唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宦官伝 梁守謙

2025-01-21 09:49:13 | Weblog

字は虛巳、大暦十四年[779]に生まれた。

曾祖晟、祖希倩は軍人であったが、父庭は不明。

本来は王氏だったが、祖母梁氏の養子となり梁姓。

貞元十四年[798]宦官となり、学識はあったようで、

二十一年[805]に任官、征事郎[正八品下]から內府局令充學士院使となる。

元和初には宣義郎[從七品下]掖庭局令に進み、四年[809]に朝議大夫[正五品下]內常侍となる。

さらに正議大夫[文官.正四品上]枢密使となり文書機密を扱った。

十一年[816]に喪免となるがすぐ奪情起復し、忠武將軍[武官.正四品上]知內侍省事となる。
ここで文官としての立場から武官[神策軍]に移行したことになる。

冬,淮西節度使吳元濟征討に際して、宰相裴度のもと監軍となり、雲麾將軍[従三品上]充行營招討使として活動した。

十二年[817]10月,吳元濟が平定されると、憲宗は守謙を派遣し、元濟の婦女や珍寶を捜させ、また元濟舊將の処置もさせた。

十三年[818]冠軍大將軍[正三品上]右監門衛上將軍右神策軍護軍中尉[左は吐突承璀]につき、軍權を握った。

十五年[820]馬進潭、梁守謙、魏弘簡等とともに高位の格式である門戟を立てることが許され、驃騎大將軍[從一品]兼右武衛上將軍となった。宦官達の家格が大きく上がったことになる。

正月、陳弘志と王守澄は中和殿で憲宗を弑逆し崩御したと宣し、左軍中尉吐突承璀と澧王をも殺した。これは皇太子の地位が危うくなった太子[穆宗]と外戚郭家との連携によると考えられる。右軍中尉守謙や韋元素等もその謀議に参与していた。

長慶元年[821]功績により安定郡開國公に封ぜられた。

十月、憲宗崩御の混乱を狙って吐蕃が侵攻してきた。守謙は充左右神策京西京北行營都監として神策軍を率いて防衛に当たった。穆宗即位時に神策軍を宥めるために莫大な賞賜が与えられ、それを知った外鎮の兵士達は不満で出征を拒み騒動を起こすこともあったが、吐蕃の侵攻はあくまで様子見であったたため大事にはいたらなかった。

二年[822]恩賞として邠國公食邑三千戶となった。

四年[824]開府儀同三司[文官.從一品]兼右衛上將軍に進んだ。
穆宗はこの年頓死し、その子幼少の敬宗が即位した。これが徹底した愚物であり、政治は宰相李逢吉が専断するしかなく、宦官達は敬宗の愚行に振り回された。

寶曆二年[826]12月、レスリングとポロ競技にしか関心がなく、気に入らないと側近にも暴力を振るい厳罰を与える敬宗に辟易した宦官劉克明等は敬宗を殺害し、絳王悟を擁立しようとした。
しかしこれは仲間うちだけの謀議であったので、宰相裴度や宦官主流派の中尉守謙・樞密使王守澄等は真面目な穆宗の弟江王涵[文宗]を擁立し、克明や絳王を誅殺した。

太和元年[827]3月、病身であった守謙は致仕し、樞密使王守澄に右軍中尉を譲った。

10月、守謙は私第で急死した。49才であった。揚州大都督が贈られた。

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唐宦官伝 吐突承璀

2025-01-19 10:58:39 | Weblog

字は仁貞。福建の出身である。

憲宗に太子時代より仕えて有能であり深く信任され掖庭局博士となった。

憲宗が即位すると急速に昇進し内常侍知内侍省事として内廷を支配した。

元和元年[806]11月、左監門将军左神策護軍中尉左街功德使として軍權を掌握し、蓟国公を与えられた。

四年[809]3月王承宗は父士眞没後に成德軍節度使を継承しようとしたが、憲宗はなかなか承認しなかった。結果的に成德軍管轄の恒冀深趙徳棣の六州のうち、徳棣二州を分離し保信軍節度使とし、士眞の婿である薛昌朝を任用するという妥協にいたった。成德軍の勢力を分割し、士眞の功績にも答えるという案であったが、承宗は赴任途中の昌朝を捕らえて六州を完全支配した。怒った憲宗は承宗を征討しようとした。
当時魏博・淄青・淮西などが反唐姿勢を示し、宰相達は征討に消極的であったが憲宗は昭義軍節度使盧従史や承璀の主戦論にのって、10月成德征討を開始した。

憲宗は官僚達の強い反対を押しきって、軍人ではなく宦官の承璀を鎮州行營招討處置等使として神策軍を主力として派兵した。ところが従史は成德や魏博に通じており、承璀の軍才不足もあり征討軍はしばしば敗れ、真面目に征討するのは義武軍張茂昭程度であった。

五年[810]4月結局従史に責任を押しつけて解任しただけで、承宗の六州領有を認めることになった。

9月承璀は帰任して左軍中尉にもどったが、官僚達はその失態を弾劾したため軍器使に格下げされることになった。

しかし承璀のへの信任と勢力が衰えることはなかった。

六年[811]11月羽林大將軍孫瑞が節度使就任を求めて弓箭庫使劉希光に贈賄したことが発覚し、希光は殺された。事実は左衛上將軍知内待省事承璀にむけたものだったため、宰相李絳などに弾劾されたが、承璀は富裕な淮南監軍に転出させられるだけだった。

九年[814]2月宰相李絳が解任されると、承璀は淮南より戻り左軍中尉に復帰した。

憲宗の皇太子は最初に立てた寧が六年に亡くなり、七年に元勲郭子儀の系統である郭貴妃の子遂王宥[後の穆宗]が立てられた。しかし極めて凡庸無能であり、承璀は澧王に替えることを進言していたが、郭家の権勢もあり憲宗は決断できなかった。

十三年[818]征討軍費の調達のため皇甫鎛や程异など財務官僚が重用され、それに反対する裴度や崔群達との軋轢が増加した。鎛等は承璀に贈賄して宰相となり、度や群は解任され外鎮に遷された。

淮西・成德・淄青を平定し、義武・横海・魏博は帰順し、幽州も歸順傾向にあり全国再統一が間近になった。しかし憲宗は道教に凝り、仙薬を服用して狂乱状態になるなど健康状態は悪化していった。

十五年[820]正月、皇太子廃位の機運が高まり、懼れた太子は外戚郭家に頼った。
反承璀派の宦官右軍中尉梁守謙や馬進潭、劉承偕、韋元素、王守澄等は謀議し、陳弘志に憲宗を弑逆させ、澧王や承璀も殺害し、皇太子を擁立して即位[穆宗]させた。
陳弘志にはなんの処罰もなく、真相を窺う神策軍兵士には莫大な賞賜を与えて抑えた。

穆宗の没後、部下であった馬存亮は敬宗に承璀の冤罪を訴え収葬させた。

憲宗の子であり、弑逆の事実を知っていた宣宗は承璀の養子士曄を登用し右軍中尉とした。

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唐宦官伝 竇文場

2025-01-05 18:11:59 | Weblog

文場については建中四年[783]に初めて記事が現れるまで出身も前歴もすべて不明だが、
德宗が皇太子時代に霍仙鳴とともに近侍していたことは間違いない。

德宗は即位すると藩鎭圧迫政策を発動し、山東梁崇義・成德李惟岳を亡ぼし、魏博田悦・淄青李納を追いつめた。
しかし幽州留後朱滔・恒冀觀察使王武俊が反し、長期戦となって財政が破綻していった。そして動員された涇原軍が冷遇に憤激してその帥姚令言を擁して乱し京師を寇掠した。
德宗は京師を棄てて近臣のみと奉天城に奔った。
涇原軍は京師にいた前鳳翔隴右節度使[幽州節度使]朱泚を擁立した。
麾下を引き連れて入朝していた泚は、關内諸軍に旧麾下達を持ち、その寛容さから多くの軍人の人気を得ていた。
そのためたちまち大きな勢力となり、德宗が籠城する奉天城を厳しく攻囲した。

代宗は輔國・朝恩ら宦官の禁軍掌握にこりて、武将達に禁軍を管轄させていた。
德宗もその方針を継続して武将白志貞に統轄させていたが、私腹をこやすために神策軍の職を市人に販売し、いざ奉天逃亡となると誰も招集に応ぜず。
近臣の宦官以外はほとんど随行するものがなかった。
そのため德宗は文場など子飼いの宦官に依拠するようになっていった。

興元元年[784]德宗は京師に復帰すると、親衛の神策軍を左右兩廂に分割し、竇文場と霍仙鳴を監神策軍左右廂兵馬使として監察させた。

貞元八年[792]左神策大將軍柏良器等はまた神策軍職を商人に売却しはじめた。監軍の文場は弾劾し良器等を逐い、権力を強めた。

十二年[796]六月,德宗は神策軍に護軍中尉を置き左軍を竇文場、右軍を霍仙鳴に担当させた。護軍中尉は監軍ではなく司令官である。
これにより宦官が兵権をにぎるようになり皇帝権衰亡へと進むようになった。

關内諸軍使・節度使は神策軍から派遣されるようになり文場達の権限は増大した。
河東行軍司馬李景略は威望があり、交代を懼れた節度使李說は文場に依頼し、豐州に天德軍防禦使を新設させ景略を任じた。

十四年[798]霍仙鳴は卒し、第五守亮が継いだ。

十六年[800]淮西呉少誠が反したが、征討軍は統制がとれず大軍であるにもかかわらず敗退した。そこで総指揮を置くことになり、文場は親任する夏綏節度使韓全義を推薦した。

しかし全義は勇猛であったが將才なく、監軍の宦官達に媚びて右顧左眄し、少数の淮西軍に連敗し敗走を重ねた。

十七年[801]正月
連勝する淮西呉少誠であったが財政的には困窮し、有利な情勢を保ったまま和約を求めた。
文場は自分の失態を隠すため德宗に敗勢を隠して、少誠が歸順を求めていると上奏した。
すでに老耄していた德宗はそれを認めた。
さすがに全義は恥じて入朝せず夏州に戻った。
皇太子[順宗]や群臣はその実態を知っていたが、文場の威勢に従うしかなかった。

文場は驃騎大將軍にまで昇進したが、朝廷内の悪評を感じとり、
九月、德宗の寿命があるうちに致仕し、副使楊志廉に中尉を譲った。

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