常設の博物館でありながら見学者が絶えることはない人気のミュージアム。
それはそのまま戦艦大和に対する我々の尽きることのない関心の高さを表しています。
大和の設計図が手に入ったことからそれをアップするついでに少し語ってみたこともありますが、
正直なところ、少し調べたくらいではそもそも戦艦大和について語る資格はない、とつくづく思いました。
それこそ全身全霊で大和を愛し研究している一般の方がたくさんいるということの片りんを、
頂いたメールと、いまだに毎日大和設計図の画像を見に来る人数の多さから窺い知ったのです。
なぜ我々はこれほどまでに大和に魅かれるのか。
そんなことを考えながら、大和ミュージアムにやってきました。
入ってすぐに中央にある大和の模型。
ここは「大和ひろば」といいます。
大和ひろばから臨む公園。
前回探索した実物大体験公園です。
夏になると熱くなるので気を付けてくださいと注意書きの付いた犬のオブジェが見えます。
(説明っぽい・・・)
ここにはペリーの来航をはじめに海軍整備の時代に呉が「海軍の街」として発展しいく様子を中心にした
「呉の歴史」という展示室に大和の設計関係はじめ旧軍時代の歴史資料が展示されています。
しかし、そこは撮影禁止。
佐久間艇長の第六潜水艦の事故については、海軍兵学校跡の教育参考館でも資料が見られますが、
こちらはさらにスペースを広く取って、佐久間艇長の結婚写真なども見ることができます。
事故の一年前、佐久間艇長はこの美しい若妻を亡くしています。
佐久間艇長の死を妻が嘆くことにならなかったことだけが不幸中の幸いだったかもしれません。
続く資料展示は、海軍関係ばかりでなく、呉の町が文化的にも発展した様子についても、
郷土の音楽家や呉軍楽隊の活動、スポーツ、文学などを網羅していました。
呉の近くに広という駅があり、ここには海軍航空機の試作機関で、設計の権威的存在だった広工廠がありました。
特に金属製飛行艇の研究と製作においては独壇場とまで言われ、15式、90式飛行艇は、
ここで設計、開発されました。
発動機の研究も進められ、次々とエンジンの試作が行われたそうです。
ここで制作されたのがこのような飛行機です。
零式水上偵察機
97式3号感情攻撃機
感情攻撃機「彗星」
局地戦闘機「紫電改」
さて、メインの大和については、建造計画から建造過程の写真、設計図は勿論、
竣工記念の関係者の自筆サイン、ひっそりと極秘で行われた進水式の写真が見られます。
この進水式のとき、いつもなら行われる軍楽隊の演奏もなく、参加者の拍手バンザイもなく、
なんと呉市内では市民の耳目を引きつけるために、
早朝から偽装の海軍陸戦隊による市街戦演習が行われていたそうです。
それに続く大和の生涯では、呉の初空襲の際アメリカ軍偵察機の撮影した大和の姿や、
伝説の秀才臼渕磐大尉の超眉目秀麗のご尊顔など、初めて見る写真も多々ありました。
(写真を見てさらに『男たちの大和』の長嶋一茂=ミスキャストを確信)
時間があって一日いてもよければ、関係者による「大和」の証言を見るのもいいでしょう。
大和を作った人、大和の生存者の語る大和。
館内ではその映像が常に放映されて、見ることができます。
そして、一人ひとりの写真や名前の刻まれた壁。
「その最後のとき、第一艦橋のそばで軍刀を捧げるようにして立っていた姿が目撃されている」
ある下士官の写真に添えられたこの一文を読んだとき、ふいに涙が・・・。
今現在、北緯30度43分17秒、東経128度04分00秒にその姿をとどめる大和。
「海の墓標委員会」により1985年と1999年の2回にわたり行われた潜水調査によって、
海底の大和の姿が明らかになりました。
引き上げられたいくつかの遺品も、現物が展示され見ることができます。
靴、伝声管、どんぶり、キリンビールの瓶、士官室浴室のタイル床の一部、そしてラッパ。
写真禁止の部屋を出て、大型展示物の部屋に行くと、そこには零式艦上戦闘機や回天が展示されています。
中島82729号、零式艦上戦闘機六二型。
エンジンは栄三一甲型エンジンです。
いわゆる「星型エンジン」と言われる放射状に配置された気筒のもの。
航空用具も展示されています。
写真禁止の内部展示館には、新藤三郎海軍少佐の航空帽が展示されています。防弾ガラス。
三枚継ぎ合わせてあり、少なくとも射角の浅い弾は防護できそうですが、実際はどうだったのでしょうか。
特殊潜航艇「海龍」。
右側は兵学校の教育参考館横に展示されているもの。
なぜか英語表記。
回天十型試作タイプ。
この写真に写っているブルーのベストを着用しているのがボランティアの解説員です。
この展示の前には志願して回天に搭乗し、ウルシー湾に突入散華した慶応大学の
塚本太郎海軍大尉が、実家の経営する会社の録音設備にこっそり吹きこんで遺した、
肉声の遺言が聴けるスイッチがあります。
しばらく佇んでその若々しい、しかし思いつめたような声を聴いているだけで、
自然とこうべが垂れ、瞑目せずにはいられません。
不思議なことに、この回天を寄贈したのは
京都にある湯豆腐の店、嵯峨野。
?
搭乗員遺族の実家でしょうか。
と疑問を持ったところで検索してみると、これはかつてホノルルの中古自動車にあったものを
日本人が買い取って、どういう経緯でかこの嵯峨野の庭に展示されていたものだそうです。
大和ミュージアム開館の際、寄付されたもののようですね。
ところで大和のデッキに、人影を発見。これはいいとして。
これは何ですか?
この制服は海上自衛隊?というか、確か海保の制服ではないですか?
(最近「海猿」を観たばかりなので自信あり)
・・・・・大和艦上なんですから。第二種軍服を着せてあげてください。お願いします。
このときやっていた企画展と、写真を撮ってよかった数少ない展示。
当時から流行り出した「洋食」。
今と全く変わらない食堂メニュー。
一室だけの展示ですが、ここの部分だけ入場料が必要でした。
ところで、冒頭の問いです。
「大和が何故このように日本人に愛されるのか」
「大和だから」愛されるのか、日本人だから愛するのか。
この疑問は、館内の「未来へ」と名付けられた「大和シアター」で放映されていた
「はやぶさの帰還」のドキュメンタリーを観たとき、その一端が解かれた気がしました。
「はやぶさ、お帰り」と心の底からいとしげな声で探査機を労わる科学者たち。
はやぶさの撮った写真をみて涙ぐむ人たち。
たかが機械にこれほどの愛情を寄せるのは、我々日本民族が虫の声に哀れを感じ、
一週間で散る桜に人生を重ねて無常を感じる感性の持ち主であるからではないかと。
「中国人は人間を機械のように扱い、日本人は機械を人間のように扱う」
今回はやぶさに熱狂する日本人をある中国人がこのように評しました。
ひっそりと極秘のうちに生まれ、さしたる戦果をあげないうちに洋上特攻を命じられ、
ただ海の藻屑となるために出撃していった悲劇の艦(ふね)。
その大和に、はやぶさから受けるような「哀れ」を感じ、哀れさゆえに愛してやまないのは、
ただ我々が日本人であるからなのかもしれません。