至徳元年[756]八月
玄宗は従駕の恩賞として、驃騎大將軍內侍監知內侍省事渤海郡公の力士に開府儀同三司を加え齊國公に昇進させた。
至徳二年[757]回紇の援軍を得た唐軍は九月京師を、十月東都を回復した。
玄宗は十一月成都を発して京師に戻った。当然力士もまた随行した。
還京した玄宗に対し、肅宗は本意ではなかったが皇帝位を返上しようという茶番を演じたが、馬鹿では無い玄宗は力士を派遣して辭した。
両京回復の功績として力士は實封三百戸を与えられた。当時の財政状況からみて實収入があったとは思えない。
上元元年[760]六月
還京した玄宗は政務には一切関与せず、側近の陳玄禮や力士や玉真公主などと梨園子弟とともに宴会を催して楽しんでいた。風雅や教養の差からか、権力を握っていた肅宗の側近李輔國はそのグループには入れず不満をいだいていた。しかも輔國は力士に取り立てられた立場として頭が上がらなかった。
そこで輔國は、長く玄宗を懼れ続けていた庸劣な肅宗皇帝に「上皇は興慶宮に民衆を集めて人気があり、力士や玄禮はなに事かを策動しています」と誣告した。
定見などなく周囲に動かされる肅宗は動揺し、輔國に命じて上皇を西內に押し込めた。
そして玄禮を致仕させ、力士達を配流した。
力士は巫州に配流されたが、肅宗にとっても輔國にとっても恩人であったため虐待されることはなかった。しかし鬱々として楽しまなかった。
寶應元年[762]四月
玄宗が78才で崩御し、同時に肅宗も52才で崩御した。
力士は大赦により召還され、玄宗の下に戻れると期待して郎州まで到ったが、玄宗の死を聞き、慟哭し吐血して死んだ。
揚州大都督を贈られ、玄宗陵に陪葬された。