④.元和10年河東將劉輔等が豐州刺史燕重旰を殺した。節度使王鍔はその一派を誅して平定した。
事件の詳細は不明である。
⑤.會昌年間回紇帝国が崩壊し、残存勢力が南下し天徳・河東・幽州を犯した。節度使劉沔はこれを
撃破したが、幽州張仲武と功を争い、3年義成節度へ転任させられ、旧宰相の李石が後任となり、
昭義劉稹の鎮定にあたったが、4年正月都將楊弁が待遇を不満として反し、石を逐った。
しかし監軍呂義忠や都將王逢等がこれを鎮圧し、弁は誅された。
その後、大中・咸通年間を通じて文官や二流の武官が赴任し、牙軍の規律は弛緩し、北部には蕃族
が多く盤踞するようになって行き、乾符年間には軍乱が頻発するようになっていった。
事件の詳細は不明である。
⑤.會昌年間回紇帝国が崩壊し、残存勢力が南下し天徳・河東・幽州を犯した。節度使劉沔はこれを
撃破したが、幽州張仲武と功を争い、3年義成節度へ転任させられ、旧宰相の李石が後任となり、
昭義劉稹の鎮定にあたったが、4年正月都將楊弁が待遇を不満として反し、石を逐った。
しかし監軍呂義忠や都將王逢等がこれを鎮圧し、弁は誅された。
その後、大中・咸通年間を通じて文官や二流の武官が赴任し、牙軍の規律は弛緩し、北部には蕃族
が多く盤踞するようになって行き、乾符年間には軍乱が頻発するようになっていった。