唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宦官伝 劉忠翼/清潭 

2024-12-07 08:42:22 | Weblog

本名は清潭。

董秀と共に代宗に仕えた寵遇をうけた。

寶應元年[762]九月
回紇登里可汗に使いしてなんとか史朝義征討の援軍を得た。回紇は唐を軽んじていたが利をみて応じた。

大暦六年[771]
回紇使節は、功績を頼んで傲慢となりしばしば京師で騒動を起こしたが、代宗は清潭を派遣して宥めるだけであった。

収賄により巨富を築いた。

淸潭は代宗の寵姫である貴妃獨孤氏を皇后に推し、その子韓王迵を太子としようとして、皇太子适を追い落とそうとした。しかし十年[775]十月貴妃獨孤氏は卒してしまった[皇后位は追贈]。

大曆十三年[778]五月
清潭は忠翼と賜名され特進に進んだ。

大曆十四年[779]五月
皇太子适が德宗皇帝として即位し、忠翼は兵部侍郎黎翰とともに流され、殺された。

七月
德宗は、元載、馬璘、劉忠翼の家が奢侈だとして壊させた。

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唐宦官伝 駱奉先

2024-12-05 08:34:52 | Weblog

武威郡姑臧の人、吐谷渾人

宦官となり、右驍衛大將軍に進み、元帥となった雍王适[代宗]に従い転戦し寵遇を受けた。

廣德元年[763]副元帥僕固懷恩軍の監軍となり、懷恩と義兄弟となった。

その後、河東節度使辛雲京と親しくなり、懷恩とは疎遠になった。

辛雲京は懷恩が回紇登里可汗と結託して造反していると奉先に説き、二人して代宗にその反を誣告した。

その後、奉先は懷恩の下に行き歓迎された。懷恩はさらに滞在を求めたが、奉先が帰ろうとしたのでその馬を隠した。奉先は懷恩の意図を誤解して脱走した。懷恩は慌てて追ってつれもどした。

その後また奉先は懷恩が必ず反すると上奏。

これを知った懷恩は「先に郭子儀が疑われて却けられ、また私が誣告されています。陛下は信用されませんよう」と反論したが、追いつめられ反旗を翻すことになってしまった。

その後奉先は軍容使となり畿內兵を管轄した。

永泰元年[765]江国公に進んだ。

鳳翔の監軍となった。

大歷十四年[779]卒した。

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唐宦官伝 董秀

2024-12-03 08:05:09 | Weblog

宦官達の専権に懲りた代宗だが、やはり宦官なしではなにもできなかったが、しかし軍權は宦官に握らせないようにしていった。それをまた覆したのは息子の德宗である。

秀は李輔國が誅されて以降、知枢密として内廷で活躍した。彼については出自等はなにも残っていない。

仲間の宦官駱奉先や劉忠翼、下級吏員だが実務を握る主書卓英倩潛と組んで、収賄に励み巨富を築いた。

樞密とは内廷で詔勅・文書等を取り扱う秘書的な仕事である。当然学問がいる。

一例として、隴右行軍司馬であった陳少游の記事が残っている。

少游は桂管觀察使に任ぜられた。昇任ではあるが桂管は遠隔の炎暑の地であり、少游は不満であった。

そこで少游は宰相元載の子で貪婪な仲武に贈賄するとともに。内廷の実権者董秀の自宅へ赴き、退庁してくるのを待った。
そしていきなり秀に「家中の人数は何人くらいおられますか、月にどれくらい費用がかかりますか?」と問うた。
秀は「出世すると、どんどん人が頼ってきて大変だ。今では月に錢千貫以上で、俸禄では賄えず苦労している」
少游「あなたのような貴人が金のことで苦労されるのは間違っています。いろいろな所から調達されているのでしょうが、私は自分一人で毎年五万貫を提供します。今大半はここにありますが、残りは任地に行ってから送りましょう」
秀は賄賂はせいぜい一万貫程度と思っていたのに、望外の申し出を聞いて歓喜した。
そして友人としての約を結び会食した。
そのとき少游が「せっかくこんなに好意を示していただけるのに、炎暑の桂管に赴任すれば再会できるかわからず残念です」と嘆いた。
秀はあわてて「あなたのような有能な人が、遠隔地に行くことはありません。少し待って下さい、良い所を探します」と言った。
宰相元載と董秀の暗躍により、少游の任地は桂管から、富裕な宣歙観察使に代わった。
少游は多額の贈賄を続け、浙東觀察使・淮南節度使という財地を歴任した。

大暦十二年三月
代宗は宰相元載を誅し、その党であった左衛將軍知内侍省事秀を杖殺した。

宦官は皇帝の奴隷であるため、官員と違い失脚するとほぼ間違い無く殺害される。

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唐宦官伝 魚朝恩 その5

2024-12-01 08:53:37 | Weblog

大曆五年正月
代宗と共謀した宰相元載は、鳳翔澤潞節度使李抱玉を山西澤潞に移鎭させ、朝恩派の陝虢節度使皇甫溫を転任させ朝恩を喜ばせたが、溫は既に裏切っていた。

載はさらに興平、武功、天興、扶風四縣を神策軍の管轄に移し、朝恩を喜ばせた。

二月
麾下の武将劉希暹は状況が悪化していることを知り、朝恩に警告した。
朝恩は不安に思ったが代宗皇帝がしきりに厚意を示すので警戒しなかった。

皇甫溫は入京し、周皓とともに謀議した。そして載は代宗から誅殺の許可を得た。

三月
代宗は宮中で酒宴を開き、朝恩を招いた。載は中書省を固めた。
宴終了後、帰ろうとする朝恩を捕らえて詰問した。朝恩は伏さなかったが、護衛のはずの皓らが殺害した。
朝恩は服罪して觀軍容等使を免ぜられ、内侍監に留まったが自殺したとされた。
葬儀費用として錢六百萬を賜った。

事件に坐していなかった禁軍将劉希暹、王駕鶴に御史中丞が加えられ安撫された。

皇甫溫は陝虢に戻り、周皓も賞され大僕卿にまでなった。

朝恩の党派裴士淹・第五琦等が左遷された。

朝恩亡き後、宰相元載の威權は急拡大したが。大暦十二年代宗は載を誅した。

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