唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宦官伝 高力士 その6

2024-10-30 09:55:00 | Weblog

至徳元年[756]八月
玄宗は従駕の恩賞として、驃騎大將軍內侍監知內侍省事渤海郡公の力士に開府儀同三司を加え齊國公に昇進させた。

至徳二年[757]回紇の援軍を得た唐軍は九月京師を、十月東都を回復した。
玄宗は十一月成都を発して京師に戻った。当然力士もまた随行した。

還京した玄宗に対し、肅宗は本意ではなかったが皇帝位を返上しようという茶番を演じたが、馬鹿では無い玄宗は力士を派遣して辭した。

両京回復の功績として力士は實封三百戸を与えられた。当時の財政状況からみて實収入があったとは思えない。

上元元年[760]六月
還京した玄宗は政務には一切関与せず、側近の陳玄禮や力士や玉真公主などと梨園子弟とともに宴会を催して楽しんでいた。風雅や教養の差からか、権力を握っていた肅宗の側近李輔國はそのグループには入れず不満をいだいていた。しかも輔國は力士に取り立てられた立場として頭が上がらなかった。

そこで輔國は、長く玄宗を懼れ続けていた庸劣な肅宗皇帝に「上皇は興慶宮に民衆を集めて人気があり、力士や玄禮はなに事かを策動しています」と誣告した。

定見などなく周囲に動かされる肅宗は動揺し、輔國に命じて上皇を西內に押し込めた。

そして玄禮を致仕させ、力士達を配流した。
力士は巫州に配流されたが、肅宗にとっても輔國にとっても恩人であったため虐待されることはなかった。しかし鬱々として楽しまなかった。

寶應元年[762]四月
玄宗が78才で崩御し、同時に肅宗も52才で崩御した。

力士は大赦により召還され、玄宗の下に戻れると期待して郎州まで到ったが、玄宗の死を聞き、慟哭し吐血して死んだ。
揚州大都督を贈られ、玄宗陵に陪葬された。

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唐宦官伝 高力士 その5

2024-10-29 10:57:42 | Weblog

天寶十三載頃
玄宗は「いやな雨が続いているな、お前はどう思う」と言うと、力士は「陛下は宰相に賞罰すべて委ねています、そのため陰陽が狂ってしまったのです。」と答えた。玄宗は默然としていた。

天寶十四載末
安禄山が反し、たちまち河北・東都を陥した。

天寶十五載六月
厳命して京師東方の潼関を守っていた哥舒翰を東方に進出させたが、禄山軍の精鋭に撃破され潰滅し、京師に侵攻されることになった。

玄宗は京師を棄て、宰相楊國忠が支配する劍南成都へ逃亡することになった。

狼狽して脱出する玄宗には当然力士が随行していた。

禄山軍侵攻に脅えた州縣官吏は逃亡し、玄宗一行に対する供応はなく、随行する將士は飢え、今までの安楽な生活から一変して窮迫してしまった。憤懣はこの事態を招いた楊國忠にむかい。軍乱となって國忠やその徒党を殺した。

さらに乱軍は玄宗に楊貴妃を殺すように迫った。玄宗は「貴妃は宮中深くにいて事態に責任はない」としたが、力士は「兵達は國忠達を殺しました。その一族の貴妃が生きているなら安心できません、貴妃は無罪ですが今は陛下にも危険が及んでいるのです」と説得した。そして貴妃を殺した。軍士は一応納得して逃亡が続くことになった。

皇太子一行は玄宗達に遅れて逃亡していたが、途中で父老達に關内に留まることを請願され進めなくなった。そこで玄宗は力士を派遣して太子達を朔方軍を頼って靈武郡をめざすよう通告させた。

逃亡の途次、臣下達がおいおい追いついてきた。玄宗は力士に「誰が裏切らずに来るだろうか?」と問うと、力士は「寵遇を受けていた張說の子均や垍は来るでしょう。冷遇されていた房琯はこないでしょう」と言った。しかしまもなく房琯は現れ、均や垍は来なかった。

やがて玄宗は成都につき、力士は近侍していた。政令は自立した皇太子[肅宗]が発し、無気力に成った玄宗はそれを追認した。

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唐宦官伝 高力士 その4

2024-10-23 18:42:11 | Weblog

天寶五年[746]
楊貴妃への玄宗の寵愛は深く、力士は貴妃ののる馬の轡をとり案内する状況でした。
ある時、貴妃が玄宗に逆らって怒りをかい、兄銛の家に送り返される事がありました。
ところが玄宗のほうが貴妃ロスに苦しみ、力士は玄宗の意を酌んで迎えに行きました。

天寶五年七月
李林甫は疑獄を起こし、政敵である李適之や皇太子妃の兄である韋堅を陥れました。そして皇太子を廃位しようと企みましたが、力士は張垍や張均[說の子]とともに太子を保護したため及びませんでした。

天寶七年[748]四月
左監門大將軍知内侍省事力士は驃騎大将軍に昇進しました。その威勢は強く、西京に寶壽寺を作るとその鐘をつくという名目で莫大な金があつまりました。
ただ応接がいつも丁寧で、驕慢な態度をしめさなったので玄宗から親任され、士大夫に憎まれることはありませんでした。

天寶九年[750]二月
また玄宗と楊貴妃との痴話げんかが起こり実家に帰されました。また貴妃ロスを起こす玄宗のために力士は使いして、貴妃をつれ帰りました。

天寶十一年[752]四月
李林甫派の戸部侍郎兼御史大夫京光尹王珙/鉷の弟銲・刑縡がなぜか蜂起し皇城を攻めた時、力士は飛龍禁軍四百を率いてこれを討った。よくわからない事件である。

天寶十一年十二月
河西隴右節度の哥舒翰と范陽平盧節度の安祿山は反目しあっていたので、玄宗は和解させようとして力士に宴を開かせとりもたせたが、喧嘩別れにおわった。

天寶十三年[754]三月
玄宗は安禄山を宰相に登用しようとしていたが、楊國忠は反対したためならなかった。力士は幽州に帰る禄山を送ったが、その不満を感じ取った。

天寶十三載六月
楊國忠麾下の李宓が雲南蠻に大敗したが玄宗はなにも知らなかった。
玄宗は貴妃に耽溺し「我は老いた、政事は宰相に、軍事は諸将に任せてなにも心配なことはない」と言った。
さすがに力士は呆れて「雲南で軍は大敗しました。諸将は大軍を擁しています、一旦事あれば陛下はなにに頼るつもりですか」と諫めたが、耄碌した玄宗は「なにも言うな、わかっているわい」と言うのみであった。

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唐宦官伝 高力士 その3

2024-10-21 10:45:20 | Weblog

開元二十三年[735]頃
遊興好きの玄宗はしばしば五鳳樓で宴会を開いたが、見物する民衆の喧噪で音楽が楽しめなかった。そこで警備する金吾兵に統制させたがかえって混乱するだけで効果がなかった。
そこで力士は河南丞嚴安之を勧めた。安之が「騒ぐ者は斬る」と掲示すると、その厳酷な評判を知る民衆はたちまちしずまりかえった。

開元二十五年[737]四月
寵姫である武貴妃は自分の子の立太子を望み、宰相李林甫等と結託し、皇太子瑛と仲の良い兄弟である鄂王瑤、光王琚が謀反していると誣告した。軽率な玄宗はそれにのって三子や姻族を誅してしまった。ところが十二月、武貴妃が卒すると誣告の真実が明らかになり玄宗は悔やんだ。

開元二十六年[738]
無罪な皇太子達を殺してしまい、しかも武貴妃を失い、気力が衰えた玄宗は次ぎの皇太子問題に悩んでいた。宰相李林甫は武貴妃の子「壽王」を推したが、その誣告に乗ぜられたと思う玄宗は素直には聞けず、悩みは深くなるばかりであった。

力士が「何を悩んでおられるのですか」と聞くと、玄宗は「お前には当然わかっているはずだ」と言う、
力士「立太子の件ですね、それなら悩まれずに長幼の順に従えばよいのです、そうすれば誰が異議を唱えましょう」と進言した。長幼の順なら忠王[後の肅宗皇帝]になる。それを聞くと玄宗は「そうだ、そうだ、それが良いな」と言って、林甫の奏を却けて忠王を太子とした。

力士は寵愛した武貴妃を失い元気のない玄宗に、子の壽王妃である楊氏を斡旋した。楊氏が武貴妃に似ていたためという。

その後、林甫は皇太子を廃そうといろいろな疑獄事件を起こしたが、力士は皇太子を守り廃させなかった。

力士は玄宗を《大家(旦那様)》と呼んでいた。
玄宗は力士を通常《将軍》と呼び、時には《我が家の老奴》とも呼び、皇太子は彼を《兄》、他の皇族は《翁》、皇女の婿たちは《爺》と呼んだ。

天寶三年[744]頃
玄宗皇帝は初期の政事への関心をすっかり失い、ただ遊興や楊貴妃との姦淫にふける愚帝となっていきました。そして東都への巡幸も厭うようになりました。宰相李林甫はその状況を察して京師への糧食運送が軌道に乗り、東都への行幸は必要ないと上奏し、玄宗はそれを嘉納しました。力士は「行幸は天下の情勢を視るため必要です」と諫言したが玄宗の不興をかうばかりでした。力士は玄宗の堕落を知り、諫言を控えるようになっていきました。

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唐宦官伝 高力士 その2

2024-10-19 16:33:26 | Weblog

玄宗は即位したものの、父睿宗が上皇として残り、政策に優れた太平公主[則天の娘、睿宗の妹]が実権をにぎり宰相の大半もその党派に属していた。

先天二年/開元元年[713]玄宗は再び決起し、太平公主と宰相達を誅し、実権をにぎった。力士も功績があり銀青光祿大夫,行內侍同正員に栄進し、やがて冠軍大將軍、右監門衛大將軍,知內侍省事.渤海郡公に進んだ。

則天・韋后と女性が専権していた間は宦官を重用せず、官位も低かったが、玄宗に至って高官に登用し勢力を拡大していった。

開元元年[713]頃
実権を得た玄宗皇帝は、姚崇[元之]を宰相として登用し治政に当たらせていた。
ある時崇が郎官人事を上奏したが玄宗はなにも答えずそっぽを向いていた。
剛直な崇は尚も承認を求めるが返事はない。さすがに崇も懼れて退出していった。
近侍していた力士は「宰相が上奏していますのに、気に入らないからかもしれませんが回答しないというのはどうかと思います」と玄宗を諫めた。
玄宗は「国家の大事ならともかく、郎官の人事など宰相の裁量に任せている、上奏の必要などはない」と答えた。
そこで力士は崇にその旨を告げに行き、崇は信任の厚さに感激した。
玄宗は遊び人で政務に関心が薄いことや、力士が親任を得て官僚との仲立ちをしていることがわかる。

開元七年[719]頃
玄宗の臨淄王時代の奴隷出身の左武衛大將軍王毛仲は、太僕卿として馬事や園庭を専掌し、常に玄宗に近侍して寵愛厚く、部下や力士達宦官には傲岸であった。

開元十四年[726]頃
前宰相張說が収賄により弾劾され、有罪であったので下獄した。
玄宗は力士にその服罪状況を視察させた。
說と親しい力士は「說は高官であったのに、垢だらけで粗末な食事を食べ、ひたすら謹慎しています」と庇い、玄宗は哀れに思って宰相職を解任するだけで釈放した。

開元十八年[727]
力士達宦官は王毛仲とその徒党と対立していた。毛仲に子が産まれ、玄宗はその子に《五品》の位を授け力士に使いさせた。
玄宗は「毛仲はさぞ喜んでいただろう」と力士に問うと、「毛仲に《五品》?、《三品》じゃないのか、と軽くあしらわれました」と讒言した。
玄宗は「あいつは韋后の時には逃げ隠れしていたのに、思い上がっている」と激怒した。
力士はさらに「毛仲達は宮中に居て、武力を握っています、そんなことをおっしゃって身の危険があります」と玄宗の疑惑を煽った。
十九年正月毛仲は殺され、その黨十數人が左遷され、宦官達が宮中の職を独占するようになった。

力士は家に帰ることなく、常に宮中にいて近侍し、怠惰な玄宗は力士に諸事を任せきりだったのでその権限は増大し、官僚達は上奏する前に力士に相談し、小事は力士が専断するようになった。しかし常に玄宗の意向を推察して行ったため親任は増すばかりであった。
玄宗は「力士が居てくれれば安眠できる」と言った。

宇文融・李林甫・李適之・蓋嘉運・韋堅・楊慎矜・王鉷・楊国忠・安禄山・安思順・高仙芝などを玄宗に勧めた。しかし彼らが失寵すると拘ることはなかった。

母の麦氏とは幼い頃に別離していたが、力士が立身した開元時に再会し、胸の七つの黒子により母子と確認された。

力士は金吾大將軍程伯獻や少府監馮紹正とは義兄弟となり、瀛州呂玄晤の女を妻とした。
そのため玄晤は少卿に昇進し、子弟は皆王傅となった。

 

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唐宦官伝 高力士 その1

2024-10-18 21:42:25 | Weblog

高力士[690-762]

潘州人,本姓馮で嶺南土豪の名門馮盎[耿国公]の末裔と称していたが不明。

載初元年[690]に生まれた。

聖暦元年[698]嶺南討擊使李千里が去勢した蕃族の少年「金剛」と「力士」を宮廷に進献した。

則天皇帝は女性であったので宦官を重要視はせず、力士は宮教博士から內府丞へ進んだが、一時は失態により放逐された。

その後武三思の家に出入りする宦官高延福の養子となり復帰し、武三思に仕えた。

まもなく宮廷にも復帰することができた。

長身で、性格は誠実であり使者として有用で宮闈丞となった。

景龍年間[708-]惰弱な中宗皇帝が韋后・安楽公主に頤使され、弟のこれまた惰弱な相王の子臨淄王隆基[後の平王.玄宗]は皇族が冷遇される事に憤懣を抱き軍人等と謀議していたが、それに親近することになった。

景龍四年/景雲元年[711]隆基は韋后の変に決起して、韋后一族・武氏を誅したが、力士は側近として功績があり、隆基が皇太子となり、皇帝に即位すると朝散大夫內給事に進んだ。

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唐宦官伝 楊思勗 その2

2024-10-14 10:30:11 | Weblog

開元十年八月
安南賊帥梅叔鸞/玄成が反し黑帝と称し、三十二州の兵を率い、四十万と称し、林邑・真臘・金鄰国と結んで州縣を囲み安南府を陥した。
驃騎將軍兼内侍思勗が派遣され、安南大都護光楚客と合して蕃族10万を募兵して、奇襲を加えてこれを討ち、叔鸞を誅して、賊徒の死体で京観を作った。
京観とは討ち取った敵兵をつみあげるなどして塚を作り、戦勝の記念碑とすることである。

開元十二年七月
奚州蠻覃行璋が反した。監門衛大將軍楊思勖が黔中道招討使として六万を率いてこれを討ち、行璋を捕らえ、三萬を斬首した。思勖は輔國大將軍に進んだ。

泰山封禪に従い、虢国公、驃騎大将軍となった。

開元十四年二月
邕州獠首領梁大海・周光等が反し賓・橫等州に拠った。驃騎大將軍兼内侍楊思勖がこれを討ち、大海等三千餘人を捕らえ、二万を斬首し京観を作った。

十二月
梁大海等三千餘人を捕らえ、二萬を斬首した。

開元十六年正月
春・瀧等州獠首領で瀧州刺史の陳行範と廣州首領馮仁智/璘・何游魯が反して四十餘城を陥し、行範は帝を称し、游魯は定國大將軍、璘は南越王とした。、驃騎大將軍楊思勖は桂州及嶺北近道兵を動員しこれを討った。行範を誅し、游魯・璘を捕らえ、六万を斬首した。
思勖は厳酷で將士は服従し、俘虜は生き皮を剥ぎ斬首したため、蠻夷等は極めて懼れた。

開元二十七年六月
内常侍牛仙童が幽州節度使張守珪から収賄し、その敗戦を隠していたことが発覚した。
刑を執行した思勖は、仙童を吊りさげて杖數百を加えて殺し、心臓をえぐり出して食べた。

開元二十八年
八十七才で卒した。

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データリンク再掲

2024-10-12 21:09:10 | Weblog


16昭宗宰相史 [リンク]

15僖宗宰相史 [リンク]

14懿宗宰相史 [リンク]

13宣宗宰相史 [リンク]

12武宗宰相史 [リンク]

11文宗宰相史 [リンク]

10穆宗敬宗宰相史 [リンク]

09順宗憲宗宰相史 [リンク]

08德宗宰相史 [リンク]

07睿宗代宗宗宰相史 [リンク]

06玄宗宰相史 [リンク]

05中宗睿宗宰相史 [リンク]

04則天宰相史 [リンク]

03高宗宰相史 [リンク]

02.太宗宰相史 [リンク]

01.高祖宰相史 [リンク]

唐後半の反乱年表[xls]

唐史データ集[xls]

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唐宦官伝 楊思勗 その1

2024-10-12 12:31:16 | Weblog

唐朝後半に大きな影響を与えた宦官勢力の主要人物の伝を記載していきます。

宦官を重視して唐朝を傾けたのは無頼放蕩な玄宗皇帝でした。その時代の楊思勗、高力士から

始めます。

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楊思勗[本姓蘇、字は祐之]

唐高宗の永徽5年[654]、嶺南の羅州石城縣[広東省]に生まれた。

父は羅州大首領蘇勵、母は雷州大首領陳陈玄の女ということになっている。
顯慶四年[659]、叛乱により征討され、六歳で去勢され宦官として宮廷に送られた。

内官楊氏に養われて養子となった。

膂力があり、殘忍で殺人を好んだ。

神龍三年[707]七月
皇太子重俊は韋皇后の子ではなく、皇后の愛人武三思達から軽侮され、その地位を危ぶんでいた、父中宗皇帝は無能で優柔不断であり、皇后や三思の傀儡であった。
そのため重俊は羽林將軍李多祚婿羽林中郎將野呼利等と羽林千騎兵を率いて蹶起し、三思や子崇訓を殺した。そして宮門に押しかけ中宗を威嚇した。中宗は宰相や皇后達と玄武門に避難した。

その時、宮闈令であった思勖は勇戦して多祚の婿中郎將野呼利を斬り、形勢は逆転して重俊や多祚等は敗死した。賞として思勖は銀青光祿大夫行内常侍に昇進した。

その後、臨淄王隆基[玄宗]に従い、景雲元年[710]韋皇后、先天二年[713]太平公主を誅滅するのに功績があり、左/右監門将軍に昇進した。

開元四年[716]十二月頃
玄宗皇帝は信任する刑部尚書西京留守宋璟を召すため思勗を派遣したが、宦官を軽視する璟から冷遇された。玄宗はそれを聞き璟をさらに信任した。

開元七年[719]三月頃
玄宗の元奴隷である寵臣大僕卿王毛仲は傲岸で、楊思勖や高力士達宦官を軽侮していた。
このように玄宗初期の宦官達は位階官職は高くてもまだまだ対抗勢力は多く専権を振るうようなことはなかった。

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