唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

藩鎭と軍乱 河東節度使その1

2013-06-21 19:25:05 | Weblog
藩鎭とその軍乱について、河東・幽州・武寧の三鎭を例として記述してみよう。
河東節度使は開元年間に置かれた古い節度使で、突厥や回紇などと対面し、北邊は
沙陀や吐谷渾など蕃族が居住している。農地としての生産性は低く荒れた高原が大半である。
使府の太原府は唐の発祥の地であり、北都が置かれ、鉄産業が盛んである。
蕃族対策として強力な兵備が置かれ、中央からの統制もきつい。

①.上元2年-戦闘には弱かったが良將で会った王思禮が死ぬと、無能な管崇嗣が嗣ぎ、せっかく蓄積した兵糧を散逸
させてしまった。朝廷は文官である景山を派遣し綱紀を引き締めた。厳酷なだけの景山は諸将が横領していた資材
を厳しく点検し、將吏は恐慌を起こした。寶應元年-人よりも資材を重視する姿勢に憤激した將吏は景山を殺した。
当時史朝義の乱が続き、河中でも軍乱が起こったため朝廷は乱の黒幕である代州刺史辛雲京を後任として慰撫した。
郭子儀が河中の乱を鎮定するのをみた雲京は何人かを犠牲にして朝廷に恭順する姿勢をとった。

②.辛雲京没後、宰相王縉が東都から入ったが、將王無縱や張奉璋等は縉が文官であることを侮り命令に従わなかった。
大暦4年縉はこれら七名を誅して統率をとった。

③.貞元11年節度使李自良が没すると、行軍司馬李説は宦官の監軍王定遠に擁立されて後を継いだ。ところが定遠は専
権を振るい、説は従いかねた。定遠は気に入らない將を殺し、はては李景略を擁立して説を逐おうとした。諸将は従わ
ず定遠は逃死した。
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