだ行く先が決まっていない、亡くなった人はどこに行く」と歌うと、遺族が声を揚げておいおいと哭泣した。盤山は、これを見ておのずから心身玲琅となり、欣喜雀躍して帰り、師の馬祖に話をすると、馬祖は莞爾として盤山の悟りを認めた。

 

これは、どちらも公案ではなく、悟りのきっかけのイベント。

最初のは、万物がすべて仏法ならざるはないことを見た。後のは、人の子に帰る場所はない

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神聖なるものを抱きしめる

2024-07-16 06:10:14 | 人と神の「実際のところ」

◎世界は夜明けの最後の星のよう

 

インド18世紀のチャランダスの女性の弟子にダヤとサハジョがいた。そのサハジョの詩。

『世界は夜明けの最後の星のよう

サハジョは言う

それはすぐに消えてしまう露の真珠のよう

掌(てのひら)に受けた水のよう』

(ラスト・モーニング・スター  女性の覚者に関する講話  OSHO/講話  市民出版社P26から引用)

 

明星を見て大悟覚醒したのは、釈迦、空海、クリシュナムルティと多い。だがその明星は金星のことでなく、鉛直の頭上の中心太陽だったに相違ない。

おまけに明けの明星はどの季節でも出ているわけではない。

 

この詩の『夜明けの最後の星』は、いつでもある星のひとつであって、最後に輝きを残しているもの。人は、それを手にしようと頑張るが、『掌(てのひら)に受けた水のよう』にすぐに流れ去る。

 

この世のことにもあの世のことにも、永遠に変わらず失われないものはないからだ。

 

世界という網を置き去りにして、神聖なるものを抱きしめるのだ。

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宇宙全体と無、なにもかもなし

2024-07-15 06:16:46 | 覚醒のアーキテクチャー

◎すべての人々を愛するとは、誰も愛さないのと同じ

 

第六身体アートマンを宇宙全体と置いているが、それでは無とは何か。

OSHOバグワンも宇宙全体は無、なにもかもなしだと言っている。これを一言で言ってのける人(一休、至道無難ダンテス・ダイジ)もいて、それで納得できない人は傾聴すべきだろう。

 

『存在と非存在、無とすべて、そうしたものは一見反対だが、実際は同じものを意味している。

すべてと無は、同じものを意味する。 辞書上では反対だが、生においては反対ではない。たとえ ば、「私はすべての人々を愛する」というのと、「私は誰も愛さない」というのは同じ意味だ。特定の誰彼を愛して初めて、違いが現れる。すべての人々を愛するとは、誰も愛さないのと同じだ。 そこに違いはない。

 

違いというものは、つねに程度問題であり、相対的だ。両極端には程度がない。 「全」と「零」 には程度がない。全を零と呼ぶこともできれば、零を全と呼ぶこともできる。だから内なる空間 の呼び方は、悟った人間それぞれによって違っている。たとえば、空、シュンニャ、無、非存在、 アナートマ、と呼ぶ人もいれば、絶対的存在、梵(ブラフマン)、アートマン、至高我、と呼ぶ人もいる。 どちらでも同じだ。一方は肯定的で、他方は否定的だ。片やすべてを包含し、片やすべてを排除する----そのどちらかしかない。 相対的な用語では叙述できないから、絶対的な用語が必要となる。この相矛盾する両極端は、どちらも絶対的な用語だ。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(10空の哲学)OSHO P293-294から引用)

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海底のレアアース

2024-07-14 03:53:27 | 時代にFace it

◎世の中のものは、すべてが人間が好き勝手にできるものでなく、神様のものがある

 

中国の海洋調査船が目的も説明せず2024年6月、沖ノ鳥島周辺の日本の大陸棚に位置する公海上の海域にブイを設置し、日本政府はこれに対し遺憾を表明した。

 

霊界物語に海底のレアアースという宝が恐るべきものであることが描かれている。

欲得で海底のレアアースを取りに行くとその後が良くないという。

 

『船頭は舳に立ちて唄ふ。

『ここは竜宮の大海原よ、可惜宝は海の底』と海上の風に慣れたる声を張り上げて繰り返し繰り返し唄ふ。

 

日の出神は、『オイ船頭、今お前の唄つた歌は、あたら宝は海の底といつたなあ、それや又どういふ訳か聞かして呉れないか』

『ハイ左様でございます。この頃のやうな春の海では判りませぬが、やがて秋が来ると海の底がハツキリと見えます。それはそれは綺麗な金や銀が海の底一面に山のやうになつて居ます。恰度この下辺りは最も多い処です』

 

『お前たちはその綺麗な宝をどうして採らぬのか』

『エイ滅相もない。この海の底には結構な宝も沢山ありますが、恐いものも沢山ゐます。太い太い竜神さまが、金や銀の鱗をぴかぴかさして誰れも採らないやうに守つてゐらつしやる。この海の底に居るものは、鯛でも、蝦でも、蛸でも皆金や銀の色をしてゐます。蝦一匹でも釣つたが最後、竜宮様が怒つてそれはそれは豪いこと海が荒れます。それで誰も雑魚一匹この辺では捕りませぬ。

 

大きな声で物いつても此処では竜宮様に怒られます。竜宮さまの好きなのは只歌ばかりです。歌ならどんな大きな声で唄つても構やせぬが、妙な話をしたり、欲な話でもしやうものなら、それはそれは恐ろしい目に遭はされます』』

(霊界物語 第7巻 第22章 竜宮の宝から引用)

 

役行者の全国の金鉱の地図は、奈良の大仏を鋳つぶした後でないと出ない。物事には時節がある。

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如何に時代的な奇跡を起こすか

2024-07-13 03:32:41 | 人と神の「実際のところ」

◎岩から湧く水から人と神の逆転へ

 

この時代の奇跡と言えば、万人が覚醒し、至福千年、みろくの世を作ることである。まれに一人二人が覚醒するのはいわば当たり前だが、万人が覚醒するのは奇跡である。なおのこと、いきなりある日突然同時に多数の人が悟りを開くのは、常識的には困難だが、これができれば奇跡である。

 

旧約聖書出エジプト記17に、その骨格を想像させるモーセのエピソードがある。

 

イスラエル人は、モーセが割った紅海を渡りエジプトを脱出したが、旅路を重ねて、レピデムに宿営したが、そこには飲み水がなかった。 渇きのあまり民はモーセに詰め寄り、水をくれなければモーセを石で撃ち殺さんばかりの勢いであった。困り果てたモーセが神に伺うと、かつてナイル川を打って血に変えた杖でもって岩を打てとのこと。モーセが杖で岩を打つと、果たして水が湧き出した。

 

この奇跡が実現したのは、モーセの側と民の側のそれぞれの条件が満たされてのことである。

モーセの側には、まず民に追い込まれた切迫感がある。そして、この世とあの世の秘密を知っており、神の智恵の導きにより、岩に水脈があって、それを打ち出す杖という神通力を有していることがある。

一方民の側は、もういささかも我慢できないほどの渇きによる死の恐怖と、モーセのナイル川を血に変えたのと紅海を割ったことの二つの実績を踏まえ、神威への期待感と希望が溢れ出さんばかりになっている。

 

この双方が相まって岩から水が湧き出すという奇蹟を現実のものとした。

 

現代人の直面している“渇き”は、その本質は精神的な渇きであって、実は金や水などの物質的な渇きではない。

人間の理不尽、不条理は、結局精神の渇きを癒されねば解消することはない。ところが、そのためには奇跡的な何かが起こらねばならない。

モーセの時代は、それが岩から吹き出る水だったが、現代は人と神の逆転である。

人類の生存率は三分の一というのは、奇跡的な何かが起こるという根拠のない確信を持てるのが三分の一ということなのだろうか。

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小暑のバランスと歩行改善と転倒防止エクササイズ

2024-07-12 03:27:14 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎きくち体操と平田篤胤の養父篤穏、身体バランス練習、シニア向け

 

きくち体操20分×2と、Olivia Lawsonの室内散歩20分×2を一日の目標としてやっている。猛暑により、屋外散歩は、竹脇まりなの室内散歩20分に振り替えている。なお竹脇まりなの室内散歩メニューは、全部で数種類と少な過ぎ。

 

きくち体操は、足首回しと長座の比重が高いが、ポーズに気をとられずに指図をおもに聞いていると、『ポーズや形でなく、意識で動かす』と盛んに言っている。

要するに筋肉のやせは、その筋肉について無意識になったところから発生するというニュアンスのようだ。翻って若い人向けの筋トレは、いわば筋肉をつけやすいところからつけているような節があるのではないか。

きくち体操では、過去何十年の実績から老人の筋肉のやせがちなところから重点的に強化しているわけだが、その眼目は、太ももの筋肉を意識して上側に上げるとか、足指の小指だけを意識して動かすとか、『意識して』に重心がある。

菊池和子先生の話ぶりでは、年齢と共に無意識になった筋肉からやせていく部分が増え、そういう部分は、最後は筋肉がなくなり皮だけになるという。

 

このようにわかってきてから、あおむけになっての片足上げが90度しか上がらないことをあまり気にやまないようになった。

 

さて平田篤胤の養父篤穏の寝る前の体操の中にきくち体操と似た部分がある。

『①まず仰向きに寝る

②次いで両足を揃えてかかとを押し出すように強く踏み伸ばせ。

③そして全身の気を臍のあたりから、その下丹田、そして腰、脚、足の裏にまで充たすのだ。

④次には指を折って、呼吸を百息まで数えるがよい。

⑤呼吸を百息数え終わったならば、踏みしめた力を緩めよ。

⑥これを一晩に四、五回続けるのだ。』

(古武術と身体 日本人の身体感覚を呼び起こす/大宮司朗/原書房P150から引用)

 

この『②次いで両足を揃えてかかとを押し出すように強く踏み伸ばせ。』がきくち体操と似ている部分で、これにより太ももの筋肉を意識して上側に上げることになる。

 

最近は猛暑のため、睡眠時に輾転反側し目覚めた時に、この太ももの筋肉を意識して上側に上げる動作を行うようにしている。おかげで、起床時の一歩目の足のふわふわした感じが若干緩和された。

きくち体操では、両腕を伸ばして結んで開いてもやるが、これも輾転反側時にやりはじめて、若干の効果を感じている。

 

なお平田篤胤の養父篤穏の方法は、イメージでもってエーテル体全体に気を巡らすことにより、健康を維持しようとするもの。

これは、百息で5分以上かかるので、一晩で30分もかかるのが大変ではある。

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エメラルド・タブレット、ジェイド・タブレット、アメジスト・タブレット

2024-07-11 06:40:46 | 人と神の「実際のところ」

◎すべてのものが、この一者の瞑想によるものだ

 

エメラルド・タブレットは、至福千年の基本思想。アメジスト・タブレットは、人類がすんなり至福千年に移行すれば、制作されることはない。アメジスト・タブレット・プロローグ(ダンテス・ダイジ)を讃してジェイド・タブレットを書いてみた。

 

12世紀頃西欧に現れたとされるエメラルド・タブレットは、ヘルメス・トリスメギストスの作とされ、心理学でもなく、哲学でもなく、物質変成の化学でもなく、クンダリーニ・ヨーギの見る現実そのものである。

ただし、西洋錬金術師達には様々に研究されたが、短すぎて内容に乏しいことから、ダンテス・ダイジの評価は低い。

 

『一、こは真実にして偽りなく、確実にしてきわめて神聖なり。

 

二、唯一者の奇跡の成就に当たりては、下なるものは上なるものの如く、上なるものは下なるものの如し。

 

三、万物が一者より来たり存するが如く、万物はこの唯一者より変容によりて生ぜしなり。

 

四、太陽はその父にして、月はその母、風はそを己が胎内に宿し、大地は乳母なり。

 

五、そは万象における完全なる父(テレスマ=原理)なり。

 

六、その力は大地の上に限りなし。

 

七、汝は、火と大地を、精と粗を、静かに巧みに分離すべし。

 

八、そは大地より天に昇り、たちまち降りて、優と劣の力を取り集む。かくて汝は全世界の栄光を己がものとして、闇はすべて汝より離れ去らん。

 

九、そは万物のうちの最強者なり。すべての精に勝ち、全物体に浸透するが故に。

 

一○、かく、世界は創造せられたり

 

一一、かくの如きが、示されし驚異の変容の源なり。

 

一二、かくて我は世界霊魂(アニマ・ムンディ=叡知)の三部分を備うるが故に、

ヘルメス・トリスメギストス(三倍も偉大なるヘルメスの意)と呼ばれたり。

 

一三、太陽の働きにかけて、我は述べしことに欠く所なし。』

(魔術師たちのルネサンス/澤井繁男/青土社P135から引用)

 

ヘルメス・トリスメギストスのことは、エジプト神話のトート(トース)と見ている(ユングとタロット―元型の旅/サリー ニコルズ/新思索社P85)。

 

上記引用文の『三、万物が一者より来たり存するが如く、万物はこの唯一者より変容によりて生ぜしなり。』の部分は、サリー・ニコルズは、『すべてのものがこの一者による。この一者の瞑想によるものだ。すべてのものがこの一者から生まれる。』(ユングとタロット―元型の旅/サリー ニコルズ/新思索社P86から引用)と訳している。

 

一者から万物が流出するのは、ユダヤ教の黒い焔で見るとおりであって、変ではない。

この一者の瞑想によるというところが、冥想の戯れ風であって、面白い。

 

『八、そは大地より天に昇り、たちまち降りて、優と劣の力を取り集む。かくて汝は全世界の栄光を己がものとして、闇はすべて汝より離れ去らん。』(魔術師たちのルネサンス/澤井繁男/青土社P135から引用)のところが、クンダリーニ上昇の秘儀と思われるが、これだけの記述では何もわからない。行法もないし、師のこともない。キリスト教社会では、ここまでが限界だったのだろう。

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女神には、無数のオルガズムからの忘我的極点を

2024-07-10 03:09:46 | ダンテス・ダイジの風光

◎男神には、あの遙かな性愛三昧を

 

秦の始皇帝の母親の趙姫は、女盛りの34歳で前秦王である夫を失い、息子が秦の始皇帝であったので皇太后となったが、孤閨をかこつことになった。丞相呂不韋は、自分と趙姫の関係を清算しようとしたのか、にせ宦官ロウアイを趙姫のつばめとして送り込み、趙姫はこれを寵愛した。これは、儒教の支那でも不道徳と思われたか、あるいは曲がったことでもあるものはあるという支那の合理性の容認するところだったのかどうかはわからない。

後にロウアイは趙姫に息子二人を産ませ、秦王政9年には、ロウアイはクーデターを敢行したがロウアイと息子は処刑された。

儒家の声が大きい支那では、趙姫は淫乱ということになっているが、ことわざに三十後家は立たずとあるように、その年代の後家さんは性欲お化けになるのはむしろ自然であって、淫乱とまでは言えないと思う。

またこの話には、趙姫の性愛エネルギーの消費という視点はあるが、趙姫がツイン・レイと出会ったのかどうかという視点も、男性側に思いやり深き態度があったかどうかなど本源的な愛にまつわる彼女の幸福という視点もない。趙姫が呂不韋の愛妾としてキャリアをスタートしたのは不運だったというのは簡単だが、それだけなのだろうか。

さて、ダンテス・ダイジの性愛観では、まず神事が第一、すなわちまず悟ることが最低基準である。これは、『高次元意識への自己解放』であって、一般にニルヴァーナへの突入か身心脱落を指す。

第二にパートナーは、魂の半身であるソウルメイトに限ること。相手を取っかえひっかえはあり得ない。

第三に、その時『その絶対的歓喜が魂の半身同志の交合を受容せしめ』て、それは愛に変じ、時間・空間・物質の三元に展開する。

 

そもそも体位とか、テクニックとかの巷間の想像とはまったく違った方向で、彼は性愛冥想を論じているのだ。

 

『人間的営為が虚無に打ち勝つことは決してない。

人間があるということは、虚無があるということだ。

むしろ、虚無そのものによって人間が絶対的に否定される時、虚無はまさに虚無ゆえに自消自滅する。

 

ここにセックスは、不安としての享楽刺激から

言詮不及の愛の一表現として甦る消息がある。

すでに、いかなる対立も戦いもありえない。

時・空・物の三元のない至福は

もう至福と名づけるのも愚かしい。

 

女神には、無数のオルガズムからの忘我的極点を。

男神には、射精しない持続的快感と、

思いやり深き態度から、さらには、あの遙かな性愛三昧を。

 

男性の性愛冥想者は、自我意識を霊的広がりに

向かって捨て去らねばならない。

射精のはかない生理的快感は、とるに足らぬものだ。

 

女性の中に歓びと安住を頼るのではない

まず高次元意識への自己解放があり、

その絶対的歓喜が魂の半身同志の交合を

受容せしめるのだ。

 

性愛は何も産まない

悦楽も安らぎも産まない

子供も産まない

子供はおのずから生きる

子供は子供独自の生命を流れている』

性愛漂流/ダンテス・ダイジから引用)

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今ここは口に苦し

2024-07-09 03:22:57 | 冥想いろいろ

◎生が絶望的だったら、絶望し、それを受け容れる

 

口に苦い絶望を前面に出さない『今ここ』は嘘っぽい。

OSHOバグワンが、そこを指摘する。

『この現瞬間に生きるよう努める。けっして希望を抱かない―――どんな希望であれ。現世のものにしろ、彼岸のものにしろ、何の変わりもない。たとえ宗教的な希望であったとしても・・・・・・未来なり、彼岸なり、天国なり、ニルヴァーナなり、死後に関わるものであっても、何の変わりもない。希望を持ってはいけない。

 

たとえ今ここにおいてまったく絶望的であっても、ここにとどまり、今この瞬間から動かない。動いてはいけない!それを苦しみなさい。けっして希望を入り込ませてはいけない。

希望を通じて夢が現れる。だから絶望するのだ。もし生が絶望的だったら、絶望し、それを受け容れる。けっして未来の物事にしがみつかない。すると突然そこに変化が現れる。現瞬間にとどまりさえすれば、夢はやむ。もう夢は生じない。なぜならその源泉が引っこんでしまうからだ。夢に手を貸しているからこそ、夢の母となっているからこそ、夢が生じる。だから夢に手を貸したり、夢の母となったりしない。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(6覚醒の深みへOSHOP192-193から引用)

 

日本人は、生が絶望的だったら、絶望はするが、それをまんざらでもないと考え、それを受け容れる悪い癖がある。これは、今ここにある絶望を無条件に受け入れているのではなく、馴れ合っているのだ。これでは、突然の変化などいつまでたっても現れることはない。

そんな人は、後世の人に、まだ抑圧を必要とする人々として分類され、進化の準備ができていない人と判定されてしまう。

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スカイ・ダイビングでのパノラマ現象

2024-07-08 15:29:07 | 【肉体】【ザ・ジャンプ・アウト-05】neo

◎数秒で急速な意識レベルの低下

(2013-11-21)

 

自衛隊の草創期に習志野第一空挺団に所属していた方の述懐。

 

この方は、人間の高所恐怖は33フィート(約10メートル)が上限で、それより高度が高くなると逆に恐怖感が薄らぐものだとする。これはおそらく自衛隊での定説であり、この理論に沿って訓練メニューが作られていたりするのだろう。そこで33フィートからの飛び出し訓練を終えて、飛行機からのスカイ・ダイビングに挑む。

 

飛行機からは眼下に習志野演習場が見えてきた。

『私は二番目に飛び出した。4秒以内に傘が自動的に開く開傘ショックがなければ、予備傘を開く紐を引かねばならない。

「一降下、二降下、三降下、四降下」と心で数える。その瞬間にズシンと開傘によるショックがあった。この4秒間の何と長いことか。

そして、不思議なことにこのわずか四秒の間に、これまでのことが走馬灯のように次々に頭に浮かんできたのだ。開傘、そして傘点検、異常なし。やっとホッとできる。

周囲の空に浮いている同僚の笑顔が見える。

(中略)

地面に降りた瞬間、私は大地を叩いて「私は落下傘で降りた」と小躍りしたい気持ちになった。あの初めての降下の時に感じた恐怖や快感は死ぬまで決して忘れることはないだろう。』

(自衛隊秘密諜報機関/阿尾博政/講談社P66-67から引用)

 

恐怖を入り口にして、数秒で急速な意識レベルの低下が発生して、個人のアカシック・レコードの高速再生であるパノラマ現象を見る。

 

「現代人は数秒で悟りに到達することができる」と語る人もいるが、この急速な意識レベルの低下、しかも見当識の低下を伴わないそれ、つまり失神しないこと、意識が清明のままであること。これこそが、その説の根拠であるのではないか。またここに人間の意識の秘密があるように思う。

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パノラマ記憶

2024-07-08 15:24:59 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎カルマを上映するスクリーン

(2011-06-04)

 

オランダの心理学者ダウエ・ドラーイスマによるパノラマ記憶についての表現。

『パノラマ記憶の最近の体験話で、それよりはるかに共通して用いられる隠喩は映画であり、フラッシュバック、再生、スローモーションのような映画用語である。

以下の例は、臨死体験の研究から取ったものである。

 

・「私の人生が瞬間的に再生されているあいだ、時間がわからなくなり・・・・・・」

 

・「カメラから外れたフィルムに写っている」かのように時間が通り過ぎていきました。

 

・温かい人間関係の記憶だけが「選別されてスローモーションで流れました」

 

・「フィルムの早送りのように、画面の一つひとつが、きちんと枠に収まって、はっきりした映像で、速い速度で連続して現れました」

 

・「非常に高速の映画です。ほんのいくつかの出来事を集めたハイライトでした」

 

・「それは映画のようでした。目の前を右から左へと進んでいく撮影カメラのようでした」』

(なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか/ダウエ・ドラーイスマ/講談社P337から引用)

 

彼は、パノラマ記憶の視覚性と自分の登場する映像を第三者的に見る感覚の両方を表現する暗喩として、パノラマ記憶は「映画」として表現されると指摘する。その一方ですべての記憶が一斉に同時に現れたように見えるという特徴は、「映画」にはない要素として挙げている。

 

カルマというフィルムは脳というスクリーンで展開されるが、パノラマ記憶という特殊な上映状況においては、脳を介さずに生カルマを直接上映するために、「すべての記憶が一斉に同時に現れたように見える」のだろうか。

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